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第三章
時計 5
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扉の向こう側は異空間――、なのはバニーの面談室だけではなかった。あまりの様変わりっぷりに呆気に取られ目を瞠ってしまっていた。レモンイエローの壁のこちら側はけばけばしいショッキングピンクの世界だなどと、そうそう誰にでも想像できるものではないだろう。おまけに入ってすぐに視界に飛び込んできたのは、青い肌に長い髪を振り乱した男が四本の腕をくねらせて踊っているポスターだ。東洋趣味なのか、そんな感じの怪しげな香りが生活臭や煙草の臭いと交じり合って染みついている。
玄関で立ち止まってしまった僕の視線の先を追って、ショーンが「シバ神だよ。インドの神様の」と、取ってつけたように説明してくれた。
コウはここに泊まる気だって――。
僕はこれほど落ち着かない場所に来たのは初めてなのに!
玄関から丸見えのキッチンには、汚れた食器が山盛りのシンク。乱雑に重ねられた雑誌に、シリアルだのビスケットだのの箱、使い終えたあとの紅茶のティーバッグ、食べかけのスナック菓子の袋に、化粧品までが取り散らかっているテーブル。そして飾り棚には、水晶の原石にアロマポット、天使を模った虹色の蝋燭――、あの頭に火を灯すのだろうか?
コウが来る以前のうちでも、ここよりはまだましなんじゃないか。怪しげではない分だけ。でもこんなところにいると、コウは嫌でも腕まくりして、片づけ始めてしまうじゃないか――。
「コウは?」
「呼んでくるよ。そこで待っててくれ」
ショーンが居間との境に下がるチープなプラスチック製のビーズ暖簾をしゃらしゃらと掻き分けてソファーを指差したのと、その奥にあるドアが開くのがほとんど同時だった。
「ちょっと、ショーン! あら、まあ、えらくゴージャスないい男がいるじゃないの!」
頓狂な声をあげて現れたのは、強烈な長い赤毛をかき上げている女――。それもペラペラなタンクトップ一枚着ただけの、そのくせ派手なメイクだけはばっちりと抜かりなくしている中年の女だった。おろらくこの女が――。
「みっともない恰好で出てくるなよ!」
すかさずショーンが顔をしかめて声を荒げた。
「何言ってんのさ、偉そうに! ここは私の家だよ!」と悪態をつきはしたものの、さすがにあの恰好はないと思ったのか、彼女はいったんドアの向こうに引っ込んでくれた。
ますますこんなところにコウを置いておくわけにはいかない。
案内を待たずにその脇を通り抜け、ショーンが手をかけていたドアを開けた。打って変わってガランとした、空っぽの本棚が壁一面にある狭い部屋の机の前にコウが、その横のベッドにバズが腰かけていた。
コウは僕を目にしたとたん、怯えたように目を伏せている。傍らのショーンが「バズ」と一言彼を呼ぶ。彼は僕を一瞥し、黙って部屋を空けてくれた。パタンと閉めたドアの向こうで「あのイケメンはどこ行ったの! せっかく着替えてきたのよ!」と甲高い声が叫んでいる。
「コウ――」
「ごめん」
謝るようなことをしている自覚があるのなら、一緒に帰ろう――。
喉元まで出かかった言葉を呑み込み、ベッドのバズの座っていた辺りに座り、俯いているコウの膝にのせられている手に、そっと手を重ねた。
コウを追い詰めてはいけない。僕はこれまで何度も失敗しているのだ。
彼は自分の心を上手く言葉にすることができない。表現することに慣れていないのだ。そのくせ相手の心は言葉にしないことまで汲み取ろうとして、いつも神経を尖らせている。
だから、僕がどれほどコウのことを想っているか、彼はちゃんと解ってくれているはず――。
彼が制御できないのは、僕ではなく、僕への想いだ。
「コウ――」
「考える時間が欲しいんだ」
「考えるって、何を?」
「――僕たちのこと」
コウが顔を起こし僕を見つめた。まるで睨みつけるように唇を固く結んで。
「それは、他人の家に押しかけてまで考えなければいけないようなことなの?」
コウの瞳が罪悪感で揺れる。誰かに迷惑をかけることをコウは何よりも嫌うから。
「フレンチトーストを作ってあげる、って前にバズに約束したんだ。それに、自分で作れる簡単な料理を教えてあげるって――」
「そんなことなら向こうですればいいじゃないか。ここはバズが一人で暮らしているわけじゃないんだから。それとも、きみの言う僕たちって、きみと僕ではなくて、きみとバズのことなのかな?」
努めて優しい口調で応えたつもりだったけれど、コウは眉根を寄せて視線を逸らしてしまった。
きみを責めているつもりはないんだ。こっちを向いて。僕を見て、コウ。
「きみは僕に怒っているの?」
僕の手のひらの下にあるコウの手が、ぎゅっと拳に握りこまれた。彼の怒りを、僕はゆるゆると撫でさすって握りしめる。
「僕はどうすればいいのかな?」
コウの頑なな心を開かせようとすると、彼はきっとますます扉を閉ざして閉じこもる。僕を拒否して消えてしまう。
ここがショーンの家だから、今回はまだマシだったけれど――。
「僕を一人にさせて。――けして、きみに怒っているんじゃないんだ。きみを嫌いになったわけでもないよ。ただ――、ちょっと、頭を冷やして考えたいだけだから」
覇気のない声音。とつとつと話しながらも、コウは僕から視線だけでなく、顔までも背けている。
「解った。かまわないよ。でも、明日は一緒にハムステッドに帰ること。約束して」
僕に向けられた頬に軽くキスした。コウはおずおずと振り返って、「ごめん」ともう一度繰り返した。けれど、キスを返してはくれなかった。
居た堪れなくて、軽く彼をハグして、この部屋を出た。
ちょうどキッチンに立ってお茶を淹れていた、ショーンの背中に声をかける。
「ショーン、今晩は僕もここに泊めてもらえるかな?」
玄関で立ち止まってしまった僕の視線の先を追って、ショーンが「シバ神だよ。インドの神様の」と、取ってつけたように説明してくれた。
コウはここに泊まる気だって――。
僕はこれほど落ち着かない場所に来たのは初めてなのに!
玄関から丸見えのキッチンには、汚れた食器が山盛りのシンク。乱雑に重ねられた雑誌に、シリアルだのビスケットだのの箱、使い終えたあとの紅茶のティーバッグ、食べかけのスナック菓子の袋に、化粧品までが取り散らかっているテーブル。そして飾り棚には、水晶の原石にアロマポット、天使を模った虹色の蝋燭――、あの頭に火を灯すのだろうか?
コウが来る以前のうちでも、ここよりはまだましなんじゃないか。怪しげではない分だけ。でもこんなところにいると、コウは嫌でも腕まくりして、片づけ始めてしまうじゃないか――。
「コウは?」
「呼んでくるよ。そこで待っててくれ」
ショーンが居間との境に下がるチープなプラスチック製のビーズ暖簾をしゃらしゃらと掻き分けてソファーを指差したのと、その奥にあるドアが開くのがほとんど同時だった。
「ちょっと、ショーン! あら、まあ、えらくゴージャスないい男がいるじゃないの!」
頓狂な声をあげて現れたのは、強烈な長い赤毛をかき上げている女――。それもペラペラなタンクトップ一枚着ただけの、そのくせ派手なメイクだけはばっちりと抜かりなくしている中年の女だった。おろらくこの女が――。
「みっともない恰好で出てくるなよ!」
すかさずショーンが顔をしかめて声を荒げた。
「何言ってんのさ、偉そうに! ここは私の家だよ!」と悪態をつきはしたものの、さすがにあの恰好はないと思ったのか、彼女はいったんドアの向こうに引っ込んでくれた。
ますますこんなところにコウを置いておくわけにはいかない。
案内を待たずにその脇を通り抜け、ショーンが手をかけていたドアを開けた。打って変わってガランとした、空っぽの本棚が壁一面にある狭い部屋の机の前にコウが、その横のベッドにバズが腰かけていた。
コウは僕を目にしたとたん、怯えたように目を伏せている。傍らのショーンが「バズ」と一言彼を呼ぶ。彼は僕を一瞥し、黙って部屋を空けてくれた。パタンと閉めたドアの向こうで「あのイケメンはどこ行ったの! せっかく着替えてきたのよ!」と甲高い声が叫んでいる。
「コウ――」
「ごめん」
謝るようなことをしている自覚があるのなら、一緒に帰ろう――。
喉元まで出かかった言葉を呑み込み、ベッドのバズの座っていた辺りに座り、俯いているコウの膝にのせられている手に、そっと手を重ねた。
コウを追い詰めてはいけない。僕はこれまで何度も失敗しているのだ。
彼は自分の心を上手く言葉にすることができない。表現することに慣れていないのだ。そのくせ相手の心は言葉にしないことまで汲み取ろうとして、いつも神経を尖らせている。
だから、僕がどれほどコウのことを想っているか、彼はちゃんと解ってくれているはず――。
彼が制御できないのは、僕ではなく、僕への想いだ。
「コウ――」
「考える時間が欲しいんだ」
「考えるって、何を?」
「――僕たちのこと」
コウが顔を起こし僕を見つめた。まるで睨みつけるように唇を固く結んで。
「それは、他人の家に押しかけてまで考えなければいけないようなことなの?」
コウの瞳が罪悪感で揺れる。誰かに迷惑をかけることをコウは何よりも嫌うから。
「フレンチトーストを作ってあげる、って前にバズに約束したんだ。それに、自分で作れる簡単な料理を教えてあげるって――」
「そんなことなら向こうですればいいじゃないか。ここはバズが一人で暮らしているわけじゃないんだから。それとも、きみの言う僕たちって、きみと僕ではなくて、きみとバズのことなのかな?」
努めて優しい口調で応えたつもりだったけれど、コウは眉根を寄せて視線を逸らしてしまった。
きみを責めているつもりはないんだ。こっちを向いて。僕を見て、コウ。
「きみは僕に怒っているの?」
僕の手のひらの下にあるコウの手が、ぎゅっと拳に握りこまれた。彼の怒りを、僕はゆるゆると撫でさすって握りしめる。
「僕はどうすればいいのかな?」
コウの頑なな心を開かせようとすると、彼はきっとますます扉を閉ざして閉じこもる。僕を拒否して消えてしまう。
ここがショーンの家だから、今回はまだマシだったけれど――。
「僕を一人にさせて。――けして、きみに怒っているんじゃないんだ。きみを嫌いになったわけでもないよ。ただ――、ちょっと、頭を冷やして考えたいだけだから」
覇気のない声音。とつとつと話しながらも、コウは僕から視線だけでなく、顔までも背けている。
「解った。かまわないよ。でも、明日は一緒にハムステッドに帰ること。約束して」
僕に向けられた頬に軽くキスした。コウはおずおずと振り返って、「ごめん」ともう一度繰り返した。けれど、キスを返してはくれなかった。
居た堪れなくて、軽く彼をハグして、この部屋を出た。
ちょうどキッチンに立ってお茶を淹れていた、ショーンの背中に声をかける。
「ショーン、今晩は僕もここに泊めてもらえるかな?」
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