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第四章
魔術師 6.
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彼は朝からずっと作業場にいるらしい。昼食もそこで採るからと顔を出すこともなく、僕は今日まだ彼に逢っていない。
だからというわけでもないのだろうが、その日、僕はなにも手につかないまま、ただ苛々と無為に時をすごしていた。動かないコウをじっと見ているしかないのも辛くて、ぼんやりと館内を歩き回っていた。薄暗い廊下に張られた絨毯はそんな僕の足音を染みこませ、しんとすべてを呑みこむような静寂を保っている。
そのせいなのだろうか。耳鳴りのように鼓膜に刻まれてしまった振り子の音が、この日はとくに耳についた。僕のなかのこの古びた音は、僕の意志とは無関係に勝手に時を刻んでいる。
この音が聞こえだす度に、僕は思いだしたくもない様々なことをまったく唐突に思いだし、巻きこまれていくのだ。記憶の渦のなかに――。
中学校のいつ頃だったか、マリーに恋人ができた。スティーブに似た感じの、落ち着いた金髪の男の子だった。僕はその彼女の初恋の相手を誘惑して、彼女の恋をぶち壊した。
彼は何度か家に遊びにきていた。僕はその頃にはすでに大学の寮に移り、ジャンセン家を出ていたけれど、週末にはいつも戻っていた。何度目かに顔を合わせたときに誘ったら、彼は簡単に乗ってきた。これくらいの子どもなんて好奇心の塊だ。男も女も関係ない。知りたくてたまらない。ただそれだけだ――。
その日は平日で、アンナは家にいなかった。解っていたから僕はこの日を指定したんだ。じきにマリーが帰ってくる。彼女はどんな思いでこんな僕たちを見るのだろう。きっと泣くだろな。彼女はこいつを気に入っているもの。スティーブによく似たこいつの髪色が、彼女にささやかな幸せをくれていたから。
部屋のドアにわざと隙間を空けておいた。
玄関が開く。階段が軋む音がする。マリーは僕が今日家にいることを知らない。僕はわざと声をあげる。ベッドを軋ませる。彼女に聴こえるように。クスクス笑いが漏れて仕方がなかった。
階段が軋む音がする。振り子時計が時を刻む。
人の気配も足音も、絨毯に吸収され耳には届かないのに。
端から端までぐるりと回り、僕は居間へ下りていった。じきにお茶の時間だろう。彼が間に合うかどうか、判らないけれど。
マリーが幻想の恋を抱く度に、僕は邪魔をした。彼女のためだと思っていた。夢見がちなマリー、彼女はもっと現実を見るべきだ。
久しぶりにスティーブのいる週末だった。家族揃ってのお茶の時間だ。きみは新しい恋人を連れてきたね。ロマンチックな瞳をした男だった。きみの憧れるアーノルドのような。
アンナやスティーブの語る僕の両親ような、互いを失うことになれば生きていけないほどの、そんな恋に憧れていたね。そんな愛などありはしないのに。アーノルドは狂っているんだ。それだけのこと。他者にそんなものを求めるのは間違っている。
ほら、きみの連れてきた男は、きみではなくずっと僕を見ているだろ。幼いきみの相手をするより、より多くの快楽をくれる相手が欲しいんだよ。
賢くおなり、可愛いマリー。
僕はマリーの僕へよせる想いを知っていた。僕の承認を、僕の愛を常に求め続けていることを。だから僕は、絶対に彼女にそれを与えることをしなかった。彼女のなかの僕への渇望が透けて見えるとき、僕の乾きは癒されるように感じたからだ。
こんな僕への想いから逃れるために、次々と新しい男を探すマリー。そのたびに、僕に傷つけられて泣くマリー。僕は彼女を抱きしめ、キスをあげる。優しく彼女を慰める。可愛いマリー。スティーブとアンナの可愛いマリー。僕に恋しているマリー。
永遠に僕に愛されることのない、哀れなマリー。僕には与えられなかった両親の愛を、浴びるほど注がれて育まれてきた娘。きみがきみのなかに僕という喪失を抱えてくれたから、僕はあの家で生きてこれたんだ。
こんな僕の残酷な遊戯を咎め、止めさせてくれたのはバニーだった。彼との教育分析のなかで、マリーへ向けられていた僕の歪んだ願望に気づかされたのだ。
そして僕は彼女に飽きた。いや、飽きたというよりも――、彼女のなかに見ていた僕の喪失だけでは、満足できなくなったのだ。
バニーの見つけだしてくれた僕は、僕が認識していた以上の深い欲望を抱えていたのだから――。
居間のドアがノックされ、スミスさんが顔を覗かせる。
「坊ちゃん、お客さんがみえられたようですよ」
彼は緊張した面持ちで、そう告げていた。
だからというわけでもないのだろうが、その日、僕はなにも手につかないまま、ただ苛々と無為に時をすごしていた。動かないコウをじっと見ているしかないのも辛くて、ぼんやりと館内を歩き回っていた。薄暗い廊下に張られた絨毯はそんな僕の足音を染みこませ、しんとすべてを呑みこむような静寂を保っている。
そのせいなのだろうか。耳鳴りのように鼓膜に刻まれてしまった振り子の音が、この日はとくに耳についた。僕のなかのこの古びた音は、僕の意志とは無関係に勝手に時を刻んでいる。
この音が聞こえだす度に、僕は思いだしたくもない様々なことをまったく唐突に思いだし、巻きこまれていくのだ。記憶の渦のなかに――。
中学校のいつ頃だったか、マリーに恋人ができた。スティーブに似た感じの、落ち着いた金髪の男の子だった。僕はその彼女の初恋の相手を誘惑して、彼女の恋をぶち壊した。
彼は何度か家に遊びにきていた。僕はその頃にはすでに大学の寮に移り、ジャンセン家を出ていたけれど、週末にはいつも戻っていた。何度目かに顔を合わせたときに誘ったら、彼は簡単に乗ってきた。これくらいの子どもなんて好奇心の塊だ。男も女も関係ない。知りたくてたまらない。ただそれだけだ――。
その日は平日で、アンナは家にいなかった。解っていたから僕はこの日を指定したんだ。じきにマリーが帰ってくる。彼女はどんな思いでこんな僕たちを見るのだろう。きっと泣くだろな。彼女はこいつを気に入っているもの。スティーブによく似たこいつの髪色が、彼女にささやかな幸せをくれていたから。
部屋のドアにわざと隙間を空けておいた。
玄関が開く。階段が軋む音がする。マリーは僕が今日家にいることを知らない。僕はわざと声をあげる。ベッドを軋ませる。彼女に聴こえるように。クスクス笑いが漏れて仕方がなかった。
階段が軋む音がする。振り子時計が時を刻む。
人の気配も足音も、絨毯に吸収され耳には届かないのに。
端から端までぐるりと回り、僕は居間へ下りていった。じきにお茶の時間だろう。彼が間に合うかどうか、判らないけれど。
マリーが幻想の恋を抱く度に、僕は邪魔をした。彼女のためだと思っていた。夢見がちなマリー、彼女はもっと現実を見るべきだ。
久しぶりにスティーブのいる週末だった。家族揃ってのお茶の時間だ。きみは新しい恋人を連れてきたね。ロマンチックな瞳をした男だった。きみの憧れるアーノルドのような。
アンナやスティーブの語る僕の両親ような、互いを失うことになれば生きていけないほどの、そんな恋に憧れていたね。そんな愛などありはしないのに。アーノルドは狂っているんだ。それだけのこと。他者にそんなものを求めるのは間違っている。
ほら、きみの連れてきた男は、きみではなくずっと僕を見ているだろ。幼いきみの相手をするより、より多くの快楽をくれる相手が欲しいんだよ。
賢くおなり、可愛いマリー。
僕はマリーの僕へよせる想いを知っていた。僕の承認を、僕の愛を常に求め続けていることを。だから僕は、絶対に彼女にそれを与えることをしなかった。彼女のなかの僕への渇望が透けて見えるとき、僕の乾きは癒されるように感じたからだ。
こんな僕への想いから逃れるために、次々と新しい男を探すマリー。そのたびに、僕に傷つけられて泣くマリー。僕は彼女を抱きしめ、キスをあげる。優しく彼女を慰める。可愛いマリー。スティーブとアンナの可愛いマリー。僕に恋しているマリー。
永遠に僕に愛されることのない、哀れなマリー。僕には与えられなかった両親の愛を、浴びるほど注がれて育まれてきた娘。きみがきみのなかに僕という喪失を抱えてくれたから、僕はあの家で生きてこれたんだ。
こんな僕の残酷な遊戯を咎め、止めさせてくれたのはバニーだった。彼との教育分析のなかで、マリーへ向けられていた僕の歪んだ願望に気づかされたのだ。
そして僕は彼女に飽きた。いや、飽きたというよりも――、彼女のなかに見ていた僕の喪失だけでは、満足できなくなったのだ。
バニーの見つけだしてくれた僕は、僕が認識していた以上の深い欲望を抱えていたのだから――。
居間のドアがノックされ、スミスさんが顔を覗かせる。
「坊ちゃん、お客さんがみえられたようですよ」
彼は緊張した面持ちで、そう告げていた。
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