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第二章
雑事 6
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バニーのフラットから家に帰りついた頃には、午前零時を回っていた。こんな時間なのに、居間には煌々と灯りがついている。普段のコウやマリーなら自室に引きあげている時間なのに……。
また節操のない赤毛やショーンが、コウの都合も考えず話しこんでいるのだろうか、とドアを開けると、そこにいたのはコウだけだった。彼ひとりディナーテーブルについて、侘しげに食事をしていたのだ。
僕を見あげ、いつもとかわりなく「アル、おかえり!」と、もごもごと頬を膨らませたまま、笑みを作って迎えてくれる。
「食事は? 食べてるか――。こんな時間だものね」
「きみこそ。今頃食事だなんて、こんな時間まで出かけていたの?」
コウは曖昧に笑って答えない。
「ちゃんと夕食は食べたよ。これは夜食。お腹空いちゃって」
「またロンドンの街を歩き回っていたから?」
赤毛と――。
コウの向かいに腰かけて、じっと彼を見据えた。コウは僕を見つめ返したまま、黙々と食べ続けている。
「アルも食べない? 美味しいよ。きみの分も取り分けてくれてるよ」
「いらない」
赤毛が用意した食事なんて――。
「きみに食べてもらいたくて、こうして作ってくれているのに」
意味が取れずに、小首を傾げた。
「僕はドラコの提案を受け入れるつもりだよ。ちゃんと話を聴いてみたら、彼らが、ブラウンさんがここで働きたい気持ちも、理解できるんだ。実際、こうして頑張ってくれてるんだし――。無下に断るのも可哀想だよ」
また、ひとりで決めてしまう――。また、僕よりも赤毛を選ぶ――。それが、いやなんだ!
コウからぷいっと目を逸らした。見るともなく、ケルムコット・ツリーのカーテンに目を据えた。プリントされた丸い木立ちがざわざわと揺れている。窓が開いたままなのか、と窓を閉めに席を立つ。
閉まっている。
まさか、虫? それとも鼠か――。不愉快さが加速的に増していた。害虫と変わりないあの赤毛を、いっそ駆除してしまいたい――。
「僕はいやだよ。僕を娼婦呼ばわりする奴の言うことを聞くなんて――」
カーテンをジャッと跳ね開けて窓枠に腰かけ、コウを見据えた。
「え――、と、ショーンの白雪姫解釈のことかな?」
コウは少し困惑したように唇を薄く開き、考えこむ様子で目を細める。
「そんな解釈もあるってだけの話だよ。気にするようなことじゃないよ」
「でもそれが、本来の民俗学的な解釈なんじゃないの?」
「綿密なフィールドワークに基づいたもの、ではあるけどね。広範囲で類話がみられる御伽噺には、その土地土地の風習が折り込まれているものもあるってだけで」
いよいよ困ったように、コウはもぞもぞと落ち着かない様子で身動ぎする。上手く説明する言葉が見つからない? それとも話したくない? 赤毛を庇って言い淀むコウが憎くて、ひたひたと満ちていく冷ややかな感情を全て瞳に凝縮して、彼を見据えた。
「ただの解釈だよ。きみを揶揄したものなんかじゃない。僕もドラコも、ああいった社会風俗を投影した解釈には、興味はないんだ。僕たちは――、探しているものが違う」
何を? と、僕は首を傾けた。コウの曖昧な笑み。覚束ない視線。このまま訊ね続けてもいいものかと、僕の方が迷っている。こんな言い訳でしかない会話――。こんな些細なことが、コウの心を追い詰める。解っているのに、動けない。微笑めない。寛大になれない。
「僕らにとって意味があるのは、伝承の中に隠された呪術の痕跡。正しくは、精霊の痕跡を――。人が施した呪術と、精霊の施した呪術を見極めて、あちこちに空いた穴や捩じれを見つけることなんだ。ショーンのような正統派のアプローチとは違う。でも――」
コウはこくりと喉を鳴らして、甘えるような愛らしい眼差しで僕を見つめ、戸惑いを振り払うように瞬きした。
「ごめん、上手く説明できなくて。でも、僕がきみに話した解釈は本当――、の昔ながらの伝承だよ。だからきみのお母さんは地の精霊の血脈って呼ばれているだろ? 僕の作り上げた勝手な解釈ってわけじゃないんだよ」
え? と意外な想いでコウを見つめた。コウ独自の解釈じゃない――、知識だけは豊富なショーンさえ知らなかったのに……。でも、言われてみればその通りだ。僕自身、知っていたのだから――。
いつそれを聴いたのか、誰から聴いた話だったのか定かではないほど昔から知っていた。ある意味特殊な世界に生きていた母に冠せられた、賛辞としての精霊の血――。実態を伴わない言葉は、実態を反映しない御伽噺から生まれたと考えることこそ相応しいのかもしれない。
そんな物語に見出せる象徴のもつ意味にこそ、コウのいう、異界に通じる穴が投影されるのかもしれない。聖と俗、生と死、この世とあの世をつなぐ穴。繰り返される律動が生と性を結びつけるような――。
「ドラコに教えてもらったんだ。彼の世界の伝承を――」
それだけのことを言うために、とんでもない覚悟を決めたとでもいうような緊張を帯びた声音だった。赤毛の解釈する僕は、残念ながらコウの信じているような美しいものではなさそうだけどね。こんなにも必死に、コウは僕を宥めようと尽くしてくれるのに、僕はますます冷え込んでいくばかりだ。
「それで、地の精霊の宝を見つけて、どうするつもりだったの?」
探していた、って言ったろう? 赤毛と一緒に――。
「見つけて――」
コウはまたもや困惑して口許を強張らせる。
これも尋ねてはいけないことなの?
コウはなぜいつも、自分の専攻に関する話題で口籠るのだろう。
赤毛の見つめる世界とやらをコウの肩越しに覗くと、そこは、朧で、曖昧で、嘘と欺瞞で霞んでいて――。僕はいつも、疑惑という重く冷たい霧の中で、コウを見失ってしまうのだ――。
また節操のない赤毛やショーンが、コウの都合も考えず話しこんでいるのだろうか、とドアを開けると、そこにいたのはコウだけだった。彼ひとりディナーテーブルについて、侘しげに食事をしていたのだ。
僕を見あげ、いつもとかわりなく「アル、おかえり!」と、もごもごと頬を膨らませたまま、笑みを作って迎えてくれる。
「食事は? 食べてるか――。こんな時間だものね」
「きみこそ。今頃食事だなんて、こんな時間まで出かけていたの?」
コウは曖昧に笑って答えない。
「ちゃんと夕食は食べたよ。これは夜食。お腹空いちゃって」
「またロンドンの街を歩き回っていたから?」
赤毛と――。
コウの向かいに腰かけて、じっと彼を見据えた。コウは僕を見つめ返したまま、黙々と食べ続けている。
「アルも食べない? 美味しいよ。きみの分も取り分けてくれてるよ」
「いらない」
赤毛が用意した食事なんて――。
「きみに食べてもらいたくて、こうして作ってくれているのに」
意味が取れずに、小首を傾げた。
「僕はドラコの提案を受け入れるつもりだよ。ちゃんと話を聴いてみたら、彼らが、ブラウンさんがここで働きたい気持ちも、理解できるんだ。実際、こうして頑張ってくれてるんだし――。無下に断るのも可哀想だよ」
また、ひとりで決めてしまう――。また、僕よりも赤毛を選ぶ――。それが、いやなんだ!
コウからぷいっと目を逸らした。見るともなく、ケルムコット・ツリーのカーテンに目を据えた。プリントされた丸い木立ちがざわざわと揺れている。窓が開いたままなのか、と窓を閉めに席を立つ。
閉まっている。
まさか、虫? それとも鼠か――。不愉快さが加速的に増していた。害虫と変わりないあの赤毛を、いっそ駆除してしまいたい――。
「僕はいやだよ。僕を娼婦呼ばわりする奴の言うことを聞くなんて――」
カーテンをジャッと跳ね開けて窓枠に腰かけ、コウを見据えた。
「え――、と、ショーンの白雪姫解釈のことかな?」
コウは少し困惑したように唇を薄く開き、考えこむ様子で目を細める。
「そんな解釈もあるってだけの話だよ。気にするようなことじゃないよ」
「でもそれが、本来の民俗学的な解釈なんじゃないの?」
「綿密なフィールドワークに基づいたもの、ではあるけどね。広範囲で類話がみられる御伽噺には、その土地土地の風習が折り込まれているものもあるってだけで」
いよいよ困ったように、コウはもぞもぞと落ち着かない様子で身動ぎする。上手く説明する言葉が見つからない? それとも話したくない? 赤毛を庇って言い淀むコウが憎くて、ひたひたと満ちていく冷ややかな感情を全て瞳に凝縮して、彼を見据えた。
「ただの解釈だよ。きみを揶揄したものなんかじゃない。僕もドラコも、ああいった社会風俗を投影した解釈には、興味はないんだ。僕たちは――、探しているものが違う」
何を? と、僕は首を傾けた。コウの曖昧な笑み。覚束ない視線。このまま訊ね続けてもいいものかと、僕の方が迷っている。こんな言い訳でしかない会話――。こんな些細なことが、コウの心を追い詰める。解っているのに、動けない。微笑めない。寛大になれない。
「僕らにとって意味があるのは、伝承の中に隠された呪術の痕跡。正しくは、精霊の痕跡を――。人が施した呪術と、精霊の施した呪術を見極めて、あちこちに空いた穴や捩じれを見つけることなんだ。ショーンのような正統派のアプローチとは違う。でも――」
コウはこくりと喉を鳴らして、甘えるような愛らしい眼差しで僕を見つめ、戸惑いを振り払うように瞬きした。
「ごめん、上手く説明できなくて。でも、僕がきみに話した解釈は本当――、の昔ながらの伝承だよ。だからきみのお母さんは地の精霊の血脈って呼ばれているだろ? 僕の作り上げた勝手な解釈ってわけじゃないんだよ」
え? と意外な想いでコウを見つめた。コウ独自の解釈じゃない――、知識だけは豊富なショーンさえ知らなかったのに……。でも、言われてみればその通りだ。僕自身、知っていたのだから――。
いつそれを聴いたのか、誰から聴いた話だったのか定かではないほど昔から知っていた。ある意味特殊な世界に生きていた母に冠せられた、賛辞としての精霊の血――。実態を伴わない言葉は、実態を反映しない御伽噺から生まれたと考えることこそ相応しいのかもしれない。
そんな物語に見出せる象徴のもつ意味にこそ、コウのいう、異界に通じる穴が投影されるのかもしれない。聖と俗、生と死、この世とあの世をつなぐ穴。繰り返される律動が生と性を結びつけるような――。
「ドラコに教えてもらったんだ。彼の世界の伝承を――」
それだけのことを言うために、とんでもない覚悟を決めたとでもいうような緊張を帯びた声音だった。赤毛の解釈する僕は、残念ながらコウの信じているような美しいものではなさそうだけどね。こんなにも必死に、コウは僕を宥めようと尽くしてくれるのに、僕はますます冷え込んでいくばかりだ。
「それで、地の精霊の宝を見つけて、どうするつもりだったの?」
探していた、って言ったろう? 赤毛と一緒に――。
「見つけて――」
コウはまたもや困惑して口許を強張らせる。
これも尋ねてはいけないことなの?
コウはなぜいつも、自分の専攻に関する話題で口籠るのだろう。
赤毛の見つめる世界とやらをコウの肩越しに覗くと、そこは、朧で、曖昧で、嘘と欺瞞で霞んでいて――。僕はいつも、疑惑という重く冷たい霧の中で、コウを見失ってしまうのだ――。
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