夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第四章

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 ――白雪姫の臨死体験は通過儀礼イニシエーションなんだよ。精霊界へ行くための。人間としての欲望と自分の身体を捨てなければ、異界へ行くことはできないんだ――。死と再生の繰り返し。境界を超えるための儀式でもあったんだよ。

 涼やかな緑の風が吹き抜ける。ざわめく。うねる。波打つ梢が光りを爆ぜる。

 ああ、これは夢だ。コウのいる幸せな夢。コウが彼の世界の話をしてくれたときの、記憶の、一瞬の断片。

「コウ」

 夢のなかのきみに呼びかけた。きみの声が聴こえたのに、きみの姿が見えないんだ。芝の緑から沸き立つ霧に阻まれて、僕は僕自身すら覚束ない。




 ――ドラコに教えてもらったんだ。彼の世界の伝承を。

 白雪姫のきみの解釈は、赤毛に教わったものだと言っていたね。境界を超えるための儀式としての臨死体験。欲望と身体を棄てるためのいにしえ通過儀礼イニシエーションだと。きみのこの眠りも、同じ通過儀礼としての儀式なのかな。きみはきみの意志で僕へと向かう欲動リビドーを棄て、境界を越えようとしているの? 魔術的世界に同一化して、きみの恐れをなかったことにしてしまいたいの?

 僕を棄てて。きみを愛する、すべてを棄てて。アーノルドが、僕を、スティーブを、彼の両親を、彼にかかわるすべてを棄てて、アビーだけを選んだように。きみは赤毛を選び、彼の指し示す道を歩むために身体をも棄てるの?

 僕には判らないんだ。きみの意志は奪われたのか、それとも自ら差し出したのか。

 死と再生のトリスケルの生贄に――。



 ――お前のトリスケルが、こいつを狂わせたんだ。


 僕の渦の律動はきみの琴線を掻き鳴らし、流れを堰き止め狂わせた。きみの欲動リビドーは逆回転し、未来から過去へ、生から死へと逆巻き始めた。欲望も身体もない始まりの一点を目指して。


 それが、トリスケルの持つ意味作用――。


 ――ケルトでは、太陽の死と再生のエネルギーを意味しているんだ。冬至の日に魂の復活を導くための――。


 アビーの魂を異界に閉じこめる儀式も、冬至に行われたはずだと言っていたね。アーノルドの望んだ死と再生の儀式。きみの眠りが死の疑似体験だというのなら、きみの魂も異界へと再び生まれようとしているの? 


 ――仮死状態で境界を越えさせたんだ。

 白雪姫のように、眠りによって境界を超えさせるという意味だとしたら――。



 ああ、違う。そうじゃない。僕のトリスケルがコウの無意識の境界を壊し、溢れさせてしまったんだ。トリスケルがコウを巻き込んだ。だから、赤毛がそんな彼の意識を身体に留めるために焔の図案で縛ったんだ。

 けれどおそらくあの時点では、赤毛の施した術は完成していなかったんだ。コウの身体の入れ墨タトゥーは、いまだに変化し続けているのだから――。

 
 ――コウ様は、まだここから出られてはいけませんとも!
 ――コウ様は、重く、重く、なってしまわれますとも!

 ――おやめになってくださいませ、アルバート様!


 津波のように記憶の飛沫が打ち寄せ、叩きつけ、覆いかぶさる。渦となって巻きこむ。引きずりこまれる。意識の底の底へ――。
 あまりの息苦しさに、繋がりかけていた断片が、切れ切れになって霧散してしまう。何かが、解りかけていた気がするのに――。

 僕はいつも、掴めない。
 苦しくて、震えて、喘いで、零れ落とすばかりだ――。

 通りすぎるだけの、時の狭間に――。


 黄昏の時。光と闇の。此岸と彼岸。淡い緑の霧を染める黄金色の残照。昼と夜の狭間。


 ――虹のたもとは、その狭間の時に在るんだ。

「コウ!」

 コウの声だ。確かにコウの声がした。ごうごうと唸りをあげる風がコウの声を運んできたのだ。

 ――僕はここにいる。僕を見つけて。

「待って! どこにいるんだ、コウ! コウ!」


 風が緑の霧を薙ぎ払う。とたんに足下から地面が消える。身体が傾いで立っていられない。無様に転んで這いつくばって、コウの名を呼んだ。

「コウ、返事をして!」

 緑の靄が僕を包み、視界を遮り聴覚を奪う。脚の下に感じるはずの地面がない。宙吊り状態でぐらぐらと揺れる。声を追いたいのに、蹴りあげる地面がない。手足は無為に空を切るだけ。



 落下――。



 びっしょりと泣き濡れていた。震えていた。怖くて。

 横にいるコウの身体を抱きしめた。動かない彼の身体にしがみついた。
 コウが欲しい。僕を受け入れて。支えて。温めて。埋めて。この空漠を。
 彼を抱きしめ夢中で探った。コウを。生きてここにいるコウを。

 どこにもいないコウを――。

 僕が探さなければならないのは、ここではない。コウは確かにこの身体のなかにいるのに、ここではないのだ。
 きっと僕は、定められた扉を見つけなければ、きみを見つけることはできない。


 それでも――。
 お願いだ。もう少しだけ、このままでいさせて。

 暁が、この無明の闇を払ってくれるまででいい。
 少しだけ、きみの鼓動を感じさせて。

 生きているきみを、感じさせて――。





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