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第三章
迷路 8.
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シャラリ、とガラスの音がした。
その音に、反射的に頭をもちあげていた。腕の下には白いテーブルクロス。視界には白い壁紙。その横のオフホワイトのカーテンは束ねられて、閉じられた窓越しに明るい日差しに晒されたテラスが見える。僕はティーテーブルに突っ伏して眠っていたらしい。
ランチの皿が二つある。ローストビーフだ。それに赤ワインとペリエ。グラスがひとつ。そしてもうひとつ――、足下で粉々に砕け散っている。
頭がズンと重くてはっきりしない。なぜこんなところにいるのか思いだせなかった。ワインを飲んだ記憶はあるのだ。だけど、どこからが夢だったんだろう。
「アル。大丈夫?」
コウだ。振り向くと、ドアを開けたばかりの彼の心配そうな瞳が僕を見つめている。
「あまり寝てないから、悪酔いしちゃったのかな。薬、もらってきたよ」
「薬? なんの? 必要ないよ」
「でも、頭が痛いって――」と言いながら口をすぼませるコウに、「大丈夫だから」と笑ってみせる。
「あ、コウ、足下に気をつけて。寝ぼけてグラスを割ってしまったらしい」
「うん、片づけるよ」
「いいから」
かがみこんだ彼の腕を取って、立ちあがらせた。僕はここで何をしているのだろう。そして、コウはなぜここにいるのだろう。
コウ越しに目に入ったキャビネットの花が、酷く甘い香りを漂わせている。ここは、昨夜僕たちが使った部屋じゃない。あの部屋にこんな白薔薇は置かれていなかった。そしてその後ろのモノクロームの額ぶち。部屋に調和したモダンな都市の写真。こんなものはなかったはずだ。
「先に食べよう」
混乱した記憶に圧し潰されような違和感を抱えたまま、コウを椅子に座らせた。革靴の下で、ガラスの破片がパリパリと音を立てている。
「夢を見ていたような気がするんだけど、よく覚えてないんだ」と、そんな話をコウとしていた。コウは、僕の頬にシャツの痕が残っている、と笑っていた。痕がつくほど長く寝ていたんだねって。
「コウがなかなか戻ってこないからだよ」
「旅行の間の家のことを頼んでたんだ。いろいろ話しこんじゃって」
僕はきっと不機嫌な顔をしたのだろう。コウはカトラリーを操る手を止めて「ごめん」とすぐに謝った。
「旅行から戻ったらすぐに、マリーのご両親が帰国するだろ? だから、どうしても気になっちゃってさ」
スティーブ――。若かったな。ちょっとバニーに似ていた。今までそんなふうに思ったことはなかったのにな。
そんなことを考えている自分に、はっとした。
「そうか、スティーブが夢に出てきたんだ」
目を細めてそれ以上の記憶を探した。けれど、やはり思いだせない。コウは顔を伏せて黙々と食べている。
あまり会話しなかった。食べ終わるとまた、「疲れてるみたいだよ。ゆっくりしていて」とだけ言って、コウは僕を残して部屋を出ていった。
僕はまた、なにも言えないまま――。
ティーテーブルから離れて、ベッドにゴロリと横たわった。白い天井に真鍮のシャンデリアがぼやりと浮かぶ。ドロップ型のガラスの飾りをふんだんに使った、何層ものデコレーションケーキを逆さにしたような――。あの家のシャンデリアをなぜ今ごろになって思いだすのだろう。
スティーブの帰国が近いからか。
きっとまだ、彼に告げていないからだ。僕はもうあそこへは行かないってことを。きっと彼は僕に失望する。そんなスティーブがまざまざと浮かぶ。それでも――。
考えたくないことを考え続けるには、僕は疲労しすぎていたらしい。またすぐに、うつらうつらと眠りに落ちてしまっていた。
次に目が覚めたときには、窓の外は夕陽に染まっていた。もうそんな時間なのかと飛び起きた。
コウは――?
どうして起こしてくれなかったのだ、と嫌な予感がよぎっていた。
窓が開いていた。オフホワイトのカーテンが暖色に染まり揺れている。真っ赤な空が、僕にエリックの言葉を思いださせた。
――早く来いよ、アル。陽が落ちるまでにさ。夕暮れ時が一番見ものなんだ。
テラスから見えるロンドンの街並みは、まるで燃えているようだ。
コウ――。
窓もカーテンもどれも開け放たれている。室内は一目で見渡せる。僕はテラス側から一部屋一部屋に目を配り、コウを捜した。
いた。
ほっと吐息が漏れていた。
一番端のトレーニングルームのマシーンの陰に、深紅のマットに横たわる華奢な半身とさらさらの黒髪が見えたのだ。うたた寝しているみたいだ。部屋全体を染めあげている西日を浴びて、コウも金赤色だ。柔らかいのに眩しいほどの光に包まれて、とても気持ちよさそうに安らいでみえる。
かわいい。
コウが、まさかこんなところで身体を鍛えているとはとても思えなかったけれど。あまりに意外すぎて、つい笑みが零れてしまったよ。
なかに入ろうと、ここだけは閉められていた一枚板のガラス戸に歩みよった。
と、コウがクスクスと笑いだした。手で何かを払いながら。おかしそうに笑って、何か言っている。ここからは、マシーンが邪魔で、彼がどうして笑っているのかよく判らない。
「だめだよ、ドラコ、くすぐったいって」
ガラス戸をスライドさせたとたん、そんなコウの声が耳に届いた。
コウに覆いかぶさっていた赤毛が、彼の上で半身を起こしたところだった。コウはまだクスクス笑っている。両腕を頭の上に伸ばして、弛緩しきって。
悦んで、笑っているのだ。
僕の目の前で――。
その音に、反射的に頭をもちあげていた。腕の下には白いテーブルクロス。視界には白い壁紙。その横のオフホワイトのカーテンは束ねられて、閉じられた窓越しに明るい日差しに晒されたテラスが見える。僕はティーテーブルに突っ伏して眠っていたらしい。
ランチの皿が二つある。ローストビーフだ。それに赤ワインとペリエ。グラスがひとつ。そしてもうひとつ――、足下で粉々に砕け散っている。
頭がズンと重くてはっきりしない。なぜこんなところにいるのか思いだせなかった。ワインを飲んだ記憶はあるのだ。だけど、どこからが夢だったんだろう。
「アル。大丈夫?」
コウだ。振り向くと、ドアを開けたばかりの彼の心配そうな瞳が僕を見つめている。
「あまり寝てないから、悪酔いしちゃったのかな。薬、もらってきたよ」
「薬? なんの? 必要ないよ」
「でも、頭が痛いって――」と言いながら口をすぼませるコウに、「大丈夫だから」と笑ってみせる。
「あ、コウ、足下に気をつけて。寝ぼけてグラスを割ってしまったらしい」
「うん、片づけるよ」
「いいから」
かがみこんだ彼の腕を取って、立ちあがらせた。僕はここで何をしているのだろう。そして、コウはなぜここにいるのだろう。
コウ越しに目に入ったキャビネットの花が、酷く甘い香りを漂わせている。ここは、昨夜僕たちが使った部屋じゃない。あの部屋にこんな白薔薇は置かれていなかった。そしてその後ろのモノクロームの額ぶち。部屋に調和したモダンな都市の写真。こんなものはなかったはずだ。
「先に食べよう」
混乱した記憶に圧し潰されような違和感を抱えたまま、コウを椅子に座らせた。革靴の下で、ガラスの破片がパリパリと音を立てている。
「夢を見ていたような気がするんだけど、よく覚えてないんだ」と、そんな話をコウとしていた。コウは、僕の頬にシャツの痕が残っている、と笑っていた。痕がつくほど長く寝ていたんだねって。
「コウがなかなか戻ってこないからだよ」
「旅行の間の家のことを頼んでたんだ。いろいろ話しこんじゃって」
僕はきっと不機嫌な顔をしたのだろう。コウはカトラリーを操る手を止めて「ごめん」とすぐに謝った。
「旅行から戻ったらすぐに、マリーのご両親が帰国するだろ? だから、どうしても気になっちゃってさ」
スティーブ――。若かったな。ちょっとバニーに似ていた。今までそんなふうに思ったことはなかったのにな。
そんなことを考えている自分に、はっとした。
「そうか、スティーブが夢に出てきたんだ」
目を細めてそれ以上の記憶を探した。けれど、やはり思いだせない。コウは顔を伏せて黙々と食べている。
あまり会話しなかった。食べ終わるとまた、「疲れてるみたいだよ。ゆっくりしていて」とだけ言って、コウは僕を残して部屋を出ていった。
僕はまた、なにも言えないまま――。
ティーテーブルから離れて、ベッドにゴロリと横たわった。白い天井に真鍮のシャンデリアがぼやりと浮かぶ。ドロップ型のガラスの飾りをふんだんに使った、何層ものデコレーションケーキを逆さにしたような――。あの家のシャンデリアをなぜ今ごろになって思いだすのだろう。
スティーブの帰国が近いからか。
きっとまだ、彼に告げていないからだ。僕はもうあそこへは行かないってことを。きっと彼は僕に失望する。そんなスティーブがまざまざと浮かぶ。それでも――。
考えたくないことを考え続けるには、僕は疲労しすぎていたらしい。またすぐに、うつらうつらと眠りに落ちてしまっていた。
次に目が覚めたときには、窓の外は夕陽に染まっていた。もうそんな時間なのかと飛び起きた。
コウは――?
どうして起こしてくれなかったのだ、と嫌な予感がよぎっていた。
窓が開いていた。オフホワイトのカーテンが暖色に染まり揺れている。真っ赤な空が、僕にエリックの言葉を思いださせた。
――早く来いよ、アル。陽が落ちるまでにさ。夕暮れ時が一番見ものなんだ。
テラスから見えるロンドンの街並みは、まるで燃えているようだ。
コウ――。
窓もカーテンもどれも開け放たれている。室内は一目で見渡せる。僕はテラス側から一部屋一部屋に目を配り、コウを捜した。
いた。
ほっと吐息が漏れていた。
一番端のトレーニングルームのマシーンの陰に、深紅のマットに横たわる華奢な半身とさらさらの黒髪が見えたのだ。うたた寝しているみたいだ。部屋全体を染めあげている西日を浴びて、コウも金赤色だ。柔らかいのに眩しいほどの光に包まれて、とても気持ちよさそうに安らいでみえる。
かわいい。
コウが、まさかこんなところで身体を鍛えているとはとても思えなかったけれど。あまりに意外すぎて、つい笑みが零れてしまったよ。
なかに入ろうと、ここだけは閉められていた一枚板のガラス戸に歩みよった。
と、コウがクスクスと笑いだした。手で何かを払いながら。おかしそうに笑って、何か言っている。ここからは、マシーンが邪魔で、彼がどうして笑っているのかよく判らない。
「だめだよ、ドラコ、くすぐったいって」
ガラス戸をスライドさせたとたん、そんなコウの声が耳に届いた。
コウに覆いかぶさっていた赤毛が、彼の上で半身を起こしたところだった。コウはまだクスクス笑っている。両腕を頭の上に伸ばして、弛緩しきって。
悦んで、笑っているのだ。
僕の目の前で――。
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