夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第三章

時計 4

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 この世は言い訳で満ちている。
 自分の内側に溢れる罪悪感を誤魔化すために、「この世は」、などと一般化していることからしてそうなのだ。

 僕は初めて今日まで僕を想ってくれていたバニーの愛に触れ、同じだけの愛を返すことができない自分を申し訳なく思った。けれど、こればかりはどうしようもない。僕の内側はコウでいっぱいで、わずかな隙間ですら他の誰かに振り分けることはできない。それに、それではかえって失礼というものだろう。
 僕はバニーに応えられなかったことで、改めて自分を満たすコウへの愛を意識した。その事実に恍惚とした快感を感じ、そんな僕を咎めることなく彼のもとへと送り届けてくれているバニーの寛容さに、ほっと息を継いでいた。

 そう、僕は家ではなく、ここから4マイルほど離れたホワイトチャペルにある、ショーンの家族の住むフラットに向かっている。

 コウが家に帰らないから――。

 彼はいきなり、今晩はショーンの実家に泊まる、などと言いだしたのだ。冗談じゃない。昨夜ちゃんと解り合えたはずなのに、彼はまだ僕から逃げるつもりだなんて。彼からのメールを開いてすぐ、「迎えに行く」と返信した。

 コウのために僕がどれほどの決断をしたのか、コウなしではいられない僕のことを、彼はもっと自覚するべきだ。僕はこんなにも彼に支配されるままに、全てを捧げているというのに。これ以上、コウの我がままを許すわけにはいかない。


「アル、それできみは彼との関係をどうするつもりなの?」

 運転席のバニーが、僕が深くため息を吐いたのを気にしてか、話しかけてきた。彼、というのはコウのことではなくてエリックのことだ。さすがに今度は間違えなった。今バニーの頭を占めているのは僕ではなく、彼の新しいクライエントになったエリックのこと。僕がすべきことは、彼に渡した記録に関するバニーの疑問点に僕の見解を示し、納得できるまでアセスメントを詳細に検討することだ。なのに今日の僕は、それすらまともにこなせていない。バニーが僕のことを憂慮するのも当然のこと、なのかもしれない。

「どうって――。どうもしないよ。彼の治療はきみに引き継いでもらえれば安心だよ。続けられそうだ、とエリックも言っていた。問題は彼がちゃんと治療に通うかどうかくらいで、本来の彼は固い意志をもって進むことのできる人間だよ」
「暴力的なほどに――?」
「そうは思わないけどな」
「きみに対しては、だろう?」

 答えられなかった。エリックの生育環境に関しては一通り聞いている。彼は暴力を振るわれたことはなかったはずだ。暴力的な人格の持ち主だとも思わない。けれど、確かに彼の内側は言い知れない狂暴さを抱えている。僕のまだ知らされていない彼がいたとしても不思議ではなかった。

「僕に任せてもらっても、きみは大丈夫なんだね?」
 バニーが念を押す。関係とは、プライベートな面を危惧しているのだろうか。どう応えるべきかと、ちらりと彼の横顔を窺った。彼も一瞬、僕に視線を走らせる。
「問題ないと思う。彼はきみを気に入ったようだから」

 おろらくは――。それ以外に答えようがなかった。いくらエリックが僕に執着していたとはいえ、何かしてくるとも思えなかったのだ。それに彼はいつだって僕に寛容で、嫉妬や独占欲をあからさまにすることはなかったから――。



 スマートフォンに表示されたショーンの自宅の前で、彼に電話した。すぐに下りるから待っていてくれ、と慌てふためいた声が応答する。コウはショーンに、僕が行くことを伝えてなかったのだろうか。
 車から降りようとすると、「迎えが来るまでここにいた方がいい。ここはロンドンいち治安のいい地区じゃないか」とバニーに腕を掴まれ引き留められた。確かに。僕はこの辺りに来るのは初めてだ。人通りはすでに絶えていたけれど、バニーの危惧ももっともな気がした。通りに面した店の多くはイスラム情緒に溢れてる。ここがロンドンであることを忘れてしまいそうなほどに。


 コンコン、と車窓をノックされた。ショーンだ。「行くよ。ありがとう、バニー」と振り向くと、彼はちょっと微笑んでドアのロックを外してくれた。けしてこれでお別れ、というわけじゃない。彼は僕の先輩心理士で、同じ研究所の仲間であることに変わりはないのだ。
 けれど、車のドアを開けて地面に足を下ろしたとき、その感触がなんとも頼りなくて――。僕を導いてくれる大切な杖を自ら手放してしまったような、そんな覚束なさを全身に感じていた。

「アル、きみみたいな奴が、急にこんなところに来るなんてどうかしてるぞ!」
 僕の腕を掴んで早足で歩きだすショーンは、なぜか腹立たしげでせわしない。
「コウに迎えにいくって言ったよ」
「聴いたよ、俺に先に言ってくれれば良かったのに!」

 彼にしては言葉少なに、目の前の建物の玄関を開ける。もう一度バニーの車を振り返ると、彼は僕たちが建物内に入るのを見届けてから車を発進させていた。

 狭い間口から、目の前にある階段を上っていった。レモンイエローに塗られた壁にロートアイアンの黒い手摺り。内装は外観ほど古ぼけた感じもしない。
 やがてショーンは三階の右側、上部にステンドグラスの嵌ったドアをノックもせずに勢いよく開けた。




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