夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第四章

此岸 6

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 眠り続けるコウを見ているのは辛くて、切なくて堪らないのに、僕は彼から目を離すことができないでいる。手を伸ばせば触れられる距離に彼がいる。彼の柔らかな頬を撫で、口づけることができる。抱きしめることができる。絶対に僕を拒むことのないコウに、眩暈にも似た陶酔を覚える。

 きみは、きっともう、こんな僕を愛してはくれないだろう。きみのなかにきみを閉じ込め、満足している身勝手な僕を――。

 歪んだ欲望が、僕に正しい道筋を選ばせないよう囁きかける。なによりもまず、バニーに相談すべきなのに――。僕はいまだにここから動かない。端末を充電することもせず、放りっぱなしで。

 僕の白雪姫に、毒の林檎を吐きださせようとはしない。

 こんな僕は間違っている。

 おそらく僕は、間違い続けているのだ。スティーブに、初めてこの館に連れてこられたときからずっと――。

 

 生い茂る樹々の梢から落ちる木漏れ日が眩しかった。重苦しい塀。厳めしい鉄柵門。整然と刈りこまれた広い庭。そこかしこと降り積もる、雪の花アイスバーグ
 初めて訪れた僕の生家は、いばらに守られた御伽の国の城だった。

 確かにここは、孤高のアーノルドの城だったのだ。

 誰も入ることも出ることも許されない、彼だけの閉じられた世界――。


 スティーブは、13歳になる僕に、ようやく彼を引き合わせたのだ。

「この子がきみとアビーの息子だよ。大きくなっただろう」と彼は言った。
 アーノルドは、「そうかい。アンナは元気かい?」と応えた。そこからアンナとアビーの思い出話が始まった。

 僕はじっと椅子に座って、話に耳をそばだてていた。緊張で身体を強張らせて、父という人を控えめに眺めていた。写真でしか知らない人。想像していたのとは違う。まるで違っていた。古い水銀鏡のような彼の瞳が、けして僕を見ないことに僕は気づいていた。彼が、スティーブの話してくれたような、優しい、奥ゆかしい人だとは僕には思えなかった。なぜだかとても、狂暴な人のように思えて怖かった。

「親子で積もる話もあるだろう」、とスティーブは僕の肩に手を置いて言い、席を外した。

 ドアがパタンと閉まりスティーブの姿が消えると、アーノルドは大きく息をついた。

「そんなに不機嫌にならなくてもいいじゃないか、アビー」

 彼は彼の横の空いた席を見据えて話していた。当時の僕は、そこに置かれた人形ビスクドールに彼は話しかけているのだと思っていた。青いドレスのその人形は、同じものがスティーブの家のキャビネットに飾られている。僕はそれが「アビー」と呼ばれていることも知っていた。母の形見だということも。だが、それにしても彼の言動は奇妙だった。

「彼はきみのことを心配してこうして訪ねてくれているんだよ」

 僕は息を殺して彼を見ていた。

「そうじゃない、そんなことはないよ、アビー」

 彼は喋り続ける。僕の存在などいないかのように、一人で喋り続けている。
スティーブが戻ってくるまでずっと、彼は僕の目には見えない誰かを宥め続けていた。とても不思議な気分だった。僕は僕が本当にここにいるのか判らなくなっていた。無視されている、というのではないのだ。彼のうえには僕に対する負の感情さえ感じられなかった。
 彼には僕は見えないんだ。そうとしか思えなかった。
 スティーブが戻ってきてくれたとき、僕は心底ほっとしたんだ。彼は僕に温かい笑みを向けてくれたから。僕は僕を取り戻したような気がしたんだ。だからつい安心しきって、菓子皿にあったビスケットに手を伸ばして摘まみあげ、それを食べてしまった。

 とたんに彼が立ちあがった。椅子から人形を取りあげて振りあげ、いきなり床に叩きつけた。カシャン、と陶器の割れる音がした。

「ああ、きみの言う通り、これはただの人形だった。きっと妖精の仕業だ。あの子はすり替えられてしまったんだ。でも大丈夫だよ、アビー。僕がすぐに取り返してきてあげるから。心配いらない。心配いらないよ、アビー」

 そして彼はスティーブに、「申し訳ないが、今日はもう遠慮してくれないか。彼女の具合がよくないんだ」と、冷ややかな声で告げた。

 

 いったい何が起こったのか、当時の僕にはまるで判らなかった。けれど、何かが彼の気に障ったのだということは解った。
 
 僕がお菓子を食べたからだ、と結びついたのはもっと後のことだった。
 館をでた門のところで、スティーブに「きみが悪いんじゃないんだ」と言われたからだ。
 僕は必死で僕の悪いところを探した。僕の犯した間違いを探した。僕が引き受けることのできる責任を――。

 僕は、認めたくなかったのだ。

 スティーブが本当に抱きしめて「きみが悪いんじゃない」と言いたかった相手が、僕ではない、ということを。


 コウが教えてくれた。
 こうなったのはすべてアーノルドのせいなのだ、と。彼の行なった魔術の儀式。彼の歪んだ欲望。責任のすべては彼にあったのだ、と。


 だがスティーブは認めない。
 親友アーノルドがスティーブたちのいる現実を棄て、アビーとだけ生きる世界を望んだなどと、絶対に認めない。彼は死んだアビーの魂がアーノルドの魂を奪って連れ去ったのだと信じて疑わない。

 悪いのはアビー。

 スティーブは、本当は心の底で僕を憎んでいる。彼の親友を奪った彼女の息子、彼女に生き写しの僕のことを――。なによりも彼女が僕を生むことに意固地にさえならなければ、僕を諦めさえしていれば、アーノルドは、今も彼と同じ世界に生きていたはずなのだ。


 僕は、スティーブに償わなければならない。
 彼を苦しめる、アビーの代わりに――。

 僕はもう、間違ってはならない。間違ってはならないのに――。




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