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第四章
取り替え子 8.
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話が横道にそれてしまったことで、この会話は、それ以上進展することなく終わってしまった。僕たちは、互いにぎこちなくお茶を飲み、「それじゃ、おやすみ」といって別れた。戻りしなショーンは妖精の環について、もう少し調べて考察してみると言った。アーノルドの蔵書のなかで、それに関する記載をいくつか見かけたらしい。彼は今晩も寝室には向かわず書斎に泊まりこむつもりなのだろうか。それなら僕も、という思いも一瞬よぎったけれど、まず何よりも僕たちには、熱くなった頭を冷ます時間が必要だった。
寝室に戻り、コウの傍に座る。「コウ、ただいま」と呼びかける。
「嬉しくて、悲しくて、腹の立つことがあって、今日はロンドンの空のようにめまぐるしい一日だったよ」
話しかける。いまだ応えてくれないきみに。
「嬉しかったのは、夢でもきみに逢えたこと。悲しかったのは、それが夢だったこと。そして、腹が立ったのは――」
僕はショーンを信頼している。それはコウだって同じだと知っている。今の僕は、彼が僕を助けてくれていることに感謝しているし、こうしてコウを取り戻すという目的に向かって協力し共有している時間を、嫌だとか不快だとか思わない。それでも、彼の、あるいは彼らのコウに対する認識は、僕には到底受け容れることができない、腹立たしいものだったのだ。
ショーンはコウのなかに喪った妹を見出した。コウに妹を転移したのだ。だがそれは記憶のなかの生きている妹ではなく、「取り替え」られ、異界の住人となった妹の転移だったのだ。彼には理解の届かない何か。それは「気持ち悪いもの」という漠然とした恐怖すら内包する、アーノルドと同じ、彼の内的世界で作られた妄想の妹だ。コウは、妹という存在を生かし続けるための装置にすぎない――。
――アル、ありがとう。僕を気持ち悪がらないでくれて。
コウ、きみはどんな想いで、この言葉を口にしたの――。
彼らの眼差しが、きみにそんな恐怖心や自己嫌悪を刻みつけてしまったの?
彼らに映るきみが、本当のきみだと思ってしまったの?
彼らはたんに、自分の願望や不安をきみに投影しているのに過ぎないのに――。
コウ、僕を見て。僕に映るきみを見て。きみが僕にくれた愛でいっぱいだろ? それが本当のきみだよ。僕がきみのなかに、きみの愛に満ちた僕の自己像を見出したように、きみも、僕のなかに僕の愛で満たされているきみを見つけて。僕たちは同じ愛を巡回しあえる。僕は僕で、きみはきみだけど、同じ愛で満たされているんだ。
コウ、きみがどんな人間だって、僕はきみを恐れたりしないよ。
「それでも、僕では、きみの助けにはならないのかな――」
コウの頬にそっと手を当てる。柔らかな頬は、少し痩せてきている気がする。僕はいつまでコウをこの状態においておくつもりなのだろう――。赤毛の呪縛に囚われたままのコウを、助けることができないまま。
「コウ、きみの心は、今、どこにいるの?」
白い円環。その中にいたきみ。
きみは、前にもそんな魔術的な円のなかにいたことがあった。空に向かって高く、手を伸ばして――。
あのときも、僕はコウの喪失を予期して、恐怖していたじゃないか。
――コウが、空気に溶けてしまうんじゃないかと怖かったよ。
――あり得ないよ。僕がアルビーを置いていなくなるなんて、あり得ないもの。
きみはそう言ってくれたはずなのに。
あのとき、コウは誰に向かって手を伸ばし、どこへ行こうとしていたのだろう。僕には手の届かない魔術的世界に向かって? きっと今、その中心にコウはいる。
円環。環。指輪。きみと僕の――。火の精霊。赤毛。地の精霊。宝。子ども。
子ども――。僕はきみをとても幼い子どもだと思っていた。それなのに、そんなきみに欲情した。そんな自分が信じられなかった。自分でもまるで判らなかったんだ。どうして僕はこんなにもきみに惹かれるのか――。
可愛くて。どうしようもなく可愛くて。欲しかったんだ。自分のものにしたかった。今にして思えば、きみがいもしない赤毛の友人の話ばかりしていたから、僕に振り向かせたかっただけかもしれない。きみが、アーノルドのように思えていたんだ。ここにはいない相手に心を傾け、目の前にいる僕を見ようともしない。おそらく、きみへ初めに感じた感情は、きみにとっては理不尽な憎しみだ。だからわざときみを揶揄い、挑発して、ときに無視して、僕の方へと手繰り寄せた。
そして、あんな卑怯なやり方で、きみを征服したんだ。僕にはきみが僕を追いかけてくるのが解っていた。僕を拒めないことも。僕のために自分を投げだしてくれることも――。
僕はきみが考えるより、ずっとずるい人間なんだよ。
きみは、アーノルドのはずだったのに。愛という免罪符を掲げて、対象を閉じこめ支配する、身勝手なアーノルドのはずだったのに――。今まで僕を愛していると言った、たくさんのアーノルドと同じはずだったのに――。
きみは、きみだった。他の誰でもないきみだった。きみだけが、僕の内的世界で生き続けることのできた、ただ一人の人なんだ。
――きみに恋している。
きみが、あの日、僕にくれた言葉。
もう一度、この言葉を僕にくれる?
コウ、目を開けて。そしてもう一度、僕と、恋をしようよ。
寝室に戻り、コウの傍に座る。「コウ、ただいま」と呼びかける。
「嬉しくて、悲しくて、腹の立つことがあって、今日はロンドンの空のようにめまぐるしい一日だったよ」
話しかける。いまだ応えてくれないきみに。
「嬉しかったのは、夢でもきみに逢えたこと。悲しかったのは、それが夢だったこと。そして、腹が立ったのは――」
僕はショーンを信頼している。それはコウだって同じだと知っている。今の僕は、彼が僕を助けてくれていることに感謝しているし、こうしてコウを取り戻すという目的に向かって協力し共有している時間を、嫌だとか不快だとか思わない。それでも、彼の、あるいは彼らのコウに対する認識は、僕には到底受け容れることができない、腹立たしいものだったのだ。
ショーンはコウのなかに喪った妹を見出した。コウに妹を転移したのだ。だがそれは記憶のなかの生きている妹ではなく、「取り替え」られ、異界の住人となった妹の転移だったのだ。彼には理解の届かない何か。それは「気持ち悪いもの」という漠然とした恐怖すら内包する、アーノルドと同じ、彼の内的世界で作られた妄想の妹だ。コウは、妹という存在を生かし続けるための装置にすぎない――。
――アル、ありがとう。僕を気持ち悪がらないでくれて。
コウ、きみはどんな想いで、この言葉を口にしたの――。
彼らの眼差しが、きみにそんな恐怖心や自己嫌悪を刻みつけてしまったの?
彼らに映るきみが、本当のきみだと思ってしまったの?
彼らはたんに、自分の願望や不安をきみに投影しているのに過ぎないのに――。
コウ、僕を見て。僕に映るきみを見て。きみが僕にくれた愛でいっぱいだろ? それが本当のきみだよ。僕がきみのなかに、きみの愛に満ちた僕の自己像を見出したように、きみも、僕のなかに僕の愛で満たされているきみを見つけて。僕たちは同じ愛を巡回しあえる。僕は僕で、きみはきみだけど、同じ愛で満たされているんだ。
コウ、きみがどんな人間だって、僕はきみを恐れたりしないよ。
「それでも、僕では、きみの助けにはならないのかな――」
コウの頬にそっと手を当てる。柔らかな頬は、少し痩せてきている気がする。僕はいつまでコウをこの状態においておくつもりなのだろう――。赤毛の呪縛に囚われたままのコウを、助けることができないまま。
「コウ、きみの心は、今、どこにいるの?」
白い円環。その中にいたきみ。
きみは、前にもそんな魔術的な円のなかにいたことがあった。空に向かって高く、手を伸ばして――。
あのときも、僕はコウの喪失を予期して、恐怖していたじゃないか。
――コウが、空気に溶けてしまうんじゃないかと怖かったよ。
――あり得ないよ。僕がアルビーを置いていなくなるなんて、あり得ないもの。
きみはそう言ってくれたはずなのに。
あのとき、コウは誰に向かって手を伸ばし、どこへ行こうとしていたのだろう。僕には手の届かない魔術的世界に向かって? きっと今、その中心にコウはいる。
円環。環。指輪。きみと僕の――。火の精霊。赤毛。地の精霊。宝。子ども。
子ども――。僕はきみをとても幼い子どもだと思っていた。それなのに、そんなきみに欲情した。そんな自分が信じられなかった。自分でもまるで判らなかったんだ。どうして僕はこんなにもきみに惹かれるのか――。
可愛くて。どうしようもなく可愛くて。欲しかったんだ。自分のものにしたかった。今にして思えば、きみがいもしない赤毛の友人の話ばかりしていたから、僕に振り向かせたかっただけかもしれない。きみが、アーノルドのように思えていたんだ。ここにはいない相手に心を傾け、目の前にいる僕を見ようともしない。おそらく、きみへ初めに感じた感情は、きみにとっては理不尽な憎しみだ。だからわざときみを揶揄い、挑発して、ときに無視して、僕の方へと手繰り寄せた。
そして、あんな卑怯なやり方で、きみを征服したんだ。僕にはきみが僕を追いかけてくるのが解っていた。僕を拒めないことも。僕のために自分を投げだしてくれることも――。
僕はきみが考えるより、ずっとずるい人間なんだよ。
きみは、アーノルドのはずだったのに。愛という免罪符を掲げて、対象を閉じこめ支配する、身勝手なアーノルドのはずだったのに――。今まで僕を愛していると言った、たくさんのアーノルドと同じはずだったのに――。
きみは、きみだった。他の誰でもないきみだった。きみだけが、僕の内的世界で生き続けることのできた、ただ一人の人なんだ。
――きみに恋している。
きみが、あの日、僕にくれた言葉。
もう一度、この言葉を僕にくれる?
コウ、目を開けて。そしてもう一度、僕と、恋をしようよ。
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