36 / 219
第二章
雑事 2
しおりを挟む
早く帰ると約束したのに、バニーの親戚のアンティークショップへ連れていってもらい、その後お礼に食事につきあったりで、結局、遅くなってしまった。部屋に寄っていくかい――、と誘われもしたけれど、さすがに今日は断った。まだコウの感触が肌に残っているんだ。上書きする気になんてとてもなれない。
気持ちだけは急いで戻ってきたつもりだったのだ。それなのに、コウは家にいなかった。朝には、「今日は早く帰ってくる?」って、ねだるような瞳でキスをくれたのに――。
赤毛と出かけているという。コウはやっと体調が回復してきたばかりなのに――。赤毛にはコウを労わるって気持ちが欠片もないのか? 腹立たしさに、ついムッとした顔をしてしまう。
それにしても――。
「その料理は?」
コウがいないのに、食器を使って食事をしているなんて珍しい。マリーも、ショーンも、家で食べる夕食はたいてい、持ち帰りかデリバリーだ。それをわざわざ昨夜のままのディナーテーブルにきちんと料理を並べ、正式のディナーセットで食べているなんて……。
まるで昨日の悪夢の続きじゃないか――。
ショーンとマリーが顔を見合わせる。
「ドラコが昨日のお詫びだってさ。雇う、雇わないは関係なしで、しばらく夕食を提供したいって」
「椅子も元に戻すから心配いらないって、殊勝に頭を下げてたわよ」
かわるがわる口を開くこの二人の気が知れない。こんな出来合いの夕飯で懐柔されるなんて――。
「きみも、」
「済ましてきた」
そっけなく応えて、マリーに「後で部屋によって」と一声かけて早々に自室へ戻る。
コウはいったい赤毛と何をしているんだ? 民俗学の研究? 資料集め? あの男は大学すら行ってないのに。まず、いくつなんだ、年齢は――。パスポート、賃貸契約の書類を作るときに確認したはずなのに。なぜだか奴に関する記憶はいつも曖昧で、すぐに忘れてしまう。霧散するのだ。拡散されてすぐに見えなくなる、むわりと白い蒸気のように。
いつの間にか煙に巻かれているってやつだな――。
やりきれなくて、深くため息を吐いていた。
何がこうもあやふやなのだろう? 全てあの赤毛に関することばかり。いったい、奴はコウのなんなんだ?
ベッドに転がって、ぼんやりと流れる思考の断片を眺めていた。コウと赤毛――。コウは迷惑がっている。それなのに、奴を切れないでいる。コウの消耗は、その心労のせいだ。なぜ、コウはああも奴を庇おうとするのだろう? 同郷のよしみ――。友人だから――。コウは、優しいから――。
解らない。たとえ志を同じくして日本を発ってきたのだとしても、人生は別だ。コウに彼の不始末を背負う理由なんてない。いつまでもコウに甘えるだけの赤毛は、まるきり子どもじゃないか。なんでも金で片づけようとするところも――。
そんなことを取り留めもなく考えているうちに、食事を終えたマリーが上がってきた。お茶をもって。
「驚いたよ。ショーンとずいぶん仲良くなったんだね」
皮肉の一つも言いたくなる。マリーは唇をつきだして肩をすくめる。
「話してみると、まともなところもあるのよ、あいつ。少なくとも、コウに対してはまっとうだわ」
彼にまで懐柔されたのか……。マリー、頑固なはずのきみの意志はどこにいった?
思わずついて出たため息に、マリーは言い訳するように目を見開いて早口で喋りだす。
「解ってるわよ。出ていってもらうって気持ちは変わってないわ。ドラコはあの気性じゃ狂暴すぎてとても一緒になんて暮らせないし、ショーンは――、」
ふっと言葉が途切れる。上手い悪口が思い浮かばないのかな。
「ショーンは?」
「優しいところもあるのよ。アルがいない間、一緒にいろいろ考えてくれて……」
「ミラの男だよ」
「――解ってるわよ! 私が好きなのは、」
「うん。顔の広い友人に尋ねてきた。だから帰りが遅くなったんだ」
「アル! ありがとう!」
マリーが僕に飛びついてくる。僕を抱きしめる腕が緊張で震えている。今回はかなり真剣なんだね。
マリーの恋はいつも上手くいかない。最初はいい感じでスタートしても、長続きしない。やっぱり違う、といつも彼女の方から終わってしまう。彼女は、恋愛に懐疑的で臆病な面があるのだ。半分は僕のせいもある。僕が彼女にいい影響を与えてこなかったから――。でも、マリーはミラのように飽き性でも、孤独を埋めてくれる相手なら誰でもいい、というわけでもない。僕がコウに巡り逢えたように、心から愛せるたった一人を見つけたいのだ。
「きみの話してくれた容姿だけじゃ、やっぱり誰だか判らないって」
僕にもたれる彼女の力が、がっくりと抜けた。
「だから、研究所の夏の慰労会に来てみれば、って誘ってくれた。きっとそこで意中の彼にも遇えるんじゃないかな」
「本当!」
もたれていた頭を跳ね起こして、頓狂な声をあげる。
「たまたまバカンス休暇を取っているのでもない限り、若い連中はだいたい来るそうだよ」
「ありがとう、アル!」
僕は面倒臭くて、この恒例の慰労会にこれまで参加したことがない。だが今回はそんなわけにはいかない。新年度から入れ替わる、研究員や職員の送別会も兼ねているからだ。絶対に出席するように念を押して言われている。
一目惚れしたというマリーの相手は、どうやら僕のいるデンマーク・ヒル・キャンパスの職員か研究員らしい。僕と話していた、とマリーは言うのだが、その場で言ってくれないと、誰のことだか皆目見当もつかない。だからバニーに尋ねてみたのだけど、漠然としすぎていて彼でも無理だった。「かっこいい」とか「優しそう」なんて言葉じゃなく、マリーはもっと人物を描写できる語彙を増やすべきだ。
昨夜、僕とコウのことに水を差すようなことを言い、マリーは僕の注意を自分に向けさせた。焼きもちだ。僕だけが幸せ、なんて許せないのだ。
僕は彼女に対して責任がある。彼女のこの甘えも、歪みも、僕が作り上げたものでもあるのだから――。
気持ちだけは急いで戻ってきたつもりだったのだ。それなのに、コウは家にいなかった。朝には、「今日は早く帰ってくる?」って、ねだるような瞳でキスをくれたのに――。
赤毛と出かけているという。コウはやっと体調が回復してきたばかりなのに――。赤毛にはコウを労わるって気持ちが欠片もないのか? 腹立たしさに、ついムッとした顔をしてしまう。
それにしても――。
「その料理は?」
コウがいないのに、食器を使って食事をしているなんて珍しい。マリーも、ショーンも、家で食べる夕食はたいてい、持ち帰りかデリバリーだ。それをわざわざ昨夜のままのディナーテーブルにきちんと料理を並べ、正式のディナーセットで食べているなんて……。
まるで昨日の悪夢の続きじゃないか――。
ショーンとマリーが顔を見合わせる。
「ドラコが昨日のお詫びだってさ。雇う、雇わないは関係なしで、しばらく夕食を提供したいって」
「椅子も元に戻すから心配いらないって、殊勝に頭を下げてたわよ」
かわるがわる口を開くこの二人の気が知れない。こんな出来合いの夕飯で懐柔されるなんて――。
「きみも、」
「済ましてきた」
そっけなく応えて、マリーに「後で部屋によって」と一声かけて早々に自室へ戻る。
コウはいったい赤毛と何をしているんだ? 民俗学の研究? 資料集め? あの男は大学すら行ってないのに。まず、いくつなんだ、年齢は――。パスポート、賃貸契約の書類を作るときに確認したはずなのに。なぜだか奴に関する記憶はいつも曖昧で、すぐに忘れてしまう。霧散するのだ。拡散されてすぐに見えなくなる、むわりと白い蒸気のように。
いつの間にか煙に巻かれているってやつだな――。
やりきれなくて、深くため息を吐いていた。
何がこうもあやふやなのだろう? 全てあの赤毛に関することばかり。いったい、奴はコウのなんなんだ?
ベッドに転がって、ぼんやりと流れる思考の断片を眺めていた。コウと赤毛――。コウは迷惑がっている。それなのに、奴を切れないでいる。コウの消耗は、その心労のせいだ。なぜ、コウはああも奴を庇おうとするのだろう? 同郷のよしみ――。友人だから――。コウは、優しいから――。
解らない。たとえ志を同じくして日本を発ってきたのだとしても、人生は別だ。コウに彼の不始末を背負う理由なんてない。いつまでもコウに甘えるだけの赤毛は、まるきり子どもじゃないか。なんでも金で片づけようとするところも――。
そんなことを取り留めもなく考えているうちに、食事を終えたマリーが上がってきた。お茶をもって。
「驚いたよ。ショーンとずいぶん仲良くなったんだね」
皮肉の一つも言いたくなる。マリーは唇をつきだして肩をすくめる。
「話してみると、まともなところもあるのよ、あいつ。少なくとも、コウに対してはまっとうだわ」
彼にまで懐柔されたのか……。マリー、頑固なはずのきみの意志はどこにいった?
思わずついて出たため息に、マリーは言い訳するように目を見開いて早口で喋りだす。
「解ってるわよ。出ていってもらうって気持ちは変わってないわ。ドラコはあの気性じゃ狂暴すぎてとても一緒になんて暮らせないし、ショーンは――、」
ふっと言葉が途切れる。上手い悪口が思い浮かばないのかな。
「ショーンは?」
「優しいところもあるのよ。アルがいない間、一緒にいろいろ考えてくれて……」
「ミラの男だよ」
「――解ってるわよ! 私が好きなのは、」
「うん。顔の広い友人に尋ねてきた。だから帰りが遅くなったんだ」
「アル! ありがとう!」
マリーが僕に飛びついてくる。僕を抱きしめる腕が緊張で震えている。今回はかなり真剣なんだね。
マリーの恋はいつも上手くいかない。最初はいい感じでスタートしても、長続きしない。やっぱり違う、といつも彼女の方から終わってしまう。彼女は、恋愛に懐疑的で臆病な面があるのだ。半分は僕のせいもある。僕が彼女にいい影響を与えてこなかったから――。でも、マリーはミラのように飽き性でも、孤独を埋めてくれる相手なら誰でもいい、というわけでもない。僕がコウに巡り逢えたように、心から愛せるたった一人を見つけたいのだ。
「きみの話してくれた容姿だけじゃ、やっぱり誰だか判らないって」
僕にもたれる彼女の力が、がっくりと抜けた。
「だから、研究所の夏の慰労会に来てみれば、って誘ってくれた。きっとそこで意中の彼にも遇えるんじゃないかな」
「本当!」
もたれていた頭を跳ね起こして、頓狂な声をあげる。
「たまたまバカンス休暇を取っているのでもない限り、若い連中はだいたい来るそうだよ」
「ありがとう、アル!」
僕は面倒臭くて、この恒例の慰労会にこれまで参加したことがない。だが今回はそんなわけにはいかない。新年度から入れ替わる、研究員や職員の送別会も兼ねているからだ。絶対に出席するように念を押して言われている。
一目惚れしたというマリーの相手は、どうやら僕のいるデンマーク・ヒル・キャンパスの職員か研究員らしい。僕と話していた、とマリーは言うのだが、その場で言ってくれないと、誰のことだか皆目見当もつかない。だからバニーに尋ねてみたのだけど、漠然としすぎていて彼でも無理だった。「かっこいい」とか「優しそう」なんて言葉じゃなく、マリーはもっと人物を描写できる語彙を増やすべきだ。
昨夜、僕とコウのことに水を差すようなことを言い、マリーは僕の注意を自分に向けさせた。焼きもちだ。僕だけが幸せ、なんて許せないのだ。
僕は彼女に対して責任がある。彼女のこの甘えも、歪みも、僕が作り上げたものでもあるのだから――。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。
キンモクセイは夏の記憶とともに
広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。
小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。
田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。
そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。
純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。
しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。
「俺になんてもったいない!」
素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。
性描写のある話は【※】をつけていきます。
エートス 風の住む丘
萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」
エートスは
彼の日常に
個性に
そしていつしか――、生き甲斐になる
ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?
*****
今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。
公爵家の五男坊はあきらめない
三矢由巳
BL
ローテンエルデ王国のレームブルック公爵の妾腹の五男グスタフは公爵領で領民と交流し、気ままに日々を過ごしていた。
生母と生き別れ、父に放任されて育った彼は誰にも期待なんかしない、将来のことはあきらめていると乳兄弟のエルンストに語っていた。
冬至の祭の夜に暴漢に襲われ二人の運命は急変する。
負傷し意識のないエルンストの枕元でグスタフは叫ぶ。
「俺はおまえなしでは生きていけないんだ」
都では次の王位をめぐる政争が繰り広げられていた。
知らぬ間に巻き込まれていたことを知るグスタフ。
生き延びるため、グスタフはエルンストとともに都へ向かう。
あきらめたら待つのは死のみ。
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
離したくない、離して欲しくない
mahiro
BL
自宅と家の往復を繰り返していた所に飲み会の誘いが入った。
久しぶりに友達や学生の頃の先輩方とも会いたかったが、その日も仕事が夜中まで入っていたため断った。
そんなある日、社内で女性社員が芸能人が来ると話しているのを耳にした。
テレビなんて観ていないからどうせ名前を聞いたところで誰か分からないだろ、と思いあまり気にしなかった。
翌日の夜、外での仕事を終えて社内に戻って来るといつものように誰もいなかった。
そんな所に『すみません』と言う声が聞こえた。
バラのおうち
氷魚(ひお)
BL
イギリスの片田舎で暮らすノアは、身寄りもなく、一人でバラを育てながら生活していた。
偶然訪れた都会の画廊で、一枚の人物画に目を奪われる。
それは、幼い頃にノアを育ててくれた青年の肖像画だった。
両親を亡くした後、二人の青年に育てられた幼いノア。
美男子だけど怒ると怖いオリヴァーに、よく面倒を見てくれた優しいクリス。
大好きな二人だけど、彼らには秘密があって――?
『愛してくれなくても、愛してる』
すれ違う二人の切ない恋。
三人で過ごした、ひと時の懐かしい日々の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる