夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第三章

エリック 7

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「自覚がない――、って言われても、なんのことを言われているのか判らないな」
 彼の意図が見えなくて、僕は軽く小首を傾げた。バニーは珍しいことに若干苛立っているようだ。そんな感情を隠そうともせず、唇をひき結び、おもむろに腕を伸ばして、僕に手のひらを向ける。
「手を」
 言われるままに彼の手のひらに手を重ねた。
 と、バニーは力まかせに僕の指をぎりりと握った。思わず顔をしかめた僕を観察しながら、彼はまた、なんともいえない苦笑を浮かべる。
「痛みを感じていない訳ではないんだね」
 彼の手から力が抜ける。けれど僕の手は緩く包まれたままだ。ウェイトレスがカフェラテを運んできて、バニーはやっとその手を放した。彼はそのままテーブルに肘をつき、拳を握りこむ。

「爪痕、噛み痕、痣――。目につくところだけでこの有り様だ。僕はきみの元バイザーとして、きみの、こんな形でのクライエントの引き受け方を容認する訳にはいかないよ、アル」

 間を置いて、諭すような口調でバニーは言った。じっと見つめる彼の静かな怒りから、僕は目を逸らすことができなかった。この怒りを湛える双眸から逃れるためには、何か言わなければ、と気ばかりが焦る。こんなときに思いつくことなんて、しょせん、くだらない言い訳でしかないのに。

「仕方なかったんだ、バニー。彼はとても感情を昂らせていて――」
「そんなことを言っているんじゃない」

 案の定バニーは小さく首を横に振り、そんな僕を一蹴いっしゅうする。

「きみは自分で自覚する以上に、自虐的な選択をしているんだ。いつもね。その理由を考えてみたことはあるかい?」

 自虐的――。

 そんなふうに思ったことなんて一度もない。僕はいつだって僕の好きなようにしている。勝手だと言われることはあっても、そんな……。

 そのときふと、昔、アンナに言われたことを思い浮かべた。大学の学部選択を伝えたときのことだ。臨床心理に進みたいと告げたとき、スティーブは腕を広げて心から喜んでくれたのに、アンナは――。僕の両肩に手をおいて僕の目を覗きこむと、「あなた自身のことを一番に考えてちょうだい。あなたは、いつも自分のことはどうでもいいように扱って、――心配なの」と言って、僕を抱きしめたのだ。
 僕には、彼女の言葉の意味が解らなかった。今も――。


 答えられない僕を、バニーは見据えたまま。堪らず、僕は目を伏せた。

 自虐なんかじゃない。どちらも仕方なかったのだ。スティーブは、僕の存在がいつかあの男を救いだすに違いないと信じていたし、エリックは僕を内側にいだくことでようよう息を継ぐしか他にすべを知らないのだから。僕が僕を粗末にしている訳ではない。その逆だ。僕は僕を守っているだけだ。スティーブの期待に応えることで。エリックの攻撃性を僕に向けることで。僕は僕を――、そして何よりも大切なコウを守っている。

 すっと、視線をバニーに戻した。
 今、僕がここにいる理由を思いだした。コウが僕を待っている。僕はコウのために、バニーの助言を求めにきたのだ。

「エリックのことはきみに任せるよ。きみから見て、彼には入院が必要だと判断するのなら、そうしてほしい。僕は、コウの、――それから僕の安全が守られることを何よりも優先したい」

 バニーは軽く頷いた。

「ありがとう、バニー」
「――彼の意識をきみから引き剥がすのは、時間がかかりそうだな」

 皮肉げな笑みを浮かべたバニーは、おもむろに冷めたカフェラテを口に運んだ。一口喉を湿らせると、彼は、しばらくぼんやりと階下に視線を漂わせる。


「バカンスはどこへ?」
 ふたたび僕に視線を戻したときには、彼の瞳は普段の穏やかな銀灰色に戻っていた。僕は内心、ほっと息をつく。
「ワイト島。コウの具合をみて大丈夫そうなら出発するよ」
「そう。ゆっくりしてくるといい。僕のクライエントのためにも、その方がいい。例の送別会にきみの恋人を連れてくるかい? 面談、という形を彼が嫌がるのなら、雑談がてら様子をみてあげるよ」


  クライエント――。

 バニーとの何気ない会話のなかで、この一言が小さな棘のように心に刺さっていた。コウへの提案よりも、エリックの入院処置が僕を守るためだけではない、という当然の事実が、僕を苛立たせたのだ。
 彼のクライエントエリックを彼自身の攻撃性から守るために、バニーは担当療法士として、彼のことを一番に考えている。そのことが、なんだろう、一抹の風となって僕の心を揺さぶったのだ。心理療法士として、ごく当たり前のことなのに。

 僕はエリックの相談を受けていても、彼を一番に思い遣ることなどなかった。それなのに、これまでずっと僕を優先してくれていたバニーがエリックを思い遣ることに、嫉妬を感じている。これは僕が望んだことでもあるはずなのに。

 僕はいったいどうしたいのだろう――。

 けれどこんな、この場で感じた霧のような感情はいつもすぐに霧散してしまう。僕にとってコウだけが、確かな変わらない何かで――。彼だけが、僕が掴むことのできる実体で――。コウへの想いだけが変わらない。
 そんな自覚を新たにすることで、僕は突き刺さった小さな棘と、そこから生まれた小さな疑問とを手放した。考えたところで詮ないことだから、と。



 それからもう少し、コウのこれまでの症状を踏まえてバニーと話してから、彼と別れて帰路についた。

 僕のなかで唯一確かな存在であるコウが、それこそ霧のように僕たちの部屋から消えてしまっているなんて、想像だにしないまま――。



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