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第一章
規則 8.
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「あんなの、意地悪だよ、アル」と僕たちの部屋へ入るなり、コウは唇を尖らせた。
「そう? 待ちきれなかったんだ。コウに触れたくて――」
「規則違反だよ! それに、僕は、きみみたいなポーカーフェイスなんてできないのに……」
「ごめん、もうしないから」
膨れっ面を両手で挟んで、尖らせている唇を啄んだ。ジャスミンティーの花の香りがする。「ね、怒らないで」と、強張った表情がほぐれるように顔中にキスを落とした。これでほぐれたのは表情筋だけじゃない。全身の力が抜けたみたいに、コウは僕にしなだれかかる。
「お風呂に入ってくる。汗だくなんだ。それに埃っぽくて」
「気にしないのに」
「僕が気になるんだ。寝ないで待っててくれる?」
しがみついたまま顎を反らせて僕を見つめる。何かとてつもない願い事でもしているような真摯な瞳で――。疲れ切っていて、身体に力が入りきらないほどなのに。
バスタブの中で眠ってしまいそうなのは、コウの方じゃないの?
「遅くなるなら、覗きにいくよ」
「もう!」
コウはまた頬を膨らましかけたけれど、僕の真面目な視線に気づいてくれて、苦笑いに変えた。
「いきなり浴室の掃除を始めたり、なんてしないから」
そんなことではないのに……。
いそいそと部屋を出た彼を見送ると、なんだか気が抜けた。ベッドにごろりと転がる。暗がりの中で、彼のことが気掛かりで仕方がなかった。
コウは、ずいぶんと消耗している――。そんな気がして。
朝から出掛けていたんだ。それも当然か……。それにしたって、食事もせずに歩き回っていたって、どういうつもりなんだ、あの赤毛! 彼の体力のなさや、不安定な体質はあの男だって知っているはずだろうに。
考え始めると何もできなくなる。今の内に僕もシャワーを使いに向かった。コウがこの階の浴室にいるから、一階のシャワー室に。
別に、臭いが気になるわけじゃないけれど――。
シャワーの後、居間に置きっ放していたパソコンや書類を片づけて上がると、コウはもう部屋に戻ってベッドの上に腰掛けていた。珍しい。いつも長風呂なのに。
「アルがいないから――」
「淋しかった?」
「怖かったんだ」
「どうしたんだい? ちゃんといるのに」
僕に向かって伸ばされた両腕に身体を預けた。コウはぎゅっと僕を抱きしめる。僕を確かめる。
どこかおかしい。コウは、今朝とは違う。
「アル、好きだよ」
「うん、知ってる」
「すごく、好きなんだよ」
「うん」
赤毛に何か言われたのか――。
「不安なの?」
コウは答えない。じっと、僕の心臓の音を聴いている。大地の脈動に耳を澄ますアンモナイトの化石のように丸くなって。動かない。
「愛してる、って言葉で聴きたい?」
身動ぎして僕を見あげた。泣きそうな顔で笑う。
「そんな言葉がなくたって、僕はきみを信じてるよ」
「でも、言って欲しいんだね? 安心したいんだ? 愛してるよ、コウ。何百万回でも繰り返してあげる。きみが安心できるまで」
愛してるの言葉を、キスに変えた。不安に怯える身体を、この言葉で包んであげた。柔らかな、子どもの輪郭を残すコウ。愛らしい僕のコウ。僕に縋りついてくるコウが可愛い。僕がいないと溺れてしまう、命綱を掴むように絡みついてくる。そんな時の彼は、僕の嗜虐心を掻き立てる。こんな彼をばらばらに壊して、僕は僕を混ぜ込むのだ。僕なしでは、形を保てなくなるように――。僕を信じている彼は、そんな僕を疑おうとすらしない。
ああ、違う――。
コウは決して、「愛してる」の言葉に酔ったりしない。彼は何にも酔いしれることはない。こんな僕をすべて見透かして、ただ、抱きしめてくれる。僕に食い散らかされるだけの自分の身体を、ただ、静かに眺めている。
僕は、また――。
「愛してるよ、アル。僕は、平気――」
コウが、僕を抱きしめる――。
「ごめん、アル。今日の僕は駄目だね」
僕の胸に頭をのせて、コウは深いため息をついた。
「どうしたの?」
「ごめん。僕がいけないんだよ」
「話して」
瞬く間に黒い闇のような不安が広がる。
僕はまた、一方的にコウを侵略し、置き去りにしているんだ。
「――怒ってたんだ。――ドラコに。いくら彼だって、僕ときみとのことに口出しされるのは嫌だったんだ。ごめん、僕がきみを好きなことで、とやかく言われるのが我慢できなくて。こんな、今、話すようなことじゃないのに――」
コウは俯いたままとつとつと話してくれた。ふっと余分な力が抜ける。意識して、彼の細い肩を強くかき抱いた。
あの赤毛のせいなのなら――。
「言ってくれた方が、僕は安心するよ」
「ごめん。好きだよ、アル。自分でもどうしようもないほど、好きだよ」
「知ってる」
コウは知っている。僕がコウの、この言葉を必要としていることを。だから繰り返す。呪文のように、僕に魔法をかけてくれる。
こんなふうに傷ついてるときでさえ――。
傷つけたのは、僕じゃない。その事実に安堵しているのに、コウの心を塞いでいるのが僕ではないことが、許せない。矛盾している――。
「誰にも口出しなんてさせない」
「怒らないで、アルビー。これは僕の問題なんだ」
「僕たちの、だろう?」
「そうじゃないんだ。僕の、だよ。彼とちゃんと話をする。解ってもらう。アルは心配しないで」
立ち入って欲しくない――。
頭をもたげて、真剣に僕を見つめるコウの瞳は、そう訴えているようだった。
「そう? 待ちきれなかったんだ。コウに触れたくて――」
「規則違反だよ! それに、僕は、きみみたいなポーカーフェイスなんてできないのに……」
「ごめん、もうしないから」
膨れっ面を両手で挟んで、尖らせている唇を啄んだ。ジャスミンティーの花の香りがする。「ね、怒らないで」と、強張った表情がほぐれるように顔中にキスを落とした。これでほぐれたのは表情筋だけじゃない。全身の力が抜けたみたいに、コウは僕にしなだれかかる。
「お風呂に入ってくる。汗だくなんだ。それに埃っぽくて」
「気にしないのに」
「僕が気になるんだ。寝ないで待っててくれる?」
しがみついたまま顎を反らせて僕を見つめる。何かとてつもない願い事でもしているような真摯な瞳で――。疲れ切っていて、身体に力が入りきらないほどなのに。
バスタブの中で眠ってしまいそうなのは、コウの方じゃないの?
「遅くなるなら、覗きにいくよ」
「もう!」
コウはまた頬を膨らましかけたけれど、僕の真面目な視線に気づいてくれて、苦笑いに変えた。
「いきなり浴室の掃除を始めたり、なんてしないから」
そんなことではないのに……。
いそいそと部屋を出た彼を見送ると、なんだか気が抜けた。ベッドにごろりと転がる。暗がりの中で、彼のことが気掛かりで仕方がなかった。
コウは、ずいぶんと消耗している――。そんな気がして。
朝から出掛けていたんだ。それも当然か……。それにしたって、食事もせずに歩き回っていたって、どういうつもりなんだ、あの赤毛! 彼の体力のなさや、不安定な体質はあの男だって知っているはずだろうに。
考え始めると何もできなくなる。今の内に僕もシャワーを使いに向かった。コウがこの階の浴室にいるから、一階のシャワー室に。
別に、臭いが気になるわけじゃないけれど――。
シャワーの後、居間に置きっ放していたパソコンや書類を片づけて上がると、コウはもう部屋に戻ってベッドの上に腰掛けていた。珍しい。いつも長風呂なのに。
「アルがいないから――」
「淋しかった?」
「怖かったんだ」
「どうしたんだい? ちゃんといるのに」
僕に向かって伸ばされた両腕に身体を預けた。コウはぎゅっと僕を抱きしめる。僕を確かめる。
どこかおかしい。コウは、今朝とは違う。
「アル、好きだよ」
「うん、知ってる」
「すごく、好きなんだよ」
「うん」
赤毛に何か言われたのか――。
「不安なの?」
コウは答えない。じっと、僕の心臓の音を聴いている。大地の脈動に耳を澄ますアンモナイトの化石のように丸くなって。動かない。
「愛してる、って言葉で聴きたい?」
身動ぎして僕を見あげた。泣きそうな顔で笑う。
「そんな言葉がなくたって、僕はきみを信じてるよ」
「でも、言って欲しいんだね? 安心したいんだ? 愛してるよ、コウ。何百万回でも繰り返してあげる。きみが安心できるまで」
愛してるの言葉を、キスに変えた。不安に怯える身体を、この言葉で包んであげた。柔らかな、子どもの輪郭を残すコウ。愛らしい僕のコウ。僕に縋りついてくるコウが可愛い。僕がいないと溺れてしまう、命綱を掴むように絡みついてくる。そんな時の彼は、僕の嗜虐心を掻き立てる。こんな彼をばらばらに壊して、僕は僕を混ぜ込むのだ。僕なしでは、形を保てなくなるように――。僕を信じている彼は、そんな僕を疑おうとすらしない。
ああ、違う――。
コウは決して、「愛してる」の言葉に酔ったりしない。彼は何にも酔いしれることはない。こんな僕をすべて見透かして、ただ、抱きしめてくれる。僕に食い散らかされるだけの自分の身体を、ただ、静かに眺めている。
僕は、また――。
「愛してるよ、アル。僕は、平気――」
コウが、僕を抱きしめる――。
「ごめん、アル。今日の僕は駄目だね」
僕の胸に頭をのせて、コウは深いため息をついた。
「どうしたの?」
「ごめん。僕がいけないんだよ」
「話して」
瞬く間に黒い闇のような不安が広がる。
僕はまた、一方的にコウを侵略し、置き去りにしているんだ。
「――怒ってたんだ。――ドラコに。いくら彼だって、僕ときみとのことに口出しされるのは嫌だったんだ。ごめん、僕がきみを好きなことで、とやかく言われるのが我慢できなくて。こんな、今、話すようなことじゃないのに――」
コウは俯いたままとつとつと話してくれた。ふっと余分な力が抜ける。意識して、彼の細い肩を強くかき抱いた。
あの赤毛のせいなのなら――。
「言ってくれた方が、僕は安心するよ」
「ごめん。好きだよ、アル。自分でもどうしようもないほど、好きだよ」
「知ってる」
コウは知っている。僕がコウの、この言葉を必要としていることを。だから繰り返す。呪文のように、僕に魔法をかけてくれる。
こんなふうに傷ついてるときでさえ――。
傷つけたのは、僕じゃない。その事実に安堵しているのに、コウの心を塞いでいるのが僕ではないことが、許せない。矛盾している――。
「誰にも口出しなんてさせない」
「怒らないで、アルビー。これは僕の問題なんだ」
「僕たちの、だろう?」
「そうじゃないんだ。僕の、だよ。彼とちゃんと話をする。解ってもらう。アルは心配しないで」
立ち入って欲しくない――。
頭をもたげて、真剣に僕を見つめるコウの瞳は、そう訴えているようだった。
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