夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
100 / 219
第三章

迷路 2.

しおりを挟む
「どうしてそんなことを言うの? ぼくにとって、きみに触れることがどんなに気持ちよくて大切なことか、伝わってなかったのかな。いつだって可愛くて、愛おしくて、絶対に失いたくないって、こんなに強く実感してるのに」

 コウの首筋に顔を埋めて囁いていた。彼を抱きしめたとたんに、言葉が自然に溢れでていたのだ。
 それはいいのだが、どうも体勢が悪い。このままバスタブに突っ込んでしまいそうだ。それでも全然かまわないのだが、コウが誤解してしまうかもしれない。コウは別に、僕に触れてほしくてそう言ったわけではないだろうに。僕がまるで解っていないようじゃないか。
 
「――アル、きみまで濡れてしまうよ」

 ほら。コウに呆れられた。

「かまわない。僕も入ればすむことだ。コウはいつもそんなふうに、どうでもいいことばかり気にするんだ」

 服を脱ぐのももどかしくて、そのままコウの横に滑りこんだ。勢いで彼を浮力にのせて後ろに回り、そのまま抱きかかえた。初めからこうすればよかったのだ。
 温かな湯は、僕の無意識の緊張をもバラバラにほぐしてくれる。そして、ヒリヒリとした痛みもまた、思いださせてくれた。こんなことさえ忘れていたなんて。エリックにつけられたこれらの傷痕に、コウは気づいただろうか。ともかく服を着たままでよかった、ということか。



 僕の意識がコウから離れていた間も、彼は脱力したまま静かに僕にもたれていた。コウの身体は、こんなにもしっくりと僕の身体に馴染む。だけど、何かが違う。安心して身を任せているのではなくて――、そう、すべてを諦めたかのように儚げなのだ。

「僕が怖い?」
「怖いよ。僕はいつだってきみのことが怖い」

 抑揚のないコウの声。それは決して僕を責めているようには聴こえない。でもだからこそ、このコウの正直な感覚は僕に突き刺さった。

「ごめん。僕が悪かった。二度とあんなマネはしない。誓ってしないから」

 コウの僕への恐怖は当然だった。謝って済ませられることじゃない。あんな、彼の意思をいっさい無視したセックス。暴力だ。誰がどうみたって。なによりも、コウがそう感じていたのだから。解っていたはずなのに、僕は――。

「そうじゃないよ。そのことじゃない。きみは知っているだろ。僕の正直な心を――。きみは僕を占領して、僕はきみのことしか考えられない僕になった。だから、これは罰だよ。僕への戒めだ」

 パシャリと湯を跳ねあげて、コウは片腕を目の高さにまであげた。血の色の赤が、濡れてますますはっきりと焔の渦の軌跡を描いている。僕の部屋で見たときの、朧な赤い痣と同じものだとは思えないほどに、それは確かに形を変えていた。

「ごめん、アルビー」
「なぜ?」
「きみに恋して、ごめん」
「間違いだったと思ってるの?」
「そうじゃない。後悔してるわけじゃない。だけど、ごめん。きみを巻きこんでごめん」
「コウ、恋は一人ではできないよ」

 ああ、これと同じことを前にも言ったことがある。あのときは、とても幸せな心持ちで同じ言葉を使ったはずなのに。

「コウ、そんなふうに僕を拒まないで。きみの拒絶が、僕はなにより辛い。きみは僕に立ち入ってほしくないのかもしれないけれど、これは僕たち二人の問題だよ。僕は一緒に考えていきたいし、一緒に乗り越えていきたいんだ」

 コウはなにも言わずに小さく頭を横に振った。僕の腕のなかで、華奢な身体が緊張で強張る。そんなにも、僕が怖いのだ。僕に、彼のなかに踏みこまれることが。僕に、彼――、赤毛との世界を知られることが……。

 僕はまた、ここで行き止まるより仕方がないのだろうか。

「アル――」
「ん?」
「きみの身体の絵は、どうしていまだに消えないんだと思う?」

 予想外の質問に、思わず自分の腕を湯面から高く挙げた。袖ボタンを外したままの長袖が湯を含んでべったりと腕にまといついている。その白い生地に、肌に描かれた緑が透けて見える。腕を振って袖を落とした。うねる鮮やかな新緑。言われてみれば確かに、これを描いてからすでにひと月以上は経っている。もうとっくに消えていてもいいころだ。

「どうしてだろうね」

 僕にだって判らない。

「塗料の調合がいつもと違っていたのかもしれない。たまにそんなこともあるそうだよ。安物の塗料を使うと皮膚に染みこんでしまって消えなくなるって。信頼のおける店でやってもらったんだけど、もしこのまま消えないようなら、文句を言わなきゃいけないね」

 僕はどうだってよかったけれど。コウが気になるのなら。


「僕のせいだって、思わない?」

 コウは身体を反らして僕の顔を覗きこんだ。瞳を大きく見開いて、訴えかけるように。






しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

キンモクセイは夏の記憶とともに

広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。 小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。 田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。 そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。 純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。 しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。 「俺になんてもったいない!」 素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。 性描写のある話は【※】をつけていきます。

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

新しい道を歩み始めた貴方へ

mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。 そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。 その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。 あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。 あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?

【完結】別れ……ますよね?

325号室の住人
BL
☆全3話、完結済 僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。 ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。

エートス 風の住む丘

萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」  エートスは  彼の日常に  個性に  そしていつしか――、生き甲斐になる ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?   *****  今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。  

公爵家の五男坊はあきらめない

三矢由巳
BL
ローテンエルデ王国のレームブルック公爵の妾腹の五男グスタフは公爵領で領民と交流し、気ままに日々を過ごしていた。 生母と生き別れ、父に放任されて育った彼は誰にも期待なんかしない、将来のことはあきらめていると乳兄弟のエルンストに語っていた。 冬至の祭の夜に暴漢に襲われ二人の運命は急変する。 負傷し意識のないエルンストの枕元でグスタフは叫ぶ。 「俺はおまえなしでは生きていけないんだ」 都では次の王位をめぐる政争が繰り広げられていた。 知らぬ間に巻き込まれていたことを知るグスタフ。 生き延びるため、グスタフはエルンストとともに都へ向かう。 あきらめたら待つのは死のみ。

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

離したくない、離して欲しくない

mahiro
BL
自宅と家の往復を繰り返していた所に飲み会の誘いが入った。 久しぶりに友達や学生の頃の先輩方とも会いたかったが、その日も仕事が夜中まで入っていたため断った。 そんなある日、社内で女性社員が芸能人が来ると話しているのを耳にした。 テレビなんて観ていないからどうせ名前を聞いたところで誰か分からないだろ、と思いあまり気にしなかった。 翌日の夜、外での仕事を終えて社内に戻って来るといつものように誰もいなかった。 そんな所に『すみません』と言う声が聞こえた。

処理中です...