112 / 219
第四章
此岸 6
しおりを挟む
眠り続けるコウを見ているのは辛くて、切なくて堪らないのに、僕は彼から目を離すことができないでいる。手を伸ばせば触れられる距離に彼がいる。彼の柔らかな頬を撫で、口づけることができる。抱きしめることができる。絶対に僕を拒むことのないコウに、眩暈にも似た陶酔を覚える。
きみは、きっともう、こんな僕を愛してはくれないだろう。きみのなかにきみを閉じ込め、満足している身勝手な僕を――。
歪んだ欲望が、僕に正しい道筋を選ばせないよう囁きかける。なによりもまず、バニーに相談すべきなのに――。僕はいまだにここから動かない。端末を充電することもせず、放りっぱなしで。
僕の白雪姫に、毒の林檎を吐きださせようとはしない。
こんな僕は間違っている。
おそらく僕は、間違い続けているのだ。スティーブに、初めてこの館に連れてこられたときからずっと――。
生い茂る樹々の梢から落ちる木漏れ日が眩しかった。重苦しい塀。厳めしい鉄柵門。整然と刈りこまれた広い庭。そこかしこと降り積もる、雪の花。
初めて訪れた僕の生家は、茨に守られた御伽の国の城だった。
確かにここは、孤高の彼の城だったのだ。
誰も入ることも出ることも許されない、彼だけの閉じられた世界――。
スティーブは、13歳になる僕に、ようやく彼を引き合わせたのだ。
「この子がきみとアビーの息子だよ。大きくなっただろう」と彼は言った。
彼は、「そうかい。アンナは元気かい?」と応えた。そこからアンナとアビーの思い出話が始まった。
僕はじっと椅子に座って、話に耳をそばだてていた。緊張で身体を強張らせて、父という人を控えめに眺めていた。写真でしか知らない人。想像していたのとは違う。まるで違っていた。古い水銀鏡のような彼の瞳が、けして僕を見ないことに僕は気づいていた。彼が、スティーブの話してくれたような、優しい、奥ゆかしい人だとは僕には思えなかった。なぜだかとても、狂暴な人のように思えて怖かった。
「親子で積もる話もあるだろう」、とスティーブは僕の肩に手を置いて言い、席を外した。
ドアがパタンと閉まりスティーブの姿が消えると、彼は大きく息をついた。
「そんなに不機嫌にならなくてもいいじゃないか、アビー」
彼は彼の横の空いた席を見据えて話していた。当時の僕は、そこに置かれた人形に彼は話しかけているのだと思っていた。青いドレスのその人形は、同じものがスティーブの家のキャビネットに飾られている。僕はそれが「アビー」と呼ばれていることも知っていた。母の形見だということも。だが、それにしても彼の言動は奇妙だった。
「彼はきみのことを心配してこうして訪ねてくれているんだよ」
僕は息を殺して彼を見ていた。
「そうじゃない、そんなことはないよ、アビー」
彼は喋り続ける。僕の存在などいないかのように、一人で喋り続けている。
スティーブが戻ってくるまでずっと、彼は僕の目には見えない誰かを宥め続けていた。とても不思議な気分だった。僕は僕が本当にここにいるのか判らなくなっていた。無視されている、というのではないのだ。彼のうえには僕に対する負の感情さえ感じられなかった。
彼には僕は見えないんだ。そうとしか思えなかった。
スティーブが戻ってきてくれたとき、僕は心底ほっとしたんだ。彼は僕に温かい笑みを向けてくれたから。僕は僕を取り戻したような気がしたんだ。だからつい安心しきって、菓子皿にあったビスケットに手を伸ばして摘まみあげ、それを食べてしまった。
とたんに彼が立ちあがった。椅子から人形を取りあげて振りあげ、いきなり床に叩きつけた。カシャン、と陶器の割れる音がした。
「ああ、きみの言う通り、これはただの人形だった。きっと妖精の仕業だ。あの子はすり替えられてしまったんだ。でも大丈夫だよ、アビー。僕がすぐに取り返してきてあげるから。心配いらない。心配いらないよ、アビー」
そして彼はスティーブに、「申し訳ないが、今日はもう遠慮してくれないか。彼女の具合がよくないんだ」と、冷ややかな声で告げた。
いったい何が起こったのか、当時の僕にはまるで判らなかった。けれど、何かが彼の気に障ったのだということは解った。
僕がお菓子を食べたからだ、と結びついたのはもっと後のことだった。
館をでた門のところで、スティーブに「きみが悪いんじゃないんだ」と言われたからだ。
僕は必死で僕の悪いところを探した。僕の犯した間違いを探した。僕が引き受けることのできる責任を――。
僕は、認めたくなかったのだ。
スティーブが本当に抱きしめて「きみが悪いんじゃない」と言いたかった相手が、僕ではない、ということを。
コウが教えてくれた。
こうなったのはすべて彼のせいなのだ、と。彼の行なった魔術の儀式。彼の歪んだ欲望。責任のすべては彼にあったのだ、と。
だがスティーブは認めない。
親友がスティーブたちのいる現実を棄て、アビーとだけ生きる世界を望んだなどと、絶対に認めない。彼は死んだアビーの魂がアーノルドの魂を奪って連れ去ったのだと信じて疑わない。
悪いのはアビー。
スティーブは、本当は心の底で僕を憎んでいる。彼の親友を奪った彼女の息子、彼女に生き写しの僕のことを――。なによりも彼女が僕を生むことに意固地にさえならなければ、僕を諦めさえしていれば、アーノルドは、今も彼と同じ世界に生きていたはずなのだ。
僕は、スティーブに償わなければならない。
彼を苦しめる、母の代わりに――。
僕はもう、間違ってはならない。間違ってはならないのに――。
きみは、きっともう、こんな僕を愛してはくれないだろう。きみのなかにきみを閉じ込め、満足している身勝手な僕を――。
歪んだ欲望が、僕に正しい道筋を選ばせないよう囁きかける。なによりもまず、バニーに相談すべきなのに――。僕はいまだにここから動かない。端末を充電することもせず、放りっぱなしで。
僕の白雪姫に、毒の林檎を吐きださせようとはしない。
こんな僕は間違っている。
おそらく僕は、間違い続けているのだ。スティーブに、初めてこの館に連れてこられたときからずっと――。
生い茂る樹々の梢から落ちる木漏れ日が眩しかった。重苦しい塀。厳めしい鉄柵門。整然と刈りこまれた広い庭。そこかしこと降り積もる、雪の花。
初めて訪れた僕の生家は、茨に守られた御伽の国の城だった。
確かにここは、孤高の彼の城だったのだ。
誰も入ることも出ることも許されない、彼だけの閉じられた世界――。
スティーブは、13歳になる僕に、ようやく彼を引き合わせたのだ。
「この子がきみとアビーの息子だよ。大きくなっただろう」と彼は言った。
彼は、「そうかい。アンナは元気かい?」と応えた。そこからアンナとアビーの思い出話が始まった。
僕はじっと椅子に座って、話に耳をそばだてていた。緊張で身体を強張らせて、父という人を控えめに眺めていた。写真でしか知らない人。想像していたのとは違う。まるで違っていた。古い水銀鏡のような彼の瞳が、けして僕を見ないことに僕は気づいていた。彼が、スティーブの話してくれたような、優しい、奥ゆかしい人だとは僕には思えなかった。なぜだかとても、狂暴な人のように思えて怖かった。
「親子で積もる話もあるだろう」、とスティーブは僕の肩に手を置いて言い、席を外した。
ドアがパタンと閉まりスティーブの姿が消えると、彼は大きく息をついた。
「そんなに不機嫌にならなくてもいいじゃないか、アビー」
彼は彼の横の空いた席を見据えて話していた。当時の僕は、そこに置かれた人形に彼は話しかけているのだと思っていた。青いドレスのその人形は、同じものがスティーブの家のキャビネットに飾られている。僕はそれが「アビー」と呼ばれていることも知っていた。母の形見だということも。だが、それにしても彼の言動は奇妙だった。
「彼はきみのことを心配してこうして訪ねてくれているんだよ」
僕は息を殺して彼を見ていた。
「そうじゃない、そんなことはないよ、アビー」
彼は喋り続ける。僕の存在などいないかのように、一人で喋り続けている。
スティーブが戻ってくるまでずっと、彼は僕の目には見えない誰かを宥め続けていた。とても不思議な気分だった。僕は僕が本当にここにいるのか判らなくなっていた。無視されている、というのではないのだ。彼のうえには僕に対する負の感情さえ感じられなかった。
彼には僕は見えないんだ。そうとしか思えなかった。
スティーブが戻ってきてくれたとき、僕は心底ほっとしたんだ。彼は僕に温かい笑みを向けてくれたから。僕は僕を取り戻したような気がしたんだ。だからつい安心しきって、菓子皿にあったビスケットに手を伸ばして摘まみあげ、それを食べてしまった。
とたんに彼が立ちあがった。椅子から人形を取りあげて振りあげ、いきなり床に叩きつけた。カシャン、と陶器の割れる音がした。
「ああ、きみの言う通り、これはただの人形だった。きっと妖精の仕業だ。あの子はすり替えられてしまったんだ。でも大丈夫だよ、アビー。僕がすぐに取り返してきてあげるから。心配いらない。心配いらないよ、アビー」
そして彼はスティーブに、「申し訳ないが、今日はもう遠慮してくれないか。彼女の具合がよくないんだ」と、冷ややかな声で告げた。
いったい何が起こったのか、当時の僕にはまるで判らなかった。けれど、何かが彼の気に障ったのだということは解った。
僕がお菓子を食べたからだ、と結びついたのはもっと後のことだった。
館をでた門のところで、スティーブに「きみが悪いんじゃないんだ」と言われたからだ。
僕は必死で僕の悪いところを探した。僕の犯した間違いを探した。僕が引き受けることのできる責任を――。
僕は、認めたくなかったのだ。
スティーブが本当に抱きしめて「きみが悪いんじゃない」と言いたかった相手が、僕ではない、ということを。
コウが教えてくれた。
こうなったのはすべて彼のせいなのだ、と。彼の行なった魔術の儀式。彼の歪んだ欲望。責任のすべては彼にあったのだ、と。
だがスティーブは認めない。
親友がスティーブたちのいる現実を棄て、アビーとだけ生きる世界を望んだなどと、絶対に認めない。彼は死んだアビーの魂がアーノルドの魂を奪って連れ去ったのだと信じて疑わない。
悪いのはアビー。
スティーブは、本当は心の底で僕を憎んでいる。彼の親友を奪った彼女の息子、彼女に生き写しの僕のことを――。なによりも彼女が僕を生むことに意固地にさえならなければ、僕を諦めさえしていれば、アーノルドは、今も彼と同じ世界に生きていたはずなのだ。
僕は、スティーブに償わなければならない。
彼を苦しめる、母の代わりに――。
僕はもう、間違ってはならない。間違ってはならないのに――。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】
彩華
BL
俺の名前は水野圭。年は25。
自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで)
だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。
凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!
凄い! 店員もイケメン!
と、実は穴場? な店を見つけたわけで。
(今度からこの店で弁当を買おう)
浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……?
「胃袋掴みたいなぁ」
その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。
******
そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました

キンモクセイは夏の記憶とともに
広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。
小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。
田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。
そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。
純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。
しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。
「俺になんてもったいない!」
素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。
性描写のある話は【※】をつけていきます。
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿

エートス 風の住む丘
萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」
エートスは
彼の日常に
個性に
そしていつしか――、生き甲斐になる
ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?
*****
今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。
いとしの生徒会長さま
もりひろ
BL
大好きな親友と楽しい高校生活を送るため、急きょアメリカから帰国した俺だけど、編入した学園は、とんでもなく変わっていた……!
しかも、生徒会長になれとか言われるし。冗談じゃねえっつの!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる