夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
5 / 219
第一章

疑惑 3

しおりを挟む
 白いシーツに限度いっぱい両腕を広げて。サイドライトの灯りをはじく指先をひらひらと動かすと、白蝶貝の不透明な輝きが軽やかに羽ばたき。薄闇の中浮かび上がる腕は、まるでキャンバスに貼り付けられた白のモチーフ。この身体は鑑賞されるためのオブジェ。大いなる視線を前に全てを晒し、誘惑するための――。

 ほら、露出する樹肌から滴る蜜を求めてそっと闇に忍び寄る昆虫のように、しっとりとした感触が僕を絡めとる――。




 怒りを発散させるには、汗をかくのが一番手っ取り早い。体力を消耗させることで思考力は低下し、感覚はたやすく感情に勝利する。目を瞑り、神経を研ぎ澄ませるだけでいい。それだけで、いとも簡単に荒れ狂う波に呑まれる。後はもう、恍惚に揺さぶられ、意識を放り捨て、連れ去られるだけ。ただ息を詰まらせて、意志も、尊厳も、波涛に揉まれ揉屑と化していくのを眺めているだけでいい――。波が引いた後には、怒りは湿った砂に沁み込み――。やがてその湿り気さえも大気に紛れ――。さらさらと分解された粒子に還る。循環する熱のランダムウォーク。感情なんて、その程度のものにすぎない。

 

「時間は? まだいいのかい?」
「泊まっていく」
「おや珍しい」

 寝返りを打って、両腕を伸ばして彼を引き寄せた。その硬質な首筋を。蜜を求めて柔らかな唇を吸い上げる。機能につき動かされる昆虫のように――。そう、まだ足りないのだ。まるで足りない――。意志とは別の自動化された渇望が求めている――。
 

「何があった?」
「別に」
「きみらしくないよ」
「何もない」
「素直じゃないね。――最近の、きみらしくはないね。きみの可愛い子猫ちゃんキティと喧嘩でもしたのかい?」

 ピクリと、彼の背に滑らせていた手が止まっていた。腹立たしさに、滑らかな皮膚にそのまま爪を喰い込ませた。さながら猫のように――。

 つっ、っと顔をしかめた彼を見て、思わず笑みが零れ落ちる。彼はそんな僕を見て、逆にほっとしたように口許を緩めている。変わらない――。

「もう以前のようには教えてくれないのかな? きみの可愛い小猫のこと」
「彼をネタに、論文にでも仕立てようっていうの?」

 案の定だ。彼に腕を回したまま、喉を鳴らして笑った。彼はもう僕のスーパーバイザーではないのに。未だにその気分が抜けないなんて。いつまでも僕の手綱を取り続けたい、そんな思惑を隠そうともしない。ここにはしばらく来なかったのに、彼は何も変わっていないのだ。

「アル、論文の素材ならきみにするよ」
 機嫌を取るように、彼は僕の耳朶を食む。
「スキツォイドの症例として?」
「性依存症の症例として」
「ひどいな」
「まさか自覚がないわけじゃないだろうね?」
「僕の見解では違うと思っているよ。強迫的な衝動に駆られているわけではないもの」
「それなら、きみが今ここでこうしている事を、どう解釈する?」
「自動的なただの性衝動リビドーだよ。健全な衝動の範囲内だ。汗をかくような運動がしたかったのもあるかな。それに――」

 ごろりと寝返って、彼の上にまたがった。聡明な額を覆う汗でしっとりと濡れた栗色の髪を掻き上げる。顎を掴んで、その灰色の瞳を覗きこむように見下ろした。

「きみがこんなふうに物欲しげな瞳で僕を見てたから――も、あるかもしれない」
「おや僕のせいかい? 心外だな。分析して欲しいくせに。今日のきみはいつもにも増して不安定だ。それに、きみの自己診断がスキツォイドとは、初耳だよ」

 僕の代わりに彼が答える。


 育ててくれたジャンセン家以上に、僕のことを知る先輩。今は精神医学研究所の上級研究員でもある、バーナード・スペンサー――。


 その耳に唇を寄せ、囁いた。


「邪な行為への理由づけが欲しい? それとも、飽きもせず、僕を解剖するのが好きなだけなのかな」

 この、ベッドの上で――。




しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

エートス 風の住む丘

萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」  エートスは  彼の日常に  個性に  そしていつしか――、生き甲斐になる ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?   *****  今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。  

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

灰かぶりの少年

うどん
BL
大きなお屋敷に仕える一人の少年。 とても美しい美貌の持ち主だが忌み嫌われ毎日被虐的な扱いをされるのであった・・・。

離したくない、離して欲しくない

mahiro
BL
自宅と家の往復を繰り返していた所に飲み会の誘いが入った。 久しぶりに友達や学生の頃の先輩方とも会いたかったが、その日も仕事が夜中まで入っていたため断った。 そんなある日、社内で女性社員が芸能人が来ると話しているのを耳にした。 テレビなんて観ていないからどうせ名前を聞いたところで誰か分からないだろ、と思いあまり気にしなかった。 翌日の夜、外での仕事を終えて社内に戻って来るといつものように誰もいなかった。 そんな所に『すみません』と言う声が聞こえた。

獣人将軍のヒモ

kouta
BL
巻き込まれて異世界移転した高校生が異世界でお金持ちの獣人に飼われて幸せになるお話 ※ムーンライトノベルにも投稿しています

俺の好きな男は、幸せを運ぶ天使でした

たっこ
BL
【加筆修正済】  7話完結の短編です。  中学からの親友で、半年だけ恋人だった琢磨。  二度と合わないつもりで別れたのに、突然六年ぶりに会いに来た。 「優、迎えに来たぞ」  でも俺は、お前の手を取ることは出来ないんだ。絶対に。  

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

学園と夜の街での鬼ごっこ――標的は白の皇帝――

天海みつき
BL
 族の総長と副総長の恋の話。  アルビノの主人公――聖月はかつて黒いキャップを被って目元を隠しつつ、夜の街を駆け喧嘩に明け暮れ、いつしか"皇帝"と呼ばれるように。しかし、ある日突然、姿を晦ました。  その後、街では聖月は死んだという噂が蔓延していた。しかし、彼の族――Nukesは実際に遺体を見ていないと、その捜索を止めていなかった。 「どうしようかなぁ。……そぉだ。俺を見つけて御覧。そしたら捕まってあげる。これはゲームだよ。俺と君たちとの、ね」  学園と夜の街を巻き込んだ、追いかけっこが始まった。  族、学園、などと言っていますが全く知識がないため完全に想像です。何でも許せる方のみご覧下さい。  何とか完結までこぎつけました……!番外編を投稿完了しました。楽しんでいただけたら幸いです。

処理中です...