夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
167 / 219
第四章

虹のたもと 5.

しおりを挟む
 どれほど歩いたことだろう。
 霧が夜の闇を巻き込んで薙ぎ払っていく。そんな夜明けが訪れていた。

 緑の草原になだらかな丘。
 温かな満ち足りた美しい場所。

 柔らかな緑が輝き、ぬけるような蒼穹に鮮やかな虹の橋が架かる。


 足を止めてぼんやりとその風景に見入っていると、嬉しそうな犬の吠え声が僕を呼んだ。

「アレクサンダー!」

 腕を広げると一抱えあるゴールデンレトリバーが大地を蹴って飛びついてきた。僕が小学生のころに飼っていたアレクサンダーだ。地面に押し倒されたところで抱きしめる。頬を舐めるザラリとした舌は、この子が生きていたころと変わらず温かい。長生きしてお爺ちゃんになってから逝ったのに、一番元気で、一番生き生きとしていたころの姿そのままだ。だが、彼がいるということは――。

 一頻りじゃれついた後、彼は、クウン、クウンと鼻を鳴らし、悲しそうな声を出して首を振る。僕を咎めてでもいるように。

「ここはやはり、冥界の入り口、虹のたもとなんだね」

 賢い彼は、そうだというように頷いている。

「コウはここにいるの?」

 じっと、僕を見つめるつぶらな瞳はきょとんとしている。

 コウ――。そうか、この子には判らないんだ。思わずため息がついてでる。とたんにアレクサンダーが、クウンと申し訳なさそうな声をだす。

「いいんだよ。きみが悪いわけじゃない」

 彼の身体を抱きしめて芝の上に腰を据えたまま、ぼんやりと空に架かる虹を眺めていた。あまりにも不自然な、鮮明すぎる虹――。まるでホリゾントの空だ。

 僕は今、僕の内的世界の内側にいる。コウを捜し求めるあまりに、僕もアーノルドになったのだ。それでも、コウにもう一度逢えるのならそれもいいかな、という気がした。

 何もかも棄てて、コウと二人でここで暮らすのも――。

 クゥンと、アレクサンダーが鼻先をこすりつけてくる。コウみたいだ。そうか、コウはこういう仕草がこの子に似ていたんだ、と気づいて笑ってしまった。僕が笑うと、彼は頬をべろべろと舐めてくる。くすぐったくてますます笑った。

「わかった、わかったって、アレクサンダー。ありがとう、慰めてくれて」

 彼の首許をくすぐり、背中の毛をなでてやる。けれど彼は僕に戻れとでもいうように、鼻先で肩口を押してくるのだ。

 解っているよ。ここは生きている僕のいるべき世界じゃない。それに、どうにせよ、ここにいつまでも座りこんでいるわけにもいかない。

 まずは、コウを捜さなければ――。




 虹のたもとが、集合的無意識世界であるならば、コウは必ずここにいるはずだ。僕たちは、この深い意識の水底で繋がっているはずだから。
 どうやら僕はいまだに信じているらしい。僕がきみを想うように、きっと、きみも僕を想ってくれているのだ、と。

 ――だから僕はここにいる。きみに導かれて。


 これまでの僕は、この集合的無意識というオカルティックな側面を持つ考え方を信じたことはなかった。けれど今のこの状況下で、仮説の一つとして取り入れることができないほど、自分が柔軟性を欠いた人間だとも思わない。

 儀式魔術は、魔術師を深い自己催眠にかけトランス状態にまで陥らせ、集合的無意識にアクセスさせるための装置だといえる。魔術における儀式だけではない、すべての宗教で、信者を変性意識状態に導く道具として、暗闇、蝋燭などの不安定な光源、香、特殊な韻律が使われる。現代において、宗教的権力者の用いていた様式はすでに秘儀ではない。科学によって解析され有効性を認められたマインドコントロール手法なのだ。集団催眠によって陥った集合的無意識のなかで、人々は一つの意識を共有するかのような連帯感という錯覚を得る。

 僕が今ここにいるということは、仕掛けられたその錯覚のなかにいるということだ。ここは、イメージ通りの、不自然で、美しい、作り物の世界だ。僕の想像するアーノルドの内的世界そのままの。

 そしてそれは、コウの想像するアーノルドの内的世界でもあり、アーノルド自身の創り出した内的世界でもある。それぞれの思い描く世界が多重構造的に重なり合う場所――、それがこの個々の意識の深層にある大海、集合的無意識の観念だといえるかもしれない。

 だがこれは、僕にとってとても都合のよい解釈だ。実際の定義からはかなり逸脱していると思う。その辺りは帰ってから文献を探して確認しようと思う。今のところ僕はただ、僕のいる場所を定義づける理屈が欲しいのだ。

 コウを喪ったまま、放りだされて夢を見ているだけの自分なんて許せない。どうしたって、希望を探さずにはいられない。たとえそれが、確たる証左に則ったものでなかろうと――。




 髪を散らす向かい風に身をすくめ、腕で防いで丘の先を見通した。彼の館があるはずなのだ。

 高く見あげたホリゾントの空には、微細な光がチラチラと舞っている。まるで昼の空に輝く星のように。だがあの煌めきは――。




 カ、シャーンッ――!

 夢の世界の壊れる音が、僕の脳裏で響いている。


 その後思い至ったのは、アーノルドのノートに描かれていた二つの魔法陣の図だった。


 ――根拠もなにもないんだけどね。ぱっと見た限りでは、これって入り口と出口なのかな、て思った。

 
 鏡写しの二つの魔法陣。僕はこの意味を、もっと深く吟味するべきだったのだ。



 

しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

キンモクセイは夏の記憶とともに

広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。 小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。 田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。 そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。 純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。 しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。 「俺になんてもったいない!」 素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。 性描写のある話は【※】をつけていきます。

エートス 風の住む丘

萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」  エートスは  彼の日常に  個性に  そしていつしか――、生き甲斐になる ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?   *****  今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。  

キスから始まる主従契約

毒島らいおん
BL
異世界に召喚された挙げ句に、間違いだったと言われて見捨てられた葵。そんな葵を助けてくれたのは、美貌の公爵ローレルだった。 ローレルの優しげな雰囲気に葵は惹かれる。しかも向こうからキスをしてきて葵は有頂天になるが、それは魔法で主従契約を結ぶためだった。 しかも週に1回キスをしないと死んでしまう、とんでもないもので――。 ◯ それでもなんとか彼に好かれようとがんばる葵と、実は腹黒いうえに秘密を抱えているローレルが、過去やら危機やらを乗り越えて、最後には最高の伴侶なるお話。 (全48話・毎日12時に更新)

新しい道を歩み始めた貴方へ

mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。 そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。 その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。 あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。 あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?

公爵家の五男坊はあきらめない

三矢由巳
BL
ローテンエルデ王国のレームブルック公爵の妾腹の五男グスタフは公爵領で領民と交流し、気ままに日々を過ごしていた。 生母と生き別れ、父に放任されて育った彼は誰にも期待なんかしない、将来のことはあきらめていると乳兄弟のエルンストに語っていた。 冬至の祭の夜に暴漢に襲われ二人の運命は急変する。 負傷し意識のないエルンストの枕元でグスタフは叫ぶ。 「俺はおまえなしでは生きていけないんだ」 都では次の王位をめぐる政争が繰り広げられていた。 知らぬ間に巻き込まれていたことを知るグスタフ。 生き延びるため、グスタフはエルンストとともに都へ向かう。 あきらめたら待つのは死のみ。

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

離したくない、離して欲しくない

mahiro
BL
自宅と家の往復を繰り返していた所に飲み会の誘いが入った。 久しぶりに友達や学生の頃の先輩方とも会いたかったが、その日も仕事が夜中まで入っていたため断った。 そんなある日、社内で女性社員が芸能人が来ると話しているのを耳にした。 テレビなんて観ていないからどうせ名前を聞いたところで誰か分からないだろ、と思いあまり気にしなかった。 翌日の夜、外での仕事を終えて社内に戻って来るといつものように誰もいなかった。 そんな所に『すみません』と言う声が聞こえた。

処理中です...