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第二章
雑事 7
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それ以上コウを追い詰めることが僕にはできなかった。コウの返事を待たずに、適当に話題を切り替えた。コウも、あからさまにほっとしたようで、もうあまり喋ろうとしなかった。この話題が蒸し返されるのが怖かったのだろう。
疲れてるだろ? 僕は居間で寝るからゆっくり休んで――、と、おやすみのキスをした。半ば強引にコウを自室に追いやってから、そっと家を抜けだした。ニーノなら、この時間でも起きている。
「ローズは?」
「とっくに寝てるよ、気にしないで、アル」
甘い吐息と掠れた囁きが耳をくすぐる。そんなに焦らなくたって、泊まっていくのに。首筋を這う唇と、もどかしげにボタンを外していく指先があまりにもせっかちでおかしかった。
とはいっても少しは眠りたいし――、せっかちニーノのテンポに任せるのがいいのだろう。彼は躁急な分手際がいい。
薄闇に溶けるような灰色のベッドシーツ。灰色のカーテン。細いストライプの壁紙に、シェードから零れる柔らかなスタンドの灯りが映る。モダンな彼の店とは裏腹に、ニーノの寝室はクラシカルだ。落ち着いていて、そのくせ優しい。それに、白薔薇の香りも――。店で飾っていた開き過ぎた花を寝室に持ち帰るから、この部屋には花が絶えることがない。だから、隣の部屋に彼の娘が寝ていることさえ忘れていられるなら、彼の寝室は嫌いじゃない。
「久しぶり。アルがこうして来てくれるのって」
ニーノはおしゃべりだ。息を弾ませ、喘ぎながら、動きながら、喋り続ける。
「そうだっけ――」
いちいち覚えてないよ。
「あのキュートな彼に夢中なんだと思ってた」
「夢中だよ」
「見てて解るよ」
彼の頭を抱え、顎をのけ反らせて、ベッドヘッドの上にかかるフレームを眺めていた。前に来たときとは違う、モノクロの風景写真だ。ロンドンの街並みの――。
「この二日、コウの帰りが遅いんだ。別の奴と出掛けていて――」
「浮気するタイプには見えなかったのに」
「浮気してるわけじゃない。彼は本来ストレートだもの」
「ああ、それはつらいね、アル」
「嫉妬で気が狂いそうになるんだ」
ニーノの動きが止まり、彼は半身を起こしてまじまじと僕を見つめた。何か言いたげに薄く口を開いたのに、続く言葉は出てこない。僕はしびれを切らして、彼の肩に手をかけ引き寄せた。
「そんな相手に寄り添って、正しい状態に導くのがきみの仕事だ――、なんて言わないでよ。それはもう、言われたからね」
くっ、とニーノは噴きだして、遠慮なく声を立てて笑い僕を抱きしめた。
「それで僕のところへ来てくれたんだ。もう少し早い時間なら、美味しい皿と、極上のワインできみを慰めてあげられたのに」
「極上のセックスだけで我慢する」
「それを享受するのは僕の方だよ――」
ニーノの柔らかな唇が落ちる。止むことなく降り注ぐ激しいキスの雨。もう彼は、唇で、舌で、口腔の全てを使って僕を食べ始めている。せっかちで慌ただしい準備さえ終われば、後は時間をかけてじっくりと、飽食に浸るのだ。僕を満足させてくれるまで、飽く事なく。彼は、彼の提供する料理のように妥協しない――。
「きみは至高のシャンパンだもの。日々のワインとは違う。特別な日にだけ、密やかに楽しむものだよ」
誰かのことを、そんなふうに思ったことなんてない。ニーノも、バニーも、それぞれ違うけれど、結局は同じだ。ただのセックスでしかない。けれど、コウだけが僕に愛をくれる。太陽が植物に光を降り注ぐように、彼は僕に愛を注いでくれる。毎日でも欲しい。そうしないと、僕は飢えて、餓えて、枯れてしまう――。
応えない僕の気を引くように、ニーノは僕の耳朶を噛み、囁き続けた。
「きみだってよく解ってるじゃないか。日常的にきみを取り入れていると、きっと中毒になってしまうってこと。だからきみは誰のものにもならなかった。相手を悦楽で殺してしまわないように――」
「ニーノ、きみってそんなふうに思ってたんだ?」
「知らなかっただろ? これでも僕はきみを――、きみと、いい友人でいたいと思っているんだ」
「僕はきみの好みじゃないだろ?」
「きみは特別だよ。エロスそのものだからね。崇拝の対象であって、恋人にはなり得ない。――それにしてもこの肌の装飾! 今夜のきみは、いつにも増して神秘的で蠱惑的だよ。だからね、きみの恋人、彼はすごいと思うよ。毎日こんなきみといて、正気を保てているんだもの!」
エロス――、生の欲動。
だが僕にとっての性のベクトルは、逆方向を向いている。僕を肯定してくれる母のいる世界、死の欲動だ。性の欲動は意識の海に溺れる僕を破壊し、泡に帰す。
――だから僕は、去勢された父の切り落とされた男根の泡から生まれでた、ビーナスの息子なのか。
とても褒められている気はしないな。
クスクス笑いを堪えようもなくて、彼の胸に顔を擦りつけた。上目遣いにニーノを覗きあげる。
「コウの正気を奪うことができたら、って思うよ」
僕の想う半分でも、僕を想ってくれたら。僕だけを想ってくれるなら――。
想いは泡のように儚く湧いては、弾けて消える。軽く、切れ間なく、幾つも、幾つも連なって――。こんな、グラスの縁から溢れこぼれる際限のない欲動の泡を、ニーノはあますことなく味わってくれる。
白い咆哮。飛び散る飛沫。撥ねて、跳んで、泡に絡まりきらきらと閃光を放つのは――。
嫉妬だ。
僕の知らないコウを知っている赤毛が妬ましい――。
今、この瞬間の僕を発火させる動力は、本当はそんなものだ、と知っている。
コウの熱に焼かれ、吹き上げられる灼熱の白い灰を見あげながら、ニーノの腰に脚を絡める。大きく指を広げて、盛りあがる筋肉を掴む。薄闇に白く浮き上がるこの腕には、蛍光色に輝く萌黄色の蛇がうねるように絡まっている。腕だけじゃない、全身に――。蛇の生みだす幾何学模様の渦は、この躰を荒々しく巻き込み、引きずり込む。燃え上がる焔の内へ、内へと――。
僕のコウは甘美な煉獄――。
僕を焼き尽くし白い灰に変える。そうして、新しい僕を生んでくれる。コウだけが僕に命をくれる。僕を生かしてくれる。
ニーノの味わう僕は、泡――。
意識の水底から際限なく浮きあがる空虚な水泡。
ニーノ、ニーノ、もっと、僕を食べて、僕を殺して。
この灼熱の白い火の粉が、決してコウの上には降りかからぬように――。
疲れてるだろ? 僕は居間で寝るからゆっくり休んで――、と、おやすみのキスをした。半ば強引にコウを自室に追いやってから、そっと家を抜けだした。ニーノなら、この時間でも起きている。
「ローズは?」
「とっくに寝てるよ、気にしないで、アル」
甘い吐息と掠れた囁きが耳をくすぐる。そんなに焦らなくたって、泊まっていくのに。首筋を這う唇と、もどかしげにボタンを外していく指先があまりにもせっかちでおかしかった。
とはいっても少しは眠りたいし――、せっかちニーノのテンポに任せるのがいいのだろう。彼は躁急な分手際がいい。
薄闇に溶けるような灰色のベッドシーツ。灰色のカーテン。細いストライプの壁紙に、シェードから零れる柔らかなスタンドの灯りが映る。モダンな彼の店とは裏腹に、ニーノの寝室はクラシカルだ。落ち着いていて、そのくせ優しい。それに、白薔薇の香りも――。店で飾っていた開き過ぎた花を寝室に持ち帰るから、この部屋には花が絶えることがない。だから、隣の部屋に彼の娘が寝ていることさえ忘れていられるなら、彼の寝室は嫌いじゃない。
「久しぶり。アルがこうして来てくれるのって」
ニーノはおしゃべりだ。息を弾ませ、喘ぎながら、動きながら、喋り続ける。
「そうだっけ――」
いちいち覚えてないよ。
「あのキュートな彼に夢中なんだと思ってた」
「夢中だよ」
「見てて解るよ」
彼の頭を抱え、顎をのけ反らせて、ベッドヘッドの上にかかるフレームを眺めていた。前に来たときとは違う、モノクロの風景写真だ。ロンドンの街並みの――。
「この二日、コウの帰りが遅いんだ。別の奴と出掛けていて――」
「浮気するタイプには見えなかったのに」
「浮気してるわけじゃない。彼は本来ストレートだもの」
「ああ、それはつらいね、アル」
「嫉妬で気が狂いそうになるんだ」
ニーノの動きが止まり、彼は半身を起こしてまじまじと僕を見つめた。何か言いたげに薄く口を開いたのに、続く言葉は出てこない。僕はしびれを切らして、彼の肩に手をかけ引き寄せた。
「そんな相手に寄り添って、正しい状態に導くのがきみの仕事だ――、なんて言わないでよ。それはもう、言われたからね」
くっ、とニーノは噴きだして、遠慮なく声を立てて笑い僕を抱きしめた。
「それで僕のところへ来てくれたんだ。もう少し早い時間なら、美味しい皿と、極上のワインできみを慰めてあげられたのに」
「極上のセックスだけで我慢する」
「それを享受するのは僕の方だよ――」
ニーノの柔らかな唇が落ちる。止むことなく降り注ぐ激しいキスの雨。もう彼は、唇で、舌で、口腔の全てを使って僕を食べ始めている。せっかちで慌ただしい準備さえ終われば、後は時間をかけてじっくりと、飽食に浸るのだ。僕を満足させてくれるまで、飽く事なく。彼は、彼の提供する料理のように妥協しない――。
「きみは至高のシャンパンだもの。日々のワインとは違う。特別な日にだけ、密やかに楽しむものだよ」
誰かのことを、そんなふうに思ったことなんてない。ニーノも、バニーも、それぞれ違うけれど、結局は同じだ。ただのセックスでしかない。けれど、コウだけが僕に愛をくれる。太陽が植物に光を降り注ぐように、彼は僕に愛を注いでくれる。毎日でも欲しい。そうしないと、僕は飢えて、餓えて、枯れてしまう――。
応えない僕の気を引くように、ニーノは僕の耳朶を噛み、囁き続けた。
「きみだってよく解ってるじゃないか。日常的にきみを取り入れていると、きっと中毒になってしまうってこと。だからきみは誰のものにもならなかった。相手を悦楽で殺してしまわないように――」
「ニーノ、きみってそんなふうに思ってたんだ?」
「知らなかっただろ? これでも僕はきみを――、きみと、いい友人でいたいと思っているんだ」
「僕はきみの好みじゃないだろ?」
「きみは特別だよ。エロスそのものだからね。崇拝の対象であって、恋人にはなり得ない。――それにしてもこの肌の装飾! 今夜のきみは、いつにも増して神秘的で蠱惑的だよ。だからね、きみの恋人、彼はすごいと思うよ。毎日こんなきみといて、正気を保てているんだもの!」
エロス――、生の欲動。
だが僕にとっての性のベクトルは、逆方向を向いている。僕を肯定してくれる母のいる世界、死の欲動だ。性の欲動は意識の海に溺れる僕を破壊し、泡に帰す。
――だから僕は、去勢された父の切り落とされた男根の泡から生まれでた、ビーナスの息子なのか。
とても褒められている気はしないな。
クスクス笑いを堪えようもなくて、彼の胸に顔を擦りつけた。上目遣いにニーノを覗きあげる。
「コウの正気を奪うことができたら、って思うよ」
僕の想う半分でも、僕を想ってくれたら。僕だけを想ってくれるなら――。
想いは泡のように儚く湧いては、弾けて消える。軽く、切れ間なく、幾つも、幾つも連なって――。こんな、グラスの縁から溢れこぼれる際限のない欲動の泡を、ニーノはあますことなく味わってくれる。
白い咆哮。飛び散る飛沫。撥ねて、跳んで、泡に絡まりきらきらと閃光を放つのは――。
嫉妬だ。
僕の知らないコウを知っている赤毛が妬ましい――。
今、この瞬間の僕を発火させる動力は、本当はそんなものだ、と知っている。
コウの熱に焼かれ、吹き上げられる灼熱の白い灰を見あげながら、ニーノの腰に脚を絡める。大きく指を広げて、盛りあがる筋肉を掴む。薄闇に白く浮き上がるこの腕には、蛍光色に輝く萌黄色の蛇がうねるように絡まっている。腕だけじゃない、全身に――。蛇の生みだす幾何学模様の渦は、この躰を荒々しく巻き込み、引きずり込む。燃え上がる焔の内へ、内へと――。
僕のコウは甘美な煉獄――。
僕を焼き尽くし白い灰に変える。そうして、新しい僕を生んでくれる。コウだけが僕に命をくれる。僕を生かしてくれる。
ニーノの味わう僕は、泡――。
意識の水底から際限なく浮きあがる空虚な水泡。
ニーノ、ニーノ、もっと、僕を食べて、僕を殺して。
この灼熱の白い火の粉が、決してコウの上には降りかからぬように――。
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