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第二章
夜
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コウには、ああ言ったけれど、べつに赤毛が来ないなら来ないで僕は一向にかまわなかった。場の調和を壊していることに気づいたコウが、僕と一緒に来る気になってくれるならそれでいい。
コウの心を塞いでいる数の合わないスティーブの椅子のことは、僕だって気になる。赤毛とは嫌でも話さなければならないことだ。でも今じゃなくたっていいじゃないか。こんな忙しない状況下で話すべきことじゃない。それにできることなら僕も加わって、落ち着いて話せる機会を後から持てば、その方がずっといい――。
漠然とそんなふうに思っていたのに、意外にも赤毛は文句も言わず僕たちに従い、ナイトクラブについてきた。今は色とりどりに変化するライトが点滅しながら波打っている蛍光色のフロアで踊り狂っている。――どこまでも解らない奴だ。
コウはそんな赤毛に呆れているのか、驚いているのか、それとも安堵しているのか――。
まるでペットの首輪を外して自由に野原を駆け巡らせてやっている飼い主のような、そんな瞳で階下にいる奴を眺めている。あるいはやんちゃな子どもを見守る保護者というか。
こんなコウを見ていると苛立たしい。僕の横にいるのに僕を見ないコウ――。許しがたい屈辱を感じる。
フロアから僕たちのいる個室に向かってマリーやバズが大きく両手を振っている。コウも笑ってガラス越しに手をふり返して。向こうから見えはしないのに。気づいていないんだろうな。
「アル、ごめん。つきあわせちゃって。僕はこういう場所が苦手だから――」
コウが振り向いて僕の手をそっと握った。申し訳なさそうに。
「知ってる。かまわないよ、あそこにいるよりコウといる方が僕は楽しいもの」
コウの頬に軽くキスして、彼の肩に腕を回してフロアに視線を戻した。
透き通るような赤い髪が、点滅する光と闇の中、激しく伸び縮みしながら揺らめいている。まるで燃え盛る焔だ――。その一点に視線が引き寄せられる。赤毛を中心にぽっかりと空間が空いているからだ。あれだけ見物人がいて、奴にからんでいく強者はいないのか――。
「アル、ずいぶんご無沙汰していたじゃないか! 来てくれて嬉しいよ!」
雇われ店長の――。名前、なんだっけ? 忘れた。まぁ、いい。たいしたことじゃない。
その店長が新作のカクテルを「自信作だよ」と言いながら、手渡してくれた。
「彼は写すなよ」
「分かってるって」
ちら、とお愛想程度に店長はコウに微笑みかけた。カットフルーツの大皿に、フルートグラスに入ったノンアルコールカクテルがコウの前に置かれる。赤と白のグラデーションだ。コウは不思議そうに眺めている。可愛くて、思わず笑みが漏れた。軽く彼のグラスに僕のグラスを打ち合わせて乾杯すると、にやけた内心を誤魔化すように、くし型のオレンジの飾られた細長いグラスから冷えた透き通る赤を流し込んだ。
店長がさっそくスマートフォンで僕をカシャ、カシャと写している。その画像がSNSに投稿されれば、ほどなく灯りに羽虫が群がるように物見高い連中がよってくる。そんな関係で、僕はこういった店で料金を払ったことがない。
「カンパリベース?」
口に含んだカクテルは、きつい炭酸が細かな音を立てて弾け、オレンジの酸味とジンジャーが舌にピリピリくる刺激的なものだった。
「火の精霊ってカクテル名にするつもりなんだ。どうだい? きみのツレ、あの赤毛の子のイメージで作らせてみたんだ。さすがにきみが連れてくるだけのことはあるね、彼、最高にホットだよ!」
思わずグラスの中身をこいつの顔にぶちまけたくなった。コウの前で、さすがにそんな幼稚なマネはしなかったけれど――。
「あの赤毛の子の写真、撮ってもいいかな?」
僕はコウに視線を流した。大きく眼を見開いて店長を見ていたコウは、さっと彼の手にあるスマートフォンに目をやると、すぐさま何度も顔を横に振った。
「ダメ」とコウの代わりに声に出して答えてやった。
「アル――」
赤毛のことなぞ知ったこっちゃないが、コウがダメだというならダメなのだ。店長の懇願の瞳から、ついと視線を逸らす。
「まぁ、いいよ。今夜のきみも最高! ベストショットをもらえたからね。ほら」
ため息交じりで身を屈めて見せられたスマートフォンの画像は、彼が気にいるのも納得だ。艶やかなエナメルの白いソファーに、僕の黒いシャツと赤のカクテルがよく映えている。実態よりも二割増しゴージャスな店舗に見える。
これで僕の義務は果たしたわけだから、出口に向かって顎をしゃくった。これ以上、コウと二人の時間を邪魔されるのはかなわない。
「アル」
「ん?」
「ありがとう」
「何に対して?」
「いろんなこと――」
「例えば?」
ありがとう――、と言うわりに、コウは深刻そうな、複雑な表情をしている。とても喜んでいるようにはみえない。
どうしたの?
彼の頬を両手で挟んで上向かせた。やはり僕から目を逸らす。なぜだか分からない。さっきまで笑っていたのに――。
「ここの店長と関係したことはないよ」
たぶん――。記憶にある限りでは。酔っていたときのことは分からないけれど。
コウがきょとんと僕を見た。間髪入れずに笑われた。
「疑ったりしてないよ! ショーンに聞いてたもの。きみは大抵のこういう店では顔パスなんだって。ああやって写真で宣伝するんだろ? 僕も見たことがあるんだ」
「じゃあ、なんで――」
見間違い? ひどく不安そうな顔をしていたのに――。クスクス笑っているコウは、いつものコウに見える。
「ドラコは息抜きが必要だったんだ、って教えてくれた。それから、彼が問題を起こすんじゃないかって僕はピリピリしすぎてて、彼を苛立たせていたってこと。そのことばかりに囚われて、きみやみんなのことが見えてなかった。それもきみに指摘されるまで気づかなかったんだ。それで、すごく恥ずかしくて。――きみの方が僕よりずっと、ドラコのことを理解してくれていたんだね。ありがとう、アル」
一気にそれだけ言うとほっと息をついて、コウは僕の肩にもたれて頬を擦りつけてきた。それまでの緊張を解いて、安心しきったように。
――それは誤解だ、なんて、とても言えない。
コウにかかると僕みたいな人間でも、とてつもない善人にされてしまう。そして僕は、そんな彼を裏切ることだけはすまい、と思わずにはいられなくなってしまうのだ。
コウの心を塞いでいる数の合わないスティーブの椅子のことは、僕だって気になる。赤毛とは嫌でも話さなければならないことだ。でも今じゃなくたっていいじゃないか。こんな忙しない状況下で話すべきことじゃない。それにできることなら僕も加わって、落ち着いて話せる機会を後から持てば、その方がずっといい――。
漠然とそんなふうに思っていたのに、意外にも赤毛は文句も言わず僕たちに従い、ナイトクラブについてきた。今は色とりどりに変化するライトが点滅しながら波打っている蛍光色のフロアで踊り狂っている。――どこまでも解らない奴だ。
コウはそんな赤毛に呆れているのか、驚いているのか、それとも安堵しているのか――。
まるでペットの首輪を外して自由に野原を駆け巡らせてやっている飼い主のような、そんな瞳で階下にいる奴を眺めている。あるいはやんちゃな子どもを見守る保護者というか。
こんなコウを見ていると苛立たしい。僕の横にいるのに僕を見ないコウ――。許しがたい屈辱を感じる。
フロアから僕たちのいる個室に向かってマリーやバズが大きく両手を振っている。コウも笑ってガラス越しに手をふり返して。向こうから見えはしないのに。気づいていないんだろうな。
「アル、ごめん。つきあわせちゃって。僕はこういう場所が苦手だから――」
コウが振り向いて僕の手をそっと握った。申し訳なさそうに。
「知ってる。かまわないよ、あそこにいるよりコウといる方が僕は楽しいもの」
コウの頬に軽くキスして、彼の肩に腕を回してフロアに視線を戻した。
透き通るような赤い髪が、点滅する光と闇の中、激しく伸び縮みしながら揺らめいている。まるで燃え盛る焔だ――。その一点に視線が引き寄せられる。赤毛を中心にぽっかりと空間が空いているからだ。あれだけ見物人がいて、奴にからんでいく強者はいないのか――。
「アル、ずいぶんご無沙汰していたじゃないか! 来てくれて嬉しいよ!」
雇われ店長の――。名前、なんだっけ? 忘れた。まぁ、いい。たいしたことじゃない。
その店長が新作のカクテルを「自信作だよ」と言いながら、手渡してくれた。
「彼は写すなよ」
「分かってるって」
ちら、とお愛想程度に店長はコウに微笑みかけた。カットフルーツの大皿に、フルートグラスに入ったノンアルコールカクテルがコウの前に置かれる。赤と白のグラデーションだ。コウは不思議そうに眺めている。可愛くて、思わず笑みが漏れた。軽く彼のグラスに僕のグラスを打ち合わせて乾杯すると、にやけた内心を誤魔化すように、くし型のオレンジの飾られた細長いグラスから冷えた透き通る赤を流し込んだ。
店長がさっそくスマートフォンで僕をカシャ、カシャと写している。その画像がSNSに投稿されれば、ほどなく灯りに羽虫が群がるように物見高い連中がよってくる。そんな関係で、僕はこういった店で料金を払ったことがない。
「カンパリベース?」
口に含んだカクテルは、きつい炭酸が細かな音を立てて弾け、オレンジの酸味とジンジャーが舌にピリピリくる刺激的なものだった。
「火の精霊ってカクテル名にするつもりなんだ。どうだい? きみのツレ、あの赤毛の子のイメージで作らせてみたんだ。さすがにきみが連れてくるだけのことはあるね、彼、最高にホットだよ!」
思わずグラスの中身をこいつの顔にぶちまけたくなった。コウの前で、さすがにそんな幼稚なマネはしなかったけれど――。
「あの赤毛の子の写真、撮ってもいいかな?」
僕はコウに視線を流した。大きく眼を見開いて店長を見ていたコウは、さっと彼の手にあるスマートフォンに目をやると、すぐさま何度も顔を横に振った。
「ダメ」とコウの代わりに声に出して答えてやった。
「アル――」
赤毛のことなぞ知ったこっちゃないが、コウがダメだというならダメなのだ。店長の懇願の瞳から、ついと視線を逸らす。
「まぁ、いいよ。今夜のきみも最高! ベストショットをもらえたからね。ほら」
ため息交じりで身を屈めて見せられたスマートフォンの画像は、彼が気にいるのも納得だ。艶やかなエナメルの白いソファーに、僕の黒いシャツと赤のカクテルがよく映えている。実態よりも二割増しゴージャスな店舗に見える。
これで僕の義務は果たしたわけだから、出口に向かって顎をしゃくった。これ以上、コウと二人の時間を邪魔されるのはかなわない。
「アル」
「ん?」
「ありがとう」
「何に対して?」
「いろんなこと――」
「例えば?」
ありがとう――、と言うわりに、コウは深刻そうな、複雑な表情をしている。とても喜んでいるようにはみえない。
どうしたの?
彼の頬を両手で挟んで上向かせた。やはり僕から目を逸らす。なぜだか分からない。さっきまで笑っていたのに――。
「ここの店長と関係したことはないよ」
たぶん――。記憶にある限りでは。酔っていたときのことは分からないけれど。
コウがきょとんと僕を見た。間髪入れずに笑われた。
「疑ったりしてないよ! ショーンに聞いてたもの。きみは大抵のこういう店では顔パスなんだって。ああやって写真で宣伝するんだろ? 僕も見たことがあるんだ」
「じゃあ、なんで――」
見間違い? ひどく不安そうな顔をしていたのに――。クスクス笑っているコウは、いつものコウに見える。
「ドラコは息抜きが必要だったんだ、って教えてくれた。それから、彼が問題を起こすんじゃないかって僕はピリピリしすぎてて、彼を苛立たせていたってこと。そのことばかりに囚われて、きみやみんなのことが見えてなかった。それもきみに指摘されるまで気づかなかったんだ。それで、すごく恥ずかしくて。――きみの方が僕よりずっと、ドラコのことを理解してくれていたんだね。ありがとう、アル」
一気にそれだけ言うとほっと息をついて、コウは僕の肩にもたれて頬を擦りつけてきた。それまでの緊張を解いて、安心しきったように。
――それは誤解だ、なんて、とても言えない。
コウにかかると僕みたいな人間でも、とてつもない善人にされてしまう。そして僕は、そんな彼を裏切ることだけはすまい、と思わずにはいられなくなってしまうのだ。
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