夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第二章

御伽噺 

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 昨日はほぼ一日中うつらうつらと微睡んでいたコウだったけれど、翌朝は今度こそ熱も下がり、体調はかなり回復したようだった。
 居間で眠っている僕を尻目に彼はあちこちの掃除を済ませ、地響きを立てる洗濯機を稼働させるため、昼近くになってからやっと僕を起こした。「ごめん、疲れてるのに――」って申し訳なさそうに小さく笑って。そんな気を遣わなくたって、コウがキスさえしてくれたら、どんな早い時間に起こされたって僕が不機嫌になることなんてないのに。それに、僕を覗き込んでいるコウの瞳が、昨日よりもずっと強い光を湛えていたから、それだけで最高に目覚めが良かった。――赤毛の声さえ聴こえなければ。

 
 だらだらとシャワーを浴びて部屋に戻ると、「ブランチ、久しぶりにカフェで食べない? それからちょっと買い物につきあって欲しいんだ」コウが珍しく自分から誘ってくれた。僕を待っていてくれたみたいだ。いつもは僕といっしょに出かけるのは、ちょっとした買い物でも贅沢になりすぎて予算オーバーになるから、と言って、誘ってもめったに頷いてくれないのに。
 恒例の日曜日だからか――。今日の夕食は赤毛が当番だ。久々に皆が集うことになっている。昨日の赤毛の異議申し立てを話し合うためだ。コウが僕を誘ってくれたのも、あいつのいないところでこの話をするため――。そんな理由かと思うと、嬉しさよりも悔しさの方が勝ってくる。

「出歩いたりして大丈夫なの?」
「うん。もうすっかり。家にいるとかえってあれこれやり過ぎるから、散歩でもしてこい、ってドラコに言われてさ」

 赤毛の提案――てところがますますかんに障る。けれど、せっかくのコウの誘いを断るはずがないじゃないか。

「何を買いたいの? ゆっくりランチを食べて、それからハイストリートをぶらつこうか?」

 何はともあれ、久しぶりのコウとのデートなんだ、と無理に気持ちを切り替えた。ほら、コウが僕だけを見つめていてくれさえすれば、自然に顔は緩んでくる。

「まだ少し早いかな、後30分ほど待って。ランチを予約するよ」
「え、予約……」

 一瞬頷くのを躊躇して、コウはまた曖昧な笑みを浮かべる。
 やっぱり買い物は口実で、二人きりで話がしたいんだね。大事なことだものね――。

 それから外出着に着替えて、以前からコウを連れていってあげたかったニーノの店に予約を入れて、と、ばたばたしているうちにちょうどいい時間になった。



 白一色の外装に黒字の日よけオーニングがシンプルで落ち着いた雰囲気を醸し出すニーノの店は、ハムステッドで一番人気のイタリアン・レストランだ。街路に面したテーブルも、フロアも満席。けれど、入り口で待ち構えていた、いつもの黒スーツ姿に金髪を綺麗に撫でつけた二ーノが、すぐさま両腕を広げて僕を抱きしめキスで迎えてくれた。友人だとコウに紹介し、「僕の恋人パートナー」だと、誇らしい思いで彼に告げた。コウは緊張した面持ちで挨拶を交わしている。「アル、キュートな子だね」と僕ににっこりとウインクする彼のおおらかな仕草を控えめに盗み見ながら、コウは顔を赤くしている。二階バルコニーに用意してもらった席に案内される間中、彼は胡桃割り人形が歩いているみたいにギクシャクとぎこちない。


「なんだか、高そうなお店だね」
 席に着くなり、コウが心配そうに顔を寄せる。
「心配ないよ。友だち価格だから」
 というよりも値段なんて知らない。メニューを開いたこともない。いつもニーノにまかせっきりだから。
「友だちって、彼はその――、」
 言い辛そうに口籠り、コウは視線を伏せて固まった。
「幼なじみ。ここ、うちから近いだろ。このすぐ裏手に彼の自宅もあるんだ。ああ見えて、天使みたいに可愛い女の子の父親だよ」
「幼なじみ……」
 ほっとしたようにコウは微笑んだ。
「すごく親しそうだったから、てっきり――」
「つきあっていた――、と思った?」
 コウは恥ずかしそうに小さく首を振る。「疑ってごめん」って。僕はにっこり笑みを返した。

 大丈夫だよ。たまにセックスはするけど、互いにそんな情緒的な気分になったことは一度もないから。相性はいいんだけどね。お互いに好みじゃないんだ。

「彼、かっこいい人だよね。洗練された大人って感じで、きみと喋っている姿がすごくしっくりしてて、なんだか――」
「ありがとう! そう褒められると、もっとサービスしたくなるね!」

 ニーノが朗らかに口を挟み、慣れた手つきでワインを注ぐ。

「きみは、ぜんぜん飲めないの?」
「ニーノ、言っただろう」
「残念だな。うちはワインリストが自慢なのに! 体調のいいときにもう一度来てくれたら、とっておきを御馳走するよ!」

 早口でよく喋るニーノに圧倒されてポカンとしていたコウは、はにかんだ笑みをみせて、「体調のいいときにって……?」と訝しそうに瞼を瞬かせた。

「今日のお薦めコース、きみの分はハーフサイズで聞いているんだ! 病み上がりのきみの胃に優しくて、喉越しのよさそうなメニューを選んでおいたからね!」とニーノはいつもの軽いウインクをコウに投げかける。それだから誤解されるんだ。きみの好みは熊みたいな男のくせに……。ほら、コウが困ってまた胡桃割り人形になってしまったじゃないか――。
 
 とはいえ、コウはギクシャクしながらもいつもの彼らしく、律儀に頭を下げてニーノに礼を言っている。まだ料理もきていないというのに。そんな軽い雑談を交わしていると、ウェイターが前菜の皿を運んできた。「蟹のサラダが好きなんだってね! 気に入ってくれるといいけど! じゃ、ごゆっくり!」とニーノはいつにも増して愛想をふりまいて、やっと退場してくれた。

「南国の太陽みたいに明るい人だね――」
「あまり彼ばかり褒めると、やきもちをやくよ」

 テーブルに置かれた彼の拳に手を伸ばして重ねた。

「きみは静かでしっとりとした夜の月みたいなのに、そんな対象的なところが彼と気が合うのかなって」
「どうだろう? 合うとか、合わないとか考えたこともないよ」

 べつに、子どもの頃から知っているってだけにすぎない。特別親しかった記憶もない。幼なじみのひとり。それだけの存在だ。



「すごく綺麗で、美味しそうだね」

 それは、きみのこと?

 ふっと力が抜けたみたいに吐息を漏らし、コウは視線を落とした。金で縁取りされた皿に載った蟹の甲羅の中には、ほぐした蟹の身と野菜のカラフルなサラダが、可愛らしく、こじんまりとまとめられている。

 
 嬉しそうなコウを見られることが嬉しくて、じっと見つめていた。可愛い僕のコウ――。

「食べようよ、アル。これを見たらいきなりお腹が空いてきたよ」
「ハーフサイズで足りないようなら、僕の分をあげる」
「そして欲張りすぎでまた寝こむことになるんだ! ありがとう、アル。僕が蟹が好きだってこと、覚えていてくれたんだね」

 そんな大事なこと、忘れるはずがないじゃないか。

 笑いながらカトラリーを握るコウは、もういつものコウだ。ちゃんとここにいてくれている。僕の傍に――。



 

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