夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第二章

雑事 8

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 早朝のまだ明けやらぬ薄暗い道を足早にたどって家路についた。静まり返った家のドアをそっと開け、居間に滑りこむ。
 閉め切られたままのカーテンの前、ティーテーブルにいる人影に、どきりと心臓が跳ねる。ぽつんと、コウが座っていたのだ。薄暗くて彼の表情が見えない。周囲にそのまま溶けてしまいそうな儚さに、音を立てて血の気が引く。

「おはようのキスをしたくて、待ってたんだ」

 コウは押し殺したような震え声で言い、僕に向けて両腕を伸ばした。その手に手繰り寄せられるように歩みよる。身を屈めると、コウは首筋に腕を回し、ぎゅっと僕を抱きかかえた。

 冷え切った手――。いつからそこにそうしていたの?


「ごめん、散歩にでてたんだ。早く目が覚めすぎてしまって」
「うん――」
「コウは、」
「キスして」

 コウは腕を緩めてくれない。僕を見てくれない。だから、彼の黒髪にキスした。彼の耳にキスした。それからこめかみ。頬骨のあたり。いつも滑らかな頬は、今日は艶がない。小さな鼻。やっとたどり着けた、可愛い唇。薄く開けて僕を待ってくれている。後頭部を両手で支え、コウの不安を舌で絡め取り、唇で吸い取った。飽きることなく何度も、何度も繰り返して。ため息が喘ぎ声に変わるほどに――。


 床に膝をついて、そのままコウの腕を引く。倒れこんできた彼をティーテーブルの下に組み敷いた。

「だめだよ、皆、もう起きてくるよ」
「気づいたら遠慮してくれるさ」
「アル、だめだって」
「キスをねだったのはコウじゃないか」

 コウはあまりにも僕を知らない。知ろうとしてくれない。こんなふうに僕に甘えておいて、他人を気にしてだめだという。ここは僕の育った家なのに。コウは僕の恋人なのに――。

「俯せになって、すぐに終わらせるから」





 研究所からほど近いカフェにいる。ガラス超しに眺める暗い空は、早朝も昼間も変わりなくどんよりと重苦しい。まるで僕の心が投射されているかのようだ。いつものコーヒーは今日に限ってとても苦く感じるし、食べ慣れたはずのベーグルサンドは喉に詰まる。それにテーブルの向かいでは、バニーが遠慮なく僕を嗤っている。

「それで、反省冷めやらぬ内にまたしでかしたって? 盛りのついた十代ティーンみたいだな!」
「きみのその笑い方、傷口に塩を塗りこまれてる気になる」
「かまわないじゃないか。いかにも恋してるみたいだよ。タガが外れて本能のままひた走る、これまでのきみにはできなかったことだ」
「そんな訳ないだろ――」

 
 経験くらいあるさ。だから問題なんじゃないか――。

 行きずりの相手を扱うように、コウをなぶったのだ。コウは嫌だといったのに彼の反抗を許さなかった。拗ねて怒りながら、それでも僕を受けいれてくれるコウが堪らなく愛しくて、とりわけ、征服欲を満たされていた。初めてコウを手に入れたときと同じように――。

 あれだけ後悔に苛まれたのに。
 男同士のセックスを受けいれられなかった彼が、泣きながら僕を愛そうとしてくれた姿に欲情した。自分のあさましさに辟易しながら、コウが僕を求め、受け入れようとしてくれたことに感動せずにはいられなかったのだ――。コウが望んでくれたのは、セックスの愉悦ではなく僕自身だという事実が、衝動を満たした後も変わらない多幸感で僕を満たしてくれていた。内側から尽きることなく滲んでくる愛おしさを初めて感じたのだ。

 だからこそ、ひとりになるなり、コウの純粋な想いを喰い散らかした浅はかな自分という現実と、罪悪感とが、目の覚めるような重さで僕を圧し潰したのだ。愛し、愛されることの責任――。こんなにも魅惑的なかせで、僕はコウに囚われた。


 それなのに性懲りもなく、僕はまた、性で彼を支配するという幻想に駆られて――。そんなもので彼は支配できないからこそ、彼の愛を信じることができるのだと、解っているはずなのに。


 笑いかければ誘ってくる。セックスするためだけに寄ってくる。そんな連中と、彼は初めから違っていた。僕が笑うと、彼は驚いた顔をして――、それから嬉しそうに笑顔をくれた。何も求めることなく――。

 コウだけが、いつだって愛をくれる。僕が今まで味わったことのなかった、甘美な安らぎをくれる。

 こんな、薄汚い衝動で汚していいはずがない。大切に、大切にしなければ、そうしなければ、コウはまた以前のようにセックスを恐れて僕を拒むかもしれない。また、いきなり僕を置き去りにして、行ってしまうかもしれない。僕の知らない、どこかへ――。あの赤毛と――。



「きみは賢いからね、アル。面倒な取り扱いが必要な子なんて、はなから相手にしなかった。面倒ごとを呼び込む可能性のある相手にしたって同じだ。――よほどのことがない限りはね」

 先日話したヘナタトゥーの一件を思いだしたのか、バニーはとってつけたように言い加える。

「それなのに、きみの子猫にはまるでマーキングでもするみたいじゃないか。を所有しているのは誰なのか、ってことを赤毛の彼に気づかせるためにね。面倒なことになればいい、と自ら望んでいるみたいだよ」


 これから起こるべくして起こる面倒ごとを期待してでもいるかのように、バニーは笑っている。彼は目を細めて、僕を挑発するかのように見据えたままカップを口に運び、こくりと喉を鳴らして飲み干した。





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