42 / 219
第二章
雑事 8
しおりを挟む
早朝のまだ明けやらぬ薄暗い道を足早にたどって家路についた。静まり返った家のドアをそっと開け、居間に滑りこむ。
閉め切られたままのカーテンの前、ティーテーブルにいる人影に、どきりと心臓が跳ねる。ぽつんと、コウが座っていたのだ。薄暗くて彼の表情が見えない。周囲にそのまま溶けてしまいそうな儚さに、音を立てて血の気が引く。
「おはようのキスをしたくて、待ってたんだ」
コウは押し殺したような震え声で言い、僕に向けて両腕を伸ばした。その手に手繰り寄せられるように歩みよる。身を屈めると、コウは首筋に腕を回し、ぎゅっと僕を抱きかかえた。
冷え切った手――。いつからそこにそうしていたの?
「ごめん、散歩にでてたんだ。早く目が覚めすぎてしまって」
「うん――」
「コウは、」
「キスして」
コウは腕を緩めてくれない。僕を見てくれない。だから、彼の黒髪にキスした。彼の耳にキスした。それからこめかみ。頬骨のあたり。いつも滑らかな頬は、今日は艶がない。小さな鼻。やっとたどり着けた、可愛い唇。薄く開けて僕を待ってくれている。後頭部を両手で支え、コウの不安を舌で絡め取り、唇で吸い取った。飽きることなく何度も、何度も繰り返して。ため息が喘ぎ声に変わるほどに――。
床に膝をついて、そのままコウの腕を引く。倒れこんできた彼をティーテーブルの下に組み敷いた。
「だめだよ、皆、もう起きてくるよ」
「気づいたら遠慮してくれるさ」
「アル、だめだって」
「キスをねだったのはコウじゃないか」
コウはあまりにも僕を知らない。知ろうとしてくれない。こんなふうに僕に甘えておいて、他人を気にしてだめだという。ここは僕の育った家なのに。コウは僕の恋人なのに――。
「俯せになって、すぐに終わらせるから」
研究所からほど近いカフェにいる。ガラス超しに眺める暗い空は、早朝も昼間も変わりなくどんよりと重苦しい。まるで僕の心が投射されているかのようだ。いつものコーヒーは今日に限ってとても苦く感じるし、食べ慣れたはずのベーグルサンドは喉に詰まる。それにテーブルの向かいでは、バニーが遠慮なく僕を嗤っている。
「それで、反省冷めやらぬ内にまたしでかしたって? 盛りのついた十代みたいだな!」
「きみのその笑い方、傷口に塩を塗りこまれてる気になる」
「かまわないじゃないか。いかにも恋してるみたいだよ。タガが外れて本能のままひた走る、これまでのきみにはできなかったことだ」
「そんな訳ないだろ――」
経験くらいあるさ。だから問題なんじゃないか――。
行きずりの相手を扱うように、コウを嬲ったのだ。コウは嫌だといったのに彼の反抗を許さなかった。拗ねて怒りながら、それでも僕を受けいれてくれるコウが堪らなく愛しくて、とりわけ、征服欲を満たされていた。初めてコウを手に入れたときと同じように――。
あれだけ後悔に苛まれたのに。
男同士のセックスを受けいれられなかった彼が、泣きながら僕を愛そうとしてくれた姿に欲情した。自分のあさましさに辟易しながら、コウが僕を求め、受け入れようとしてくれたことに感動せずにはいられなかったのだ――。コウが望んでくれたのは、セックスの愉悦ではなく僕自身だという事実が、衝動を満たした後も変わらない多幸感で僕を満たしてくれていた。内側から尽きることなく滲んでくる愛おしさを初めて感じたのだ。
だからこそ、ひとりになるなり、コウの純粋な想いを喰い散らかした浅はかな自分という現実と、罪悪感とが、目の覚めるような重さで僕を圧し潰したのだ。愛し、愛されることの責任――。こんなにも魅惑的な枷で、僕はコウに囚われた。
それなのに性懲りもなく、僕はまた、性で彼を支配するという幻想に駆られて――。そんなもので彼は支配できないからこそ、彼の愛を信じることができるのだと、解っているはずなのに。
笑いかければ誘ってくる。セックスするためだけに寄ってくる。そんな連中と、彼は初めから違っていた。僕が笑うと、彼は驚いた顔をして――、それから嬉しそうに笑顔をくれた。何も求めることなく――。
コウだけが、いつだって愛をくれる。僕が今まで味わったことのなかった、甘美な安らぎをくれる。
こんな、薄汚い衝動で汚していいはずがない。大切に、大切にしなければ、そうしなければ、コウはまた以前のようにセックスを恐れて僕を拒むかもしれない。また、いきなり僕を置き去りにして、行ってしまうかもしれない。僕の知らない、どこかへ――。あの赤毛と――。
「きみは賢いからね、アル。面倒な取り扱いが必要な子なんて、はなから相手にしなかった。面倒ごとを呼び込む可能性のある相手にしたって同じだ。――よほどのことがない限りはね」
先日話したヘナタトゥーの一件を思いだしたのか、バニーはとってつけたように言い加える。
「それなのに、きみの子猫にはまるでマーキングでもするみたいじゃないか。この躰を所有しているのは誰なのか、ってことを赤毛の彼に気づかせるためにね。面倒なことになればいい、と自ら望んでいるみたいだよ」
これから起こるべくして起こる面倒ごとを期待してでもいるかのように、バニーは笑っている。彼は目を細めて、僕を挑発するかのように見据えたままカップを口に運び、こくりと喉を鳴らして飲み干した。
閉め切られたままのカーテンの前、ティーテーブルにいる人影に、どきりと心臓が跳ねる。ぽつんと、コウが座っていたのだ。薄暗くて彼の表情が見えない。周囲にそのまま溶けてしまいそうな儚さに、音を立てて血の気が引く。
「おはようのキスをしたくて、待ってたんだ」
コウは押し殺したような震え声で言い、僕に向けて両腕を伸ばした。その手に手繰り寄せられるように歩みよる。身を屈めると、コウは首筋に腕を回し、ぎゅっと僕を抱きかかえた。
冷え切った手――。いつからそこにそうしていたの?
「ごめん、散歩にでてたんだ。早く目が覚めすぎてしまって」
「うん――」
「コウは、」
「キスして」
コウは腕を緩めてくれない。僕を見てくれない。だから、彼の黒髪にキスした。彼の耳にキスした。それからこめかみ。頬骨のあたり。いつも滑らかな頬は、今日は艶がない。小さな鼻。やっとたどり着けた、可愛い唇。薄く開けて僕を待ってくれている。後頭部を両手で支え、コウの不安を舌で絡め取り、唇で吸い取った。飽きることなく何度も、何度も繰り返して。ため息が喘ぎ声に変わるほどに――。
床に膝をついて、そのままコウの腕を引く。倒れこんできた彼をティーテーブルの下に組み敷いた。
「だめだよ、皆、もう起きてくるよ」
「気づいたら遠慮してくれるさ」
「アル、だめだって」
「キスをねだったのはコウじゃないか」
コウはあまりにも僕を知らない。知ろうとしてくれない。こんなふうに僕に甘えておいて、他人を気にしてだめだという。ここは僕の育った家なのに。コウは僕の恋人なのに――。
「俯せになって、すぐに終わらせるから」
研究所からほど近いカフェにいる。ガラス超しに眺める暗い空は、早朝も昼間も変わりなくどんよりと重苦しい。まるで僕の心が投射されているかのようだ。いつものコーヒーは今日に限ってとても苦く感じるし、食べ慣れたはずのベーグルサンドは喉に詰まる。それにテーブルの向かいでは、バニーが遠慮なく僕を嗤っている。
「それで、反省冷めやらぬ内にまたしでかしたって? 盛りのついた十代みたいだな!」
「きみのその笑い方、傷口に塩を塗りこまれてる気になる」
「かまわないじゃないか。いかにも恋してるみたいだよ。タガが外れて本能のままひた走る、これまでのきみにはできなかったことだ」
「そんな訳ないだろ――」
経験くらいあるさ。だから問題なんじゃないか――。
行きずりの相手を扱うように、コウを嬲ったのだ。コウは嫌だといったのに彼の反抗を許さなかった。拗ねて怒りながら、それでも僕を受けいれてくれるコウが堪らなく愛しくて、とりわけ、征服欲を満たされていた。初めてコウを手に入れたときと同じように――。
あれだけ後悔に苛まれたのに。
男同士のセックスを受けいれられなかった彼が、泣きながら僕を愛そうとしてくれた姿に欲情した。自分のあさましさに辟易しながら、コウが僕を求め、受け入れようとしてくれたことに感動せずにはいられなかったのだ――。コウが望んでくれたのは、セックスの愉悦ではなく僕自身だという事実が、衝動を満たした後も変わらない多幸感で僕を満たしてくれていた。内側から尽きることなく滲んでくる愛おしさを初めて感じたのだ。
だからこそ、ひとりになるなり、コウの純粋な想いを喰い散らかした浅はかな自分という現実と、罪悪感とが、目の覚めるような重さで僕を圧し潰したのだ。愛し、愛されることの責任――。こんなにも魅惑的な枷で、僕はコウに囚われた。
それなのに性懲りもなく、僕はまた、性で彼を支配するという幻想に駆られて――。そんなもので彼は支配できないからこそ、彼の愛を信じることができるのだと、解っているはずなのに。
笑いかければ誘ってくる。セックスするためだけに寄ってくる。そんな連中と、彼は初めから違っていた。僕が笑うと、彼は驚いた顔をして――、それから嬉しそうに笑顔をくれた。何も求めることなく――。
コウだけが、いつだって愛をくれる。僕が今まで味わったことのなかった、甘美な安らぎをくれる。
こんな、薄汚い衝動で汚していいはずがない。大切に、大切にしなければ、そうしなければ、コウはまた以前のようにセックスを恐れて僕を拒むかもしれない。また、いきなり僕を置き去りにして、行ってしまうかもしれない。僕の知らない、どこかへ――。あの赤毛と――。
「きみは賢いからね、アル。面倒な取り扱いが必要な子なんて、はなから相手にしなかった。面倒ごとを呼び込む可能性のある相手にしたって同じだ。――よほどのことがない限りはね」
先日話したヘナタトゥーの一件を思いだしたのか、バニーはとってつけたように言い加える。
「それなのに、きみの子猫にはまるでマーキングでもするみたいじゃないか。この躰を所有しているのは誰なのか、ってことを赤毛の彼に気づかせるためにね。面倒なことになればいい、と自ら望んでいるみたいだよ」
これから起こるべくして起こる面倒ごとを期待してでもいるかのように、バニーは笑っている。彼は目を細めて、僕を挑発するかのように見据えたままカップを口に運び、こくりと喉を鳴らして飲み干した。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】
彩華
BL
俺の名前は水野圭。年は25。
自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで)
だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。
凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!
凄い! 店員もイケメン!
と、実は穴場? な店を見つけたわけで。
(今度からこの店で弁当を買おう)
浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……?
「胃袋掴みたいなぁ」
その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。
******
そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました

キンモクセイは夏の記憶とともに
広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。
小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。
田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。
そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。
純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。
しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。
「俺になんてもったいない!」
素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。
性描写のある話は【※】をつけていきます。
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿

心からの愛してる
マツユキ
BL
転入生が来た事により一人になってしまった結良。仕事に追われる日々が続く中、ついに体力の限界で倒れてしまう。過労がたたり数日入院している間にリコールされてしまい、あろうことか仕事をしていなかったのは結良だと噂で学園中に広まってしまっていた。
全寮制男子校
嫌われから固定で溺愛目指して頑張ります
※話の内容は全てフィクションになります。現実世界ではありえない設定等ありますのでご了承ください

エートス 風の住む丘
萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」
エートスは
彼の日常に
個性に
そしていつしか――、生き甲斐になる
ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?
*****
今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる