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第三章
迷路 4.
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寝室へ戻ってコウをもう一度寝かしつけた。添い寝して髪を撫でていただけで、彼は自然と眠りに落ちていた。僕のせいで疲弊しきっていたからだね。だけどきっと、コウは先よりは少しだけ安心できていたと思う。たぶん――。僕がそう思いたいだけかもしれないけれど。
コウの横で僕までもが寝てしまう気にもなれなくて、着替えの服が欲しかった。かといって、コウを残してこの部屋を離れるのも嫌で、隣接するクローゼットルームを適当に漁った。ズラリと並ぶハンガーには、赤毛のものとは思えない服が山とかかっている。エリックのものかもしれない。彼はしばらくここに住んでいたと言っていたから。彼なら僕とそうサイズも違わない。それに服の二着や三着、借りたところで文句も言わないだろう。
バスローブを脱ぎすてて、壁の鏡に全身を映してみた。エリックのつけた痕を確認しておかなければ。コウに気づかれることのないように。
バニーが呆れるのも無理はない。こんな、汚らしい痕になっているなんて。とてもコウに見せれるものじゃない。だが僕はこれと同じ、僕自身の身勝手な汚らしい情動の痕跡をコウの身体に残したのだ。堪らない。自分がエリックと同じだなんて。
それにしても、こんなふうにまざまざと自分を眺めることはしばらくなかったような気がする。エディの店でヘナタトゥーのチェックをして以来だろう。
不快さを押し殺して、身体を捻って鏡に背中を映しみた。驚いた。中心になるトリスケルが、こんな蛍光緑になっているなんて。
コウのせいだ、などとは思わないが、繊細な彼がこの模様の呪術的な意味と自分とを関連づけて病んでしまったのも解る気がする。気持ち悪いとまでは思わない。だが確かに心の奥底を脅かすような怪しさが、この模様にはあったのだ。そしてそれは、コウに刻まれた火焔にも感じられたもの。だけど、
気持ち悪い――。
はたしてコウは、そんな意味合いで言ったのだろうか。
僕の身体のこの模様を気味悪く思い、そう思うことが彼のなかに僕への罪悪感を引き起こした。そうして不安に転化された彼の罪悪感を打ち消すために、赤毛は同じくコウにも模様を刻み彼の不安を中和した。
違うような気がする。コウの言っている意味とは。
こうしていくら考えてみたところで、コウがなぜ、僕が彼を「気持ち悪がる」と言ったのかが判らない。僕はこの言葉に繋がるような態度を彼に対して取ったことはない。それだけは間違いないはず。
つまるところ、赤毛の方が僕よりもよほどコウを理解しているということなのか。けれどこれは、決してコウのため、というだけではなかったはずだ。コウの不安を見ぬいたうえで、赤毛は僕から彼を引き離したのだ。そして、その理解の差を僕に見せつけるためにこんなマネをしてみせた。
機械的にスラックスを穿き、糊のきいた上質のリネンのシャツを素肌に羽織った。ため息がでていた。僕には読み解けないコウと赤毛の関係性が、僕を苛立たせていた。けれどそれは以前のような激しい怒りではなく、なんだろう、諦観を含んだ悲しみにも似たもので――。
どうすればもっとコウから素直な言葉を引き出せるのだろう? 赤毛が知っているのと同じだけの情報を。
バニーならどうするだろう? どうやってコウの心を解して安心させ、彼の内的世界を覗きこむ?
スツールに腰かけて、ぼんやりと彼の思考を追ってみる。鏡に向かって問いかけた。彼の銀灰色の双眸を思い浮かべながら。
「きみなら、コウの言葉をどう解釈する?」
――きみらしくもないね、アル。そんな単純なことが判らないなんて。
きっと彼ならそう言って笑う。ちょっと呆れたように眉を持ちあげて。
「どうしても判らないんだ、バニー」
――以前にも、彼は同じような反応を示したことがあったんじゃないのかい? よく思いだしてごらん。
こんなことを言われたことは……。
と、突然、脳裏に怯えるコウの姿が浮かんでいた。
いつだ? いつだった? ああ、そうだ。父の家へ行く途中の――。
電車のなか。
「きみは、そんなにも他人から否定されてきたんだね」
震える彼を抱き寄せて、僕は確かそう言ったのだ。
コウは、気持ち悪い、と言われたのだ、誰かに。
誰が、そんな酷いことを彼に向かって言ったんだ?
コウの臆病さは、そんな言葉からきていたのか。
そんな、気持ち悪いなどと……。
なぜ?
いったいなにが、コウのトラウマの引き金を引いた? あの火焔の入れ墨以外に考えられない。彼はそれに気づき、僕の部屋から逃げだしたのだから。そして、僕に告白するためにもう一度僕のところへ来てくれた。あんなにも怯えながら。
気持ち悪いのは――、入れ墨。
でもなぜ? コウの意志じゃなかった。入れ墨が、あるいは火焔の模様が引き起こすであろう、僕の感情を怖れていた? 嫉妬、独占欲を侵害された怒り、僕のなかに沸き起こったのはそんな感情でしかなかったのに。
だめだ。コウのなかの本当の不安、「気持ち悪い」にうまく結びつかないよ、バニー。
視線をあげて、ふと鏡を見据えた。
そこには白のリネンシャツを着たバニーがいた。薄茶のスラックス。少し背中を丸めて小さなスツールに腰かけ、長い脚を投げだしている。彼は背筋を伸ばして額にかかる柔らかな栗色の髪をかきあげ、僕を見据えた。金色に輝く瞳で。
そして「お前、やっぱり頭悪いな」と、彼とは思えないような金属的な高い声で、クックッと笑ったのだ。
コウの横で僕までもが寝てしまう気にもなれなくて、着替えの服が欲しかった。かといって、コウを残してこの部屋を離れるのも嫌で、隣接するクローゼットルームを適当に漁った。ズラリと並ぶハンガーには、赤毛のものとは思えない服が山とかかっている。エリックのものかもしれない。彼はしばらくここに住んでいたと言っていたから。彼なら僕とそうサイズも違わない。それに服の二着や三着、借りたところで文句も言わないだろう。
バスローブを脱ぎすてて、壁の鏡に全身を映してみた。エリックのつけた痕を確認しておかなければ。コウに気づかれることのないように。
バニーが呆れるのも無理はない。こんな、汚らしい痕になっているなんて。とてもコウに見せれるものじゃない。だが僕はこれと同じ、僕自身の身勝手な汚らしい情動の痕跡をコウの身体に残したのだ。堪らない。自分がエリックと同じだなんて。
それにしても、こんなふうにまざまざと自分を眺めることはしばらくなかったような気がする。エディの店でヘナタトゥーのチェックをして以来だろう。
不快さを押し殺して、身体を捻って鏡に背中を映しみた。驚いた。中心になるトリスケルが、こんな蛍光緑になっているなんて。
コウのせいだ、などとは思わないが、繊細な彼がこの模様の呪術的な意味と自分とを関連づけて病んでしまったのも解る気がする。気持ち悪いとまでは思わない。だが確かに心の奥底を脅かすような怪しさが、この模様にはあったのだ。そしてそれは、コウに刻まれた火焔にも感じられたもの。だけど、
気持ち悪い――。
はたしてコウは、そんな意味合いで言ったのだろうか。
僕の身体のこの模様を気味悪く思い、そう思うことが彼のなかに僕への罪悪感を引き起こした。そうして不安に転化された彼の罪悪感を打ち消すために、赤毛は同じくコウにも模様を刻み彼の不安を中和した。
違うような気がする。コウの言っている意味とは。
こうしていくら考えてみたところで、コウがなぜ、僕が彼を「気持ち悪がる」と言ったのかが判らない。僕はこの言葉に繋がるような態度を彼に対して取ったことはない。それだけは間違いないはず。
つまるところ、赤毛の方が僕よりもよほどコウを理解しているということなのか。けれどこれは、決してコウのため、というだけではなかったはずだ。コウの不安を見ぬいたうえで、赤毛は僕から彼を引き離したのだ。そして、その理解の差を僕に見せつけるためにこんなマネをしてみせた。
機械的にスラックスを穿き、糊のきいた上質のリネンのシャツを素肌に羽織った。ため息がでていた。僕には読み解けないコウと赤毛の関係性が、僕を苛立たせていた。けれどそれは以前のような激しい怒りではなく、なんだろう、諦観を含んだ悲しみにも似たもので――。
どうすればもっとコウから素直な言葉を引き出せるのだろう? 赤毛が知っているのと同じだけの情報を。
バニーならどうするだろう? どうやってコウの心を解して安心させ、彼の内的世界を覗きこむ?
スツールに腰かけて、ぼんやりと彼の思考を追ってみる。鏡に向かって問いかけた。彼の銀灰色の双眸を思い浮かべながら。
「きみなら、コウの言葉をどう解釈する?」
――きみらしくもないね、アル。そんな単純なことが判らないなんて。
きっと彼ならそう言って笑う。ちょっと呆れたように眉を持ちあげて。
「どうしても判らないんだ、バニー」
――以前にも、彼は同じような反応を示したことがあったんじゃないのかい? よく思いだしてごらん。
こんなことを言われたことは……。
と、突然、脳裏に怯えるコウの姿が浮かんでいた。
いつだ? いつだった? ああ、そうだ。父の家へ行く途中の――。
電車のなか。
「きみは、そんなにも他人から否定されてきたんだね」
震える彼を抱き寄せて、僕は確かそう言ったのだ。
コウは、気持ち悪い、と言われたのだ、誰かに。
誰が、そんな酷いことを彼に向かって言ったんだ?
コウの臆病さは、そんな言葉からきていたのか。
そんな、気持ち悪いなどと……。
なぜ?
いったいなにが、コウのトラウマの引き金を引いた? あの火焔の入れ墨以外に考えられない。彼はそれに気づき、僕の部屋から逃げだしたのだから。そして、僕に告白するためにもう一度僕のところへ来てくれた。あんなにも怯えながら。
気持ち悪いのは――、入れ墨。
でもなぜ? コウの意志じゃなかった。入れ墨が、あるいは火焔の模様が引き起こすであろう、僕の感情を怖れていた? 嫉妬、独占欲を侵害された怒り、僕のなかに沸き起こったのはそんな感情でしかなかったのに。
だめだ。コウのなかの本当の不安、「気持ち悪い」にうまく結びつかないよ、バニー。
視線をあげて、ふと鏡を見据えた。
そこには白のリネンシャツを着たバニーがいた。薄茶のスラックス。少し背中を丸めて小さなスツールに腰かけ、長い脚を投げだしている。彼は背筋を伸ばして額にかかる柔らかな栗色の髪をかきあげ、僕を見据えた。金色に輝く瞳で。
そして「お前、やっぱり頭悪いな」と、彼とは思えないような金属的な高い声で、クックッと笑ったのだ。
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