夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第三章

時計 7

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 朝目覚めたときにはやはりコウは隣にいなくて、横に伸ばした腕にぽっかり空いた空間が、虚しい現実を突きつける。
 けれど同時に、怪しいサンダルウッドの香りを打ち負かすパンやベーコンの焼ける香ばしい匂いが、そんな虚ろな穴を埋めてくれていることに気がついた。これはコウのいる朝の香りだ。僕の知る、幸せな――。

 一瞬感じた安堵を打ち破るけたたましい笑い声。テレビの音。ショーンの母親だろうか。ここは、僕とコウの家じゃない。

 なんとなくそのまま、天井ライトの太陽や星の模様を眺めていた。なんだか身体に力が入らなくて。きっと、コウがキスで起こしてくれないから――。僕を抱きしめにきてくれないからだ。


「アル、起きたのなら朝食を食べるかい?」と、声をかけてくれたのもコウではなくて、ショーンだった。
 のろのろと起きあがると、彼はテキパキとベッドをもとの形に戻した。そこにまた座り直す。続いてキッチンから朝食の皿とコーヒーを運んでくるのも、ただぼんやりと眺めていた。

 コウは何をしているんだろう。やはり僕を無視するのか――。

 昨夜は僕のもとに戻ってきてくれたのに。まるで夢か幻を見ていたみたいだ。コウはこんな気まぐれで僕を振り回し、混乱させるような子じゃなかったはずなのに――。

 けれど、この白身のふわりとした目玉焼きは、僕のためにコウが焼いてくれたものに間違いない。ちょうどいい具合に半熟の黄身加減も、僕の好みに合わせてくれたもの。焦げ目のついたカリカリに薄いパンにしても。

 コウが判らない。


「アル、おはよう。僕は今からいったん戻るけど、きみはこのまま仕事に行くの? もしまだ間に合うようなら、着替え、取ってこようか?」

 コウが、ぎこちない笑みを湛えてキッチンから顔を覗かせていた。
 ほっとした。やはりコウは、ちゃんと僕のことを考えてくれていたのだ。

「ありがとう。でも、戻って、また来るのを待てるだけの時間はないかな」
 たったこれだけの会話で、自然に顔がほころんでくる。コウはなんだか申し訳なさそうな、そんな顔をして首を傾げている。僕が今ここにいるのは、けして、きみのせいじゃないのに――。

「コウ、」
 バズが呼んだ。彼はキッチンから顔を出すとコウの肩を叩き、僕に朝の挨拶をした。
「じゃあ、僕はもう出るね。調味料を取ってきて、また戻ってくるから。今晩の夕飯を作って、それからちゃんと帰るから」
「ああ、ありがとう。あとでこの辺りの市場に案内するよ」
 ショーンが嬉しそうに声を弾ませる。コウはバズとともに部屋に引っ込み、ほどなくして出かけていった。僕は皿の残りを味気なく感じながら片づけた。
 ショーンが、今晩のコウが作る食事を一緒にどうか、と誘ってくれたが、僕は断った。「一人になりたい」とコウのいう意味は、僕と一緒にいたくないということだと解っていたから――。

「ショーン、シャワーを借りていいかな?」
 出勤時間までは、持て余すほどの時間があった。
 



 いつもと変わらない時間に出勤し、変わり映えのしない作業を繰り返す。昼食時間はバニーと昨日、充分に話しあえなかったエリックの引継ぎの話をした。集中して取り組めばなんのことはない。それに、バニーは今までと変わりなく僕と接してくれる。その穏やかな彼の空気に安堵した。

 勤務時間を終えると真っ直ぐに帰路につき、部屋で持ち帰った作業の続きをこなしながら、コウの帰宅を待っている。
 
 来週には二週間のバカンスだ。それを過ぎたころにスティーブたちが帰ってくる。コウとの時間はあまり取れなくなるかもしれない。
 どこに行くとか、もっとゆっくりコウと相談したかったのに、そうもいっていられなくなった。今からではホテルの予約も取れるか判らないので、エリックの別荘を借りることにした。何度か行ったことがあるし、あそこならきっとコウにも楽しんでもらえる。

 ――コウが、僕といることを嫌がりさえしなければ。

 コウと二人で、と計画していたのだけれど、今のこの状態では無理な気がする。旅行自体を断られることのないように、ショーンも誘うべきだろうか。

 机に置いたスマートフォンを確認し、ほっと息を漏らした。もうじきコウが帰ってくる。ショーンと一緒に。マリーを誘って居間でお茶にしよう。そういえばまだ夕飯も食べていない。コウがいないと、僕を支えている細々とした日常が瓦解していく。僕の内側はコウでできているのだから、それも当然な気がする――。


 けれどまさか、こんな毎日がこれからも続いていくなんて、僕は想像だにしなかった。

 帰ってきたコウは、僕の脳裏に浮かんでは意識して打ち消していた嫌な予想通りに、バズのために整えた屋根裏部屋に引きこもったのだ。鍵をかけて――。


 それなのに、僕にこんなひどい仕打ちをするコウにさえ、僕は、何も言うことができなかったのだ。





 
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