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第四章
大地 3
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しかし、この道というやつが、とんでもない曲者だったのだ。目の前に視えているのに、行けども行けどもたどり着かない。けれど、それは道だけのせいにするわけにはいかない。僕がついつい道草をくってしまったのもあるのだから。
暗闇に目を凝らすと、至る所に幼いコウがいるのだ。愛らしくて仕方がない。つい顔がニヤついてしまう。するといきなり重力が増して、コウの気分が重くなる。
「どうして恥ずかしがるの? こんなにかわいいのに」と、僕が尋ねてもそっぽを向いて応えてくれない。だが、彼の自己肯定感がこんなにも低いのも、ある意味仕方がないのかもしれない、と進むにつれて解ってきた。
コウの環境――。
このなかで確固たる自我を打ち建てていくのは、大変だったろう。
コウのごく幼少期、おそらく本人の記憶にも残っていない頃の環境が、あの魂の彼岸だ。そこでコウは特殊な宗教教育を受けながら、物心つく3歳頃まで祖母に育てられたのだ。けれどその後両親のもとへ帰されてからは、コウは自我の基盤となる魂の故郷を隠され、禁じられて育つことになる。
幼いころはまだそれでも、彼は内的世界と外的世界とを行き来していた。だがそれも外的世界の悪意の声によって否定され、傷つけられ、自ら禁じることになってしまう。それが、僕が赤毛のアパートメントで見た夢の経緯だ。
往々にして、内的世界と外的世界の境界が薄く、僕の様に身を守る狡猾さも持ち合わせていなかった幼いコウは、外的世界から異物として排斥されることで、深い痛手を負ってしまったのだ。
そしてコウの両親は――。
こんな幼い子どもの内的世界をこうも否定するなんて、日本という国はどうなっているのだ、と唖然としてしまうほどだった。心を休め、癒すための中間領域までも認めない。まだ満足に喋ることもできない子どもに、字を書くことを教え、英語を教え、ピアノを弾かせ、大人たちがはやし立てて喜んでいるなんて――。
そのおかげでコウとの会話に苦労しないのかもしれないが、そこまでする必要があるのかという努力を、コウは強いられていたのだ。
その大元は彼の母親の血筋、特殊な家系からくる強迫観念が生みだしたものだったのだろう。彼女は、コウが内的世界に浸るのを徹底的に禁止したのだ。コウを勉強に追いたて、彼から自由に思考することを奪っていた。だがそれも、彼らが縛られるこの特殊な宗教的世界から、息子を守りたい一心ででもあったのだろう。そしてコウ自身も、そんな自分の抱える内的世界を、恐れ忌み嫌うようになっていた。
夜遅くまで小さなスタンドで灯りを照らし、机に向かってたった一人勉強に励むコウの背中を抱きしめた。
部屋はほどよく温まってはいるけれど、コウの心は凍りついている。冷え冷えとした空っぽの心を、コウは数式や英単語で埋めていく。まるで機械仕掛けの人形のように、決まった時間に決まった動作を繰り返す。ただ時を過ごすためだけに生きているのだ。知識を詰め込むことで存在の軽さに重しをつけて。この空気のなかに溶けてしまわないように。バラバラに解けて、散り散りに飛散してしまわないように。
そんなコウを、今この瞬間だけでも温めてあげたくて――。
こんな日々を飽きることなく繰り返していたのだ。赤毛に逢うまでは。
さすがに、この赤毛本来の姿、――いや、コウはこれも彼の持つイメージのひとつにすぎないと言ってはいたのだが――を目にした時には、腹を抱えて笑ってしまった。まさか、これが僕のライバルだと目くじらたてていた相手だなんて!
奴は指で弾き飛ばしてやりたくなるような、小さな火蜥蜴だったのだ!
少し、僕の愛用のマグカップのカメレオンに似ている。優しくて情緒的に幼いコウが、この新しい「友人」に愛着を持ち、夢中になったのも無理はない。このサイズなら、あのふてぶてしさも傲慢さも、ご愛嬌ですませられる。
僕はきっとこれから奴の顔を見るたびに、この事実を思いだしては笑ってしまうな。
とはいえ、赤毛の存在が僕の立場を脅かすことに変わりはない。奴の存在そのものが、コウにとって情緒的安定をもたらす大切な移行対象でもあったのだから。それを僕が否定した。コウがガタガタになるのも当然だったのだ。
と、こんなふうに僕が内省すると、赤毛が、いや今は火蜥蜴か――、それみたことかと自慢げに辺りを旋回する。赤い彗星のような尾を引いて、満天の星空に天体図を引き星座を描く。
この状態こそが、コウがその魂の故郷を奪われてから初めて見いだした、のびのびと遊ぶことのできる中間領域だ。
僕が嫉妬し、やみくもに禁止しようとしていた赤毛は、確かにコウ自身の大切な一部分だったのだ。
小さな火蜥蜴と一緒にロンドンにやってきたコウは、初めての一人暮らしに悪戦苦闘しながら、それでも楽しそうに暮らしていた。コウにとって奴の存在がどれほどのものだったのか、僕自身の感覚で知ることになるなんて、皮肉もいいところじゃないか。
だが、そんな申し訳なさを感じたのも、この場面を目にするまでのことだった。
*****
移行対象 …… 精神分析用語。主たる機能は、ストレスフルな状況で象徴的代理として、子どもの情緒を静穏化するもの。
暗闇に目を凝らすと、至る所に幼いコウがいるのだ。愛らしくて仕方がない。つい顔がニヤついてしまう。するといきなり重力が増して、コウの気分が重くなる。
「どうして恥ずかしがるの? こんなにかわいいのに」と、僕が尋ねてもそっぽを向いて応えてくれない。だが、彼の自己肯定感がこんなにも低いのも、ある意味仕方がないのかもしれない、と進むにつれて解ってきた。
コウの環境――。
このなかで確固たる自我を打ち建てていくのは、大変だったろう。
コウのごく幼少期、おそらく本人の記憶にも残っていない頃の環境が、あの魂の彼岸だ。そこでコウは特殊な宗教教育を受けながら、物心つく3歳頃まで祖母に育てられたのだ。けれどその後両親のもとへ帰されてからは、コウは自我の基盤となる魂の故郷を隠され、禁じられて育つことになる。
幼いころはまだそれでも、彼は内的世界と外的世界とを行き来していた。だがそれも外的世界の悪意の声によって否定され、傷つけられ、自ら禁じることになってしまう。それが、僕が赤毛のアパートメントで見た夢の経緯だ。
往々にして、内的世界と外的世界の境界が薄く、僕の様に身を守る狡猾さも持ち合わせていなかった幼いコウは、外的世界から異物として排斥されることで、深い痛手を負ってしまったのだ。
そしてコウの両親は――。
こんな幼い子どもの内的世界をこうも否定するなんて、日本という国はどうなっているのだ、と唖然としてしまうほどだった。心を休め、癒すための中間領域までも認めない。まだ満足に喋ることもできない子どもに、字を書くことを教え、英語を教え、ピアノを弾かせ、大人たちがはやし立てて喜んでいるなんて――。
そのおかげでコウとの会話に苦労しないのかもしれないが、そこまでする必要があるのかという努力を、コウは強いられていたのだ。
その大元は彼の母親の血筋、特殊な家系からくる強迫観念が生みだしたものだったのだろう。彼女は、コウが内的世界に浸るのを徹底的に禁止したのだ。コウを勉強に追いたて、彼から自由に思考することを奪っていた。だがそれも、彼らが縛られるこの特殊な宗教的世界から、息子を守りたい一心ででもあったのだろう。そしてコウ自身も、そんな自分の抱える内的世界を、恐れ忌み嫌うようになっていた。
夜遅くまで小さなスタンドで灯りを照らし、机に向かってたった一人勉強に励むコウの背中を抱きしめた。
部屋はほどよく温まってはいるけれど、コウの心は凍りついている。冷え冷えとした空っぽの心を、コウは数式や英単語で埋めていく。まるで機械仕掛けの人形のように、決まった時間に決まった動作を繰り返す。ただ時を過ごすためだけに生きているのだ。知識を詰め込むことで存在の軽さに重しをつけて。この空気のなかに溶けてしまわないように。バラバラに解けて、散り散りに飛散してしまわないように。
そんなコウを、今この瞬間だけでも温めてあげたくて――。
こんな日々を飽きることなく繰り返していたのだ。赤毛に逢うまでは。
さすがに、この赤毛本来の姿、――いや、コウはこれも彼の持つイメージのひとつにすぎないと言ってはいたのだが――を目にした時には、腹を抱えて笑ってしまった。まさか、これが僕のライバルだと目くじらたてていた相手だなんて!
奴は指で弾き飛ばしてやりたくなるような、小さな火蜥蜴だったのだ!
少し、僕の愛用のマグカップのカメレオンに似ている。優しくて情緒的に幼いコウが、この新しい「友人」に愛着を持ち、夢中になったのも無理はない。このサイズなら、あのふてぶてしさも傲慢さも、ご愛嬌ですませられる。
僕はきっとこれから奴の顔を見るたびに、この事実を思いだしては笑ってしまうな。
とはいえ、赤毛の存在が僕の立場を脅かすことに変わりはない。奴の存在そのものが、コウにとって情緒的安定をもたらす大切な移行対象でもあったのだから。それを僕が否定した。コウがガタガタになるのも当然だったのだ。
と、こんなふうに僕が内省すると、赤毛が、いや今は火蜥蜴か――、それみたことかと自慢げに辺りを旋回する。赤い彗星のような尾を引いて、満天の星空に天体図を引き星座を描く。
この状態こそが、コウがその魂の故郷を奪われてから初めて見いだした、のびのびと遊ぶことのできる中間領域だ。
僕が嫉妬し、やみくもに禁止しようとしていた赤毛は、確かにコウ自身の大切な一部分だったのだ。
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だが、そんな申し訳なさを感じたのも、この場面を目にするまでのことだった。
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移行対象 …… 精神分析用語。主たる機能は、ストレスフルな状況で象徴的代理として、子どもの情緒を静穏化するもの。
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