夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第三章

影 6

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 僕を好きだと言うこの唇を、唇で塞いだ。背中に回されているコウの腕が、僕を強く抱きしめる。ほっとしたような無防備なコウの感情が、感触から伝わってくる。

「好きって言葉が免罪符になると思わないで」

 だけど唇を離してもう一度彼をのぞき下ろしたとき、僕の口から零れ落ちたのはこんな酷い言葉だった。彼の見開かれた瞳が凍りつく。赤く熟れた唇が震えている。

「ごめ、」
「謝らなくていい。きみは、きみの何が僕を傷つけているのかさえ解っていないじゃないか」

 コウから視線を逸らした。僕はこんなことを言いたいわけじゃない。意識して掌で自分の口を覆っていた。これ以上彼を見ていると、自分でも何を言いだすか判らない。こんな自分自身が信じられない。

 それなのに、こんな衝動的な情動とは別の一方で、僕は、コウが何か言ってくれるのを待っているのだ。もう一度、僕に謝ってくれること、僕を好きだと繰り返してくれることを。

 でも彼は、何も言ってはくれなかった。

 どうやら、僕は頭を冷やさなくちゃいけないらしい。
 コウには解らないのだ。彼は、自分がどれほど僕を嫉妬に駆りたてているのか気づいていない。僕がどれほど彼のことを心配していたかすら、解っていないのだ。こんなにも幼い未熟な彼に人並みの情緒を求めることが、そもそも間違っているのだろう。
 
 

「それで僕はどうすればいいの? 赤毛ジンジャーが帰ってくるのを待てばいいの?」

 気まずい沈黙の間あてどなく視線を彷徨わせ、ようやく思いついたのはせいぜいそんな言葉で。

 さらにしばらくたってから、コウは掠れた小声で返事をくれた。

「ちゃんと許可をもらう。僕はきみとの約束を守りたい。だけど同じだけ、彼との約束も破るわけにはいかないんだ」

 僕はもう、コウを見なかった。代わりに、彫像のようにつっ立っているガマガエルの片割れに声をかけた。

「休みたい。どこでもいいから案内して」

 ガマガエルが飛び跳ねて、「どうぞ、どうぞ」と先に発つ。僕はその不格好な背中に黙って従った。



 案内されたのは、いくつもある個性のない白い部屋のひとつだ。コウやエリックが使っていたのとはまた別の部屋だった。ベッドに身体を投げだして、白い天井をぼんやりと眺めた。エリックの言う通り、ここはまるで病室だ。外界から隔絶された無菌室。このなかに入れば、コウは僕のような異物に脅かされることなく安心していられるのだろうか。赤毛と――。

 どうかしていたとしか思えない。コウの何が、ああも僕を怒らせたのか僕にだって解らなかった。コウはいつも通りだった。家のことを気にし、ショーンやマリーを気にし、赤毛を気にかけて。いつものことだ。それはけして、僕のことを考えない、後回しにするってことじゃない。解っていたはずなのに。

 ああ、そうか――。コウがあまりにもいつも通りだったことが、僕を苛立たせたのだ。

 僕は本当にコウのことを心配していたのに、彼は気づいてくれなかった。

 いちいちあれこれ言わなくても僕の状態を一目で理解してくれるバニーのように、僕を解ってほしかったのだ。安心させてほしかった。僕の気苦労をいたわってほしかったのだ。

 そんなことを望んでしまう僕の方が間違っている。それでも。

 コウへの想いが空回りしている。僕の声は彼に届いていない。コウは僕との未来を見ていない。そんな気がする。

 それに、コウ自身のこと。コウと、赤毛との間の約束。

 僕の知っているコウよりも、僕の知らないコウの方がずっと多いのだ。彼は彼自身のことを、僕に話してくれない。話そうと試みるたびに、神経症的な反応を起こす。だからそれ以上訊けなくなる。この繰り返し。僕は待ちすぎたのだろうか。それとも、ただ怖れていたのだろうか。踏みこみすぎて、コウの信頼を失ってしまうことを――。
 けれど、そもそもコウは僕を信頼してくれているのだろうか?

 それすらも判らなくなっている。


「アル」

 ドアが静かに開き、コウの顔がおずおずと覗く。

「ノックしたんだけど――。入ってもいいかな?」

 僕は黙ったまま頷いた。声は出なかった。コウを拒みたいわけじゃないんだ。でもどうしていいのか判らない。コウを憎んでしまいそうな、今の自分が怖かった。

「アル」

 コウは悲痛な顔をして、僕の転がるベッドの数歩手前で立ち止まり、項垂れて囁くような小声で告げていた。

「アル、ごめん。僕はただ――、怖かったんだ。きみが、僕のことを気持ち悪がるんじゃないかと思って――」




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