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第一章
規則 4.
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大学は夏季休暇中といっても、僕はとりたてて変わりなく研究室に通って、リサーチアシスタントを務めている。コウも、それまで通っていた大学進学準備コースの代わりに、日々、規則正しく図書館に通って課題図書を読み漁っているので生活に変化はない。
だがマリーは、サークル活動やボランティア活動に励んでいるため、週末を含めて家にいないことが多くなった。
そこへ、この自由気ままを信条とする二人が加わった。あの赤毛は、渋るコウを言いくるめて連日のように連れだしている。コウと僕がゆっくり過ごせる、残り僅かな貴重な休日もおかまいなしだ。コウがこの家の規則よりも赤毛を優先することが、信じられなかった。舌先三寸で言いくるめられ、あの強引さに呑まれて仕方なく――、そうに決まっている。
少しでも長く一緒にいたい――、とそう言ってくれたばかりじゃないか。
行方不明状態からやっと戻ってきた赤毛を、労わる想いもあるのかもしれない。そのことで苦痛を抱えていたのは、コウの方なのに……。
どうであれ、あの赤毛の存在は、僕にとってどうしようもなく苦い現実だ。この苦みもそのうち日常の中でこなれ、食卓のマーマイトのように苦さの中に旨味をみいだせるようになるものだ、とバニーは笑って言っていたけれど。有り得ない。このざらざらとした砂を食むような苦々しさに慣れる日がくるとは思えない。現にコウは英国に来て一年が過ぎようと、マーマイトだけは絶対に口にしようとしないじゃないか。突然知った馴染みのない苦さなど、そんなものだ。受け入れることは不可能だ。
そして、この男、ショーン。自分の失態をいかに言い訳するか、今もしきりに頭の中で巡らせている。言い訳しなければならないと思うだけ、まだ可愛げがあるが――。落ち着きのない眼球が、過去とこの場をいったりきたり忙しない。そのくせ僕に否定されるのを恐れて、どう切り出すかの最初の一手を打てずにいる。きっと彼は諦めて、直に考えることを放棄してこう言いだすだろう……。
――アル、聴いていると思うんだが、俺も悪かったと反省してるんだ。
「アル、もう聴いて、知ってるんだろ? 悪かったよ、彼女には、言い過ぎたと思ってる。これでも反省してるんだ」
「解ってるよ、ショーン。売り言葉に買い言葉、ってやつだろ? 些細なことじゃないか、そう気にすることでもないさ。騒ぎすぎるのが、彼女の悪い癖でもあるからね」
同じ苦々しい存在であっても、ショーンはまだ甘さをほのかに感じられる、皮入りマーマレードに近いかもしれない。これは、マーマイトの次にコウの嫌いな英国の苦み食品だけどね。コウの言い方を借りると、「マーマレードは食べ物だということは理解できる、それに比べてマーマイトは――」不快指数が違いすぎるらしい。コウは、申し訳なさそうな顔をして、「きみたちの文化をけして否定するわけじゃないんだ。でも、味覚ってものは意志ではどうすることもできないんじゃないかと思うんだ。きみが、納豆をみて顔を背けるのと同じで……」と言葉を濁していた。かまわないよ。僕も同意見だ。
意志の力ではどうしようもないほど、嫌い。それが悪いこととは思わない。あの腐ったマメを毎日食べろといわれるなら、どんなにコウのことが好きでも、僕は彼との関係を清算することを考えるかもしれない。幸いにも、彼はそんなことを言うタイプではないから、真剣に検討したことはないのだが。
ともあれ、僕に取っての不快指数10段階の8くらいのショーンは、薄っすらと笑みを浮かべた僕を見て、ほっとしたように肩の力をぬいた。僕はキーボードを叩くのを止め、わざと神妙な顔を作ってみせた。
「でも、あまり細かなことで諍いになるようでは、関係がギクシャクしてしまって寛げなくなってしまう。コウは今の時点でもう、かなり神経を逆立てているみたいだからね」
軽く握りしめていたショーンの拳が、ぴくりと痙攣する。コウの名前に反応したのだ。
「彼は、あれこれ気を遣い過ぎなんだよ!」
吐き捨てるように呟く。
「そうだね、僕もそう思うよ。だからね、コウに要らぬ気を回させないためにも、シェアルールを決めてあるんだ。なんといっても、日常の家事を受け持ってくれているのは彼だから。すまなかったね、さきに話しておけばよかったね。なに、大したことじゃないよ、常識の範疇だ。僕も、マリーも問題なく過ごしてる。本当に些細な決まりばかりだよ」
徐々に血の気が失せていく、今のショーンの間抜け面をマリーにも見せてやりたい。「規則」というだけで、警戒心をありありと曝け出して――。
どれほどこの男が、コウの友人として負担になっているか、これで解ろうというものだ。
だがマリーは、サークル活動やボランティア活動に励んでいるため、週末を含めて家にいないことが多くなった。
そこへ、この自由気ままを信条とする二人が加わった。あの赤毛は、渋るコウを言いくるめて連日のように連れだしている。コウと僕がゆっくり過ごせる、残り僅かな貴重な休日もおかまいなしだ。コウがこの家の規則よりも赤毛を優先することが、信じられなかった。舌先三寸で言いくるめられ、あの強引さに呑まれて仕方なく――、そうに決まっている。
少しでも長く一緒にいたい――、とそう言ってくれたばかりじゃないか。
行方不明状態からやっと戻ってきた赤毛を、労わる想いもあるのかもしれない。そのことで苦痛を抱えていたのは、コウの方なのに……。
どうであれ、あの赤毛の存在は、僕にとってどうしようもなく苦い現実だ。この苦みもそのうち日常の中でこなれ、食卓のマーマイトのように苦さの中に旨味をみいだせるようになるものだ、とバニーは笑って言っていたけれど。有り得ない。このざらざらとした砂を食むような苦々しさに慣れる日がくるとは思えない。現にコウは英国に来て一年が過ぎようと、マーマイトだけは絶対に口にしようとしないじゃないか。突然知った馴染みのない苦さなど、そんなものだ。受け入れることは不可能だ。
そして、この男、ショーン。自分の失態をいかに言い訳するか、今もしきりに頭の中で巡らせている。言い訳しなければならないと思うだけ、まだ可愛げがあるが――。落ち着きのない眼球が、過去とこの場をいったりきたり忙しない。そのくせ僕に否定されるのを恐れて、どう切り出すかの最初の一手を打てずにいる。きっと彼は諦めて、直に考えることを放棄してこう言いだすだろう……。
――アル、聴いていると思うんだが、俺も悪かったと反省してるんだ。
「アル、もう聴いて、知ってるんだろ? 悪かったよ、彼女には、言い過ぎたと思ってる。これでも反省してるんだ」
「解ってるよ、ショーン。売り言葉に買い言葉、ってやつだろ? 些細なことじゃないか、そう気にすることでもないさ。騒ぎすぎるのが、彼女の悪い癖でもあるからね」
同じ苦々しい存在であっても、ショーンはまだ甘さをほのかに感じられる、皮入りマーマレードに近いかもしれない。これは、マーマイトの次にコウの嫌いな英国の苦み食品だけどね。コウの言い方を借りると、「マーマレードは食べ物だということは理解できる、それに比べてマーマイトは――」不快指数が違いすぎるらしい。コウは、申し訳なさそうな顔をして、「きみたちの文化をけして否定するわけじゃないんだ。でも、味覚ってものは意志ではどうすることもできないんじゃないかと思うんだ。きみが、納豆をみて顔を背けるのと同じで……」と言葉を濁していた。かまわないよ。僕も同意見だ。
意志の力ではどうしようもないほど、嫌い。それが悪いこととは思わない。あの腐ったマメを毎日食べろといわれるなら、どんなにコウのことが好きでも、僕は彼との関係を清算することを考えるかもしれない。幸いにも、彼はそんなことを言うタイプではないから、真剣に検討したことはないのだが。
ともあれ、僕に取っての不快指数10段階の8くらいのショーンは、薄っすらと笑みを浮かべた僕を見て、ほっとしたように肩の力をぬいた。僕はキーボードを叩くのを止め、わざと神妙な顔を作ってみせた。
「でも、あまり細かなことで諍いになるようでは、関係がギクシャクしてしまって寛げなくなってしまう。コウは今の時点でもう、かなり神経を逆立てているみたいだからね」
軽く握りしめていたショーンの拳が、ぴくりと痙攣する。コウの名前に反応したのだ。
「彼は、あれこれ気を遣い過ぎなんだよ!」
吐き捨てるように呟く。
「そうだね、僕もそう思うよ。だからね、コウに要らぬ気を回させないためにも、シェアルールを決めてあるんだ。なんといっても、日常の家事を受け持ってくれているのは彼だから。すまなかったね、さきに話しておけばよかったね。なに、大したことじゃないよ、常識の範疇だ。僕も、マリーも問題なく過ごしてる。本当に些細な決まりばかりだよ」
徐々に血の気が失せていく、今のショーンの間抜け面をマリーにも見せてやりたい。「規則」というだけで、警戒心をありありと曝け出して――。
どれほどこの男が、コウの友人として負担になっているか、これで解ろうというものだ。
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