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第四章
書斎 8
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その日の昼食に、彼は大幅に遅れてきた。几帳面な彼にしては珍しいことだ。食堂に現れた彼は服装も着崩れた作業着のままで、僕に対してまずはその非礼を詫びていた。
「家内にも煩く言われたんだがね、またすぐに仕事に戻らなくてはならないし、時間が惜しくてなね」と、彼は視線をあちこちに動かしながらまず彼女のための椅子を引き、継いで自分も落ち着かない様子で席につく。
「僕たちが、お仕事――、のお邪魔になっていないならいいのですが」
「ああ、気にしないで、先生。新しく来た先生の助手の――、何て言ったかな、彼、私にはいい刺激になってるよ。ここへ来る前にちょっと書斎に寄ってきたんだ。せっかくの昼食を彼だけ遠慮してもらわなくちゃいけないのが申し訳なくてね」
彼はちらりと隣の席に視線を流した。僕には見えない彼女を咎めているのか、憐れんでいるのか――。だがすぐに表情を和らげ、愛しげに変わるその眼差しが、僕には逆に痛ましくて堪らなかった。
これまでの僕にとって彼の妄想でしかなかった彼女が、彼の心に確かに映り存在しているのだと、初めて実感したのだ。
僕が今こうして狂った父と食卓を囲んでいるように、彼は狂った妻と暮らしてきたのだ。彼は彼の妄想世界で、僕を殺した罪を抱えて生きていたのだ、と、この時初めて気がついた。
彼女さえいればいい、それが彼の創りあげた世界のはずだったのに――。
その彼女は、彼の作りだした喪失を抱える存在なのだ。
「アビー、食事中くらい、彼のことは放っておきなさい。先生に失礼だよ」
トーンの下がった窘めるような声にびくりと緊張が走り、僕は面をあげた。カトラリーを握る手に無意識に力が入っていた。つい訝しんで彼を見つめてしまった僕の眼差しを、反射的に彼の瞳が捉える。ぎらぎらしい鏡のような瞳に、怯えたような幼い僕が映っている。
「失礼したね。彼女がろくに食べもせずに部屋に戻りたいと言いだしてね」
「前にお話されていた男の子のことでしょうか? その子に何か問題でも?」
きっとコウのことだ。このまま上手く話しを繋げて、コウがどんなふうに彼のなかに紐づけられているのか探らなくては。どう話を切り出すか迷っていた僕にとしては、この機会を逃すわけにはいかない。
「初めはね、こんなんじゃなかったんだよ。ね、アビー。先生に相談してみてはどうだい? きみに先生の言うことが上手く捉えられないようなら、私が通訳してあげるから。私の言うことを信じて。今のままでは、きみだって辛いだろ?」
僕に彼女が見えないように、彼女には僕が見えないし僕の声も聞こえない。アーノルドは、それは彼女の病気のせいだと思っている。そしてそんな彼女のために僕を心理士として認知した。
ところが今、彼の認知できない存在が、勝手に彼の内的世界に入りこんでいるのだ。それは明らかに彼を脅かしている。記号でしかなかった心理士としての僕を尊重するだけでなく、彼女の病気を彼女自身に対して暴きたてるほどに。彼は、人形を赤ん坊だと渡すことで、彼女を満足させていたはずなのに。
そう、コウに出逢うまでは――。
「ね、先生、そうでしょう?」
彼女が何か言ったらしい。
「すみません、聞き取りづらくて」
曖昧に笑って小首をかしげてみせた。
面倒なことに、彼は、僕には彼女が見えて、その声も聴こえていると思っているのだ。だがこれまでは、僕が聴いていようといまいと、返事をしようとしまいと、彼が僕に同意を求めることも、僕の意見を気にすることもなかったのだ。彼にとって重要なのは、かいがいしく彼女の世話をする自己像なのだ。その効果ではない。妄想の彼女は、彼の希望通りの反応しか示すことはなかったのだから。
「そうだろうね、家内は気もそぞろだから――。初めはね、近くを散歩している時に、ときおり出逢うだけだったんだよ。そうだろう、アビー? 滅多に他所から来た子に逢うことがないから驚いたんだったね。ところが最近になって、その子が裏の森で迷っているのを見つけて、家に連れ帰ってきたんだったね。家に帰りたがっているのに帰れないらしい、可哀想だって」
迷い子――。帰る家が判らない子ども。コウが、似たようなことを言っていた気がする。
「怪我をして動けない、その子はそれで奥さんのお世話を必要としているのでしょうか?」
今のコウのように。彼のなかに、コウの現状がなにか反映されているはずなのだ。
「そういう訳でもないんだよ。ね、アビー、彼はもうすっかり元気になったんだろ? きみはただその子が可愛くて仕方なくて、手放すのが嫌なんだ。こうしている間に、彼がどこかへ行ってしまうんじゃないかと気が気じゃなんだ。そうだろう、アビー?」
彼は空っぽの椅子を哀しげに眺め、目を細めて軽く吐息を漏らす。
「いいよ、かまわないよ、アビー。行っておやり。でも、スミス夫人に言って、彼のランチと一緒にもう少し何かお腹に入れること。約束だよ」
彼の視線がゆっくりと彼女の行く先を追いかけている。ああ、彼女は部屋を出ていったらしい。
深くため息をついて、おもむろに彼は僕を振り返った。
「すまないね。もうずっとこの調子なんだよ。家内はね、その子が妖精に取り換えられた自分の子どもだって言ってるんだよ。常若の国で妖精に育てられた子だから、私には見えないんだって。先生はどう思う? 家内があまりにも真剣に言うものだから、私はね、信じてやりたくなってきているんだよ。でもそれは、彼女のためには、よくないことなのだろうね?」
「家内にも煩く言われたんだがね、またすぐに仕事に戻らなくてはならないし、時間が惜しくてなね」と、彼は視線をあちこちに動かしながらまず彼女のための椅子を引き、継いで自分も落ち着かない様子で席につく。
「僕たちが、お仕事――、のお邪魔になっていないならいいのですが」
「ああ、気にしないで、先生。新しく来た先生の助手の――、何て言ったかな、彼、私にはいい刺激になってるよ。ここへ来る前にちょっと書斎に寄ってきたんだ。せっかくの昼食を彼だけ遠慮してもらわなくちゃいけないのが申し訳なくてね」
彼はちらりと隣の席に視線を流した。僕には見えない彼女を咎めているのか、憐れんでいるのか――。だがすぐに表情を和らげ、愛しげに変わるその眼差しが、僕には逆に痛ましくて堪らなかった。
これまでの僕にとって彼の妄想でしかなかった彼女が、彼の心に確かに映り存在しているのだと、初めて実感したのだ。
僕が今こうして狂った父と食卓を囲んでいるように、彼は狂った妻と暮らしてきたのだ。彼は彼の妄想世界で、僕を殺した罪を抱えて生きていたのだ、と、この時初めて気がついた。
彼女さえいればいい、それが彼の創りあげた世界のはずだったのに――。
その彼女は、彼の作りだした喪失を抱える存在なのだ。
「アビー、食事中くらい、彼のことは放っておきなさい。先生に失礼だよ」
トーンの下がった窘めるような声にびくりと緊張が走り、僕は面をあげた。カトラリーを握る手に無意識に力が入っていた。つい訝しんで彼を見つめてしまった僕の眼差しを、反射的に彼の瞳が捉える。ぎらぎらしい鏡のような瞳に、怯えたような幼い僕が映っている。
「失礼したね。彼女がろくに食べもせずに部屋に戻りたいと言いだしてね」
「前にお話されていた男の子のことでしょうか? その子に何か問題でも?」
きっとコウのことだ。このまま上手く話しを繋げて、コウがどんなふうに彼のなかに紐づけられているのか探らなくては。どう話を切り出すか迷っていた僕にとしては、この機会を逃すわけにはいかない。
「初めはね、こんなんじゃなかったんだよ。ね、アビー。先生に相談してみてはどうだい? きみに先生の言うことが上手く捉えられないようなら、私が通訳してあげるから。私の言うことを信じて。今のままでは、きみだって辛いだろ?」
僕に彼女が見えないように、彼女には僕が見えないし僕の声も聞こえない。アーノルドは、それは彼女の病気のせいだと思っている。そしてそんな彼女のために僕を心理士として認知した。
ところが今、彼の認知できない存在が、勝手に彼の内的世界に入りこんでいるのだ。それは明らかに彼を脅かしている。記号でしかなかった心理士としての僕を尊重するだけでなく、彼女の病気を彼女自身に対して暴きたてるほどに。彼は、人形を赤ん坊だと渡すことで、彼女を満足させていたはずなのに。
そう、コウに出逢うまでは――。
「ね、先生、そうでしょう?」
彼女が何か言ったらしい。
「すみません、聞き取りづらくて」
曖昧に笑って小首をかしげてみせた。
面倒なことに、彼は、僕には彼女が見えて、その声も聴こえていると思っているのだ。だがこれまでは、僕が聴いていようといまいと、返事をしようとしまいと、彼が僕に同意を求めることも、僕の意見を気にすることもなかったのだ。彼にとって重要なのは、かいがいしく彼女の世話をする自己像なのだ。その効果ではない。妄想の彼女は、彼の希望通りの反応しか示すことはなかったのだから。
「そうだろうね、家内は気もそぞろだから――。初めはね、近くを散歩している時に、ときおり出逢うだけだったんだよ。そうだろう、アビー? 滅多に他所から来た子に逢うことがないから驚いたんだったね。ところが最近になって、その子が裏の森で迷っているのを見つけて、家に連れ帰ってきたんだったね。家に帰りたがっているのに帰れないらしい、可哀想だって」
迷い子――。帰る家が判らない子ども。コウが、似たようなことを言っていた気がする。
「怪我をして動けない、その子はそれで奥さんのお世話を必要としているのでしょうか?」
今のコウのように。彼のなかに、コウの現状がなにか反映されているはずなのだ。
「そういう訳でもないんだよ。ね、アビー、彼はもうすっかり元気になったんだろ? きみはただその子が可愛くて仕方なくて、手放すのが嫌なんだ。こうしている間に、彼がどこかへ行ってしまうんじゃないかと気が気じゃなんだ。そうだろう、アビー?」
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