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第二章
御伽噺 6.
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居間に戻ると赤毛はいなくて、床の上に無残に散らばるチッペンデールの木片を前に、唇を噛みしめて泣きださんばかりのマリーと、途方にくれているショーンの姿があった。
「ドラコがやったの!」
コウは悲鳴のように叫び、頭を抱えてうずくまる。僕にしたってもう、言葉が出てこない。全身で全てを拒絶するように丸まっているコウに近寄ることすらできなくて、そっとマリーに歩みより、肩を抱いて支えてあげた。
「何があったの?」
小声で訊いたのだけど、静まり返った室内では意味がなかった。ショーンがびくりと反応する。僕に抱きついて子どものように肩を震わせているマリーを憐れむように一瞥し、彼が代わりに答えてくれた。
「俺たちだって、わけがわからないよ……。コウときみが部屋を出て、しばらくはドラコもむすっとはしてたけど、黙って食事を続けてたんだ。俺は、きみが上手くコウを宥めてくれるから、すぐ戻ってくるさ、って場を取り繕おうと懸命に喋ってて――、それがいきなり、ホントにいきなりで、何が気に障ったのかまるで判らなかった。立ち上がって、座ってた椅子を床に叩きつけて――」
「パパの大切な椅子がバラバラ――。なんて、言い訳すればいいの、アル?」
この夏の終わり、僕の出立の前には、彼らは一時帰国してくれる予定だというのに――。追い払うつもりで、スティーブにもアンナにも、新しく増えたこの二人の同居人ことはまだ報告していない。最初の報告がコレになるのか――。
「彼はどこに? 玄関からは誰も出てこなかった。家の中にはいるんだね?」
ショーンやマリーが知るはずがないと解っていても、つい口に出していた。せめてこの椅子を弁償させて、急いで同種の椅子を探す他はない。スティーブを失望させるのはどうしようもないにしろ、何も対処しない、という訳にはいかない。
「話してくる」
コウが毅然と頭を起こした。
「どこにいるか解ってるの?」
「屋根裏――。いや、きっと屋根の上だ」
コウは立ち上がり、怒りを抑えつけた震える声を絞りだす。
「マリー、本当にごめん。彼にはちゃんと謝ってもらう。それに必ず、責任を取らせるからね」
コウは目を伏せたまま、僕を一瞥すらしない。僕に頼る気は欠片もないのだ――。コウを一人で行かせるのは嫌だったけれど、とても僕も一緒に、なんて言える雰囲気じゃない。それにマリーを放っておくわけにもいかない。とりあえず、彼女を食卓から離し、ソファーに座らせた。
「マリー、心配しないで。僕が代わりの椅子を見つけてくる」
「見つかりっこない。それにあんな高価なもの――。買えっこない」
「赤毛の金貨があるだろ。あれを一枚、換金して使おう。充分だと思うよ。チッペンデールは人気があるものだし、まったく同じとはいかなくても、よく似たデザインのものならきっと見つかるよ。ね、マリー、こんなことで気に病むんじゃないよ」
彼女をもう一度抱きしめてあげた。繊細なマリーは、スティーブの骨董趣味が好きではない。ものに焼きもちを焼くほど、父の心を自分に惹きつけたいと願っている、まだまだ幼い娘だ。だけど、こんな形で父親を失望させることを望んだりはしない。その恐れが、僕には痛いほど解る――。
「まったくだね。きみのせいなんかじゃないんだからさ。俺もあの彼の癇癪には度肝を抜かれたよ。いきなり焔が上がるみたいに怒りが破裂した、っていうかさ。誰も彼を怒らせるようなことは言ったりしなかったのに――」
ショーンが同情を込めた瞳でマリーを見つめる。マリーは意外そうに長い睫毛を瞬かせている。そんな拍子抜けたような、けれどいかにも傷ついた子どものような彼女に見つめ返されて、ショーンは居心地悪そうに視線を逸らした。
「あんまりびっくりしすぎて、食事の途中だってこと、忘れてたよ。こっちに持ってきて食ってもいいかな」
「どうぞ」
僕は苦笑して頷いた。これで食欲を失わないのは驚きだが、確かに、あの食卓に今さら戻る気にはなれない。彼が席を立つなり、マリーは僕に顔を寄せ、声を低めて囁いた。
「あの人、見てたのよ、窓の外を――。アル、コウとキスしてたでしょ。それで怒ったの。丸きり子どもなのよ。アル、あんな奴に絶対負けないで! コウを盗られたりしないで」
僕の肩を掴む彼女の指先に力が入る。僕を見あげる青い瞳は晴れ渡り、もう涙の膜はない。
「もちろんだよ」
笑って、彼女の頭をくしゃりと撫でた。
「マリーはもう食事はいいの? それじゃあ、お茶を淹れてきてあげる。まずは気分を落ち着かせないとね」
戻ってきたショーンが、当たり障りのない料理談義を始める。彼なりに気を遣ってくれているのだ。今は彼の意味のないお喋りがありがたい。落ち込みだすと際限のないマリーの気持ちを逸らしてくれる。
そんなことを考えながら、キッチンのドアを開けた。
湿度のある空気が、ざわざわと揺れた。
見慣れた空間が、くにゃりと曲がる――。
「ドラコがやったの!」
コウは悲鳴のように叫び、頭を抱えてうずくまる。僕にしたってもう、言葉が出てこない。全身で全てを拒絶するように丸まっているコウに近寄ることすらできなくて、そっとマリーに歩みより、肩を抱いて支えてあげた。
「何があったの?」
小声で訊いたのだけど、静まり返った室内では意味がなかった。ショーンがびくりと反応する。僕に抱きついて子どものように肩を震わせているマリーを憐れむように一瞥し、彼が代わりに答えてくれた。
「俺たちだって、わけがわからないよ……。コウときみが部屋を出て、しばらくはドラコもむすっとはしてたけど、黙って食事を続けてたんだ。俺は、きみが上手くコウを宥めてくれるから、すぐ戻ってくるさ、って場を取り繕おうと懸命に喋ってて――、それがいきなり、ホントにいきなりで、何が気に障ったのかまるで判らなかった。立ち上がって、座ってた椅子を床に叩きつけて――」
「パパの大切な椅子がバラバラ――。なんて、言い訳すればいいの、アル?」
この夏の終わり、僕の出立の前には、彼らは一時帰国してくれる予定だというのに――。追い払うつもりで、スティーブにもアンナにも、新しく増えたこの二人の同居人ことはまだ報告していない。最初の報告がコレになるのか――。
「彼はどこに? 玄関からは誰も出てこなかった。家の中にはいるんだね?」
ショーンやマリーが知るはずがないと解っていても、つい口に出していた。せめてこの椅子を弁償させて、急いで同種の椅子を探す他はない。スティーブを失望させるのはどうしようもないにしろ、何も対処しない、という訳にはいかない。
「話してくる」
コウが毅然と頭を起こした。
「どこにいるか解ってるの?」
「屋根裏――。いや、きっと屋根の上だ」
コウは立ち上がり、怒りを抑えつけた震える声を絞りだす。
「マリー、本当にごめん。彼にはちゃんと謝ってもらう。それに必ず、責任を取らせるからね」
コウは目を伏せたまま、僕を一瞥すらしない。僕に頼る気は欠片もないのだ――。コウを一人で行かせるのは嫌だったけれど、とても僕も一緒に、なんて言える雰囲気じゃない。それにマリーを放っておくわけにもいかない。とりあえず、彼女を食卓から離し、ソファーに座らせた。
「マリー、心配しないで。僕が代わりの椅子を見つけてくる」
「見つかりっこない。それにあんな高価なもの――。買えっこない」
「赤毛の金貨があるだろ。あれを一枚、換金して使おう。充分だと思うよ。チッペンデールは人気があるものだし、まったく同じとはいかなくても、よく似たデザインのものならきっと見つかるよ。ね、マリー、こんなことで気に病むんじゃないよ」
彼女をもう一度抱きしめてあげた。繊細なマリーは、スティーブの骨董趣味が好きではない。ものに焼きもちを焼くほど、父の心を自分に惹きつけたいと願っている、まだまだ幼い娘だ。だけど、こんな形で父親を失望させることを望んだりはしない。その恐れが、僕には痛いほど解る――。
「まったくだね。きみのせいなんかじゃないんだからさ。俺もあの彼の癇癪には度肝を抜かれたよ。いきなり焔が上がるみたいに怒りが破裂した、っていうかさ。誰も彼を怒らせるようなことは言ったりしなかったのに――」
ショーンが同情を込めた瞳でマリーを見つめる。マリーは意外そうに長い睫毛を瞬かせている。そんな拍子抜けたような、けれどいかにも傷ついた子どものような彼女に見つめ返されて、ショーンは居心地悪そうに視線を逸らした。
「あんまりびっくりしすぎて、食事の途中だってこと、忘れてたよ。こっちに持ってきて食ってもいいかな」
「どうぞ」
僕は苦笑して頷いた。これで食欲を失わないのは驚きだが、確かに、あの食卓に今さら戻る気にはなれない。彼が席を立つなり、マリーは僕に顔を寄せ、声を低めて囁いた。
「あの人、見てたのよ、窓の外を――。アル、コウとキスしてたでしょ。それで怒ったの。丸きり子どもなのよ。アル、あんな奴に絶対負けないで! コウを盗られたりしないで」
僕の肩を掴む彼女の指先に力が入る。僕を見あげる青い瞳は晴れ渡り、もう涙の膜はない。
「もちろんだよ」
笑って、彼女の頭をくしゃりと撫でた。
「マリーはもう食事はいいの? それじゃあ、お茶を淹れてきてあげる。まずは気分を落ち着かせないとね」
戻ってきたショーンが、当たり障りのない料理談義を始める。彼なりに気を遣ってくれているのだ。今は彼の意味のないお喋りがありがたい。落ち込みだすと際限のないマリーの気持ちを逸らしてくれる。
そんなことを考えながら、キッチンのドアを開けた。
湿度のある空気が、ざわざわと揺れた。
見慣れた空間が、くにゃりと曲がる――。
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