夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第四章

儀式 8

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 彼とは、ほんの数日逢わなかっただけ――、だろうか。もっと長い間、逢っていなかったような気もする。毎日同じことが繰り返されるだけの時間の止まったようなこの館にいると、日にちも、曜日も、時間の感覚もまるで夢のなかのことのようで、上手く思いだせなくなってしまう。

 霧に包まれているような意識のまま、眼前に座るアーノルドを眺めていた。外界を映す視界すらも、紗の下りた先を見ているようではっきりしない。僕は彼の中間領域にいるのではなく、彼の内的世界そのものを膜を通して覗きこんでいるのだろうか。

 初めて彼に会った日から、彼は時の止まった内側にいる。十数年の年月は彼に変化を与えはしなかった。
 それだけの年月を先に使いこんでしまったかのように、彼はその年齢にはそぐわないほど老け込んでいた。これが自分の父親なのかと驚いたほどだ。若々しいスティーブと比べて、余計にそう感じてしまったのかもしれない。あるいはスティーブから聞かされていた彼が、永遠の少年を思わせるような純粋な魂の持ち主だと、僕には映っていたからだろうか。

 そんな日々一日のごとく定められた習慣の上を、ゼンマイ仕掛けの人形のようにただ巡るだけだった彼が、目に見て判るほど変化しているのだ。頬は削げ落ち、肌は青白く生気を失っている。禍々しい水銀鏡の瞳だけが変わりなく、鋭い光を放っている。


「お疲れのようですね。奥様の具合がよくないのでは?」と、僕は穏やかに聴こえるように心掛けて声音を落とす。
「そうなんだよ。さすがだね、先生。妻のうつが酷いんだ。食事もろくに取ろうとしない。先生に相談してごらん、と言ってはみたんだがね。私も仕事の手が離せなくて、ずっとついていてやるわけにもいかなくてね」

 コウは? コウへの執着はどうなっている?

 内心の苛立ちを晒すことがないよう努めてゆっくりと呼吸する。吐息交じりに話す彼に気づかうような眼差しを向け、神妙な面持ちで相槌を打つ。

「それはご心配ですね。僕でお力になれればいいのですが。それは例の、彼女の夢中になっていた対象――、少年の妄想のせいでしょうか?」

 彼はカトラリーを動かす手を止め、伏せていた面から目だけをぎょろりと僕に向けた。手首を返した拍子に立ちあげられたナイフが間接照明の光を跳ね、そこだけが妙に浮きあがって現実感を醸しだす。まるでこれからあのナイフを振るって、妻の妄想を切り出すかのようだ。

「ああ、そうなんだよ。あの子がね、家に帰りたいって駄々を捏ねるんだ。ここが彼の家なのにね」

 その静かな声音に、背筋が凍りつくようだった。彼はもう、コウを自分の子どもとして内的世界に取り入れてしまっているのだろうか。

「でも、もう大丈夫だ。彼は今日からちゃんと人間の世界に留まれるようになるんだよ。妻の妄想ではなくなるんだ」と、彼はまたカトラリーを操り、妄想ではなく、現実の鴨肉のローストを切り分けながら、無邪気な笑みを浮かべている。

 彼は今日、肉を食べるのか――。


 今夜、コウを彼の世界に具現化するための儀式を取り仕切るのに――。

 彼が潔斎儀礼をせず、肉食していることが気にかかった。そう、そしていつも以上にゆっくりと進むこの食卓の違和も。以前行ったことがあるとはいえ、ショーンがあれほど頭を悩ますほど複雑な手順の儀式なのだ。その直前によそ者である僕を招いて悠長に食事なんて、不自然ではないだろうか?

 彼はいつもと変わりなく饒舌に喋っている。いや、それ以上に機嫌がいいといえるかもしれない。話題はやはり彼の妻アビーのこと。そして、彼女の可愛がっている少年のことだ。
 彼を見出してから彼女がいかに元気に快活になったのかということ、けれど最近になって彼を喪うことを恐れるあまり、抑鬱的に塞ぎこむようになってしまったこと。

「だからね、私も彼女の想いを尊重してやることにしたんだよ。べつに私にその子が見えなくったっていいじゃないか。妻は病気なんだから。彼女がその少年相手のごっこ遊びで心穏やかでいられるなら、それでいいと思うことにしたんだよ」
「それで、お寂しくはありませんか?」

 つい、そんなことを尋ねてしまっていた。片時も彼女を傍から離すことのなかった彼が、今は僕とだけ向かい合っているのだ。人として認識されているかも判らない記号でしかない僕と――。

「彼女のためだからね。だがそれも、もう終わるんだよ。妖精のかけた魔法が解けて、私にもあの子が見えるようになるんだ。だから今日はそのお祝いだ。どうだね、先生も一緒に祝ってくれるだろう?」

 彼は僕を凝視して微笑み、高々とグラスを掲げた。

「乾杯! 私たち、幸せな家族に!」

 吐き気がしそうだ――。

 そんな想いを押し殺し、僕も赤ワインの揺れるグラスを持ちあげる。

「乾杯! あなたの美しい世界に――」


 永遠に、終わることのない茶番劇に――。


 


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