夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第一章

疑惑 2

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 無意味に流れていく時間は、浜辺の湿った砂に似ている。踏み締める肌に一粒一粒の粒子を感じるのに、それはいつの間にか境界を失って固まり、しっとりとまとわりついてくる。切り刻まれる時は凝固し、自らの重みにキシキシと音をたてて沈みゆく。

 しどろもどろに喋るショーンとの時間が、まさにそれだ。意味をなすことなく、口の隙間からポロポロとこぼれ落ちていくだけ。僕はこの分解した時間の浪費をどうカバーすべきなのか……。その断片を集めて、固めて、砂の城でも作りあげればいいのだろうのか――、とそんなことで頭を悩ます。


「つまり、きみの言いたいことはこういう事だね。コウとあの赤毛ジンジャー……、フランシス・ドレイクには、何やら僕たちに言えない秘密があるらしい、と」

 その肝心の秘密が何なのかも判らないのに、彼はこうも気に病んでいるのだ。問題は内容ではない。自分がその輪の中に加えてもらえていないことだ、とは彼自身は気づいてはいない。

 これまで僕がこの眼前にいる男に感じていた焦燥を、この男は赤毛に対して感じている。民俗学という流行らない学問分野ではあるが、知識量だけは優秀なコウに匹敵すると信じていたのに。
 生きた魔法辞典のような知識の塊であるやつを前にして、ショーンの自尊心は打ち砕かれ、完全に燃え尽きた後の灰のように軽々しく吹き飛ばされてしまったのだ。僕よりもコウを理解しているという優越感も、彼から得ていた友愛も、本来この赤毛に向けられていたものの投影に過ぎなかったのだから。思い知らされた喪失感に戸惑い、虚しさを埋められないでいる。それだけのことだ。

 僕はといえば、彼の存在を目の当たりにして、逆に安心したけどね。

 コウが感服してやまないのは、彼のあの目の覚めるような「知」に対してなのだ、と納得できた。僕に対して真っすぐに注いでくれる愛情とは、まったく別個なものなのだ。これまで向けられてきた信頼や友情を彼に掠め取られ、自身の存在意義を失いかけているこの哀れなショーンとは、根本的な立ち位置が違う。僕とコウの間は――。

「おい、アルビー、聴いてくれてるのかい?」
 不満そうなショーンの声音に、つい薄っすらと微笑んでしまった口許を引きしめる。
「確かにきみの不安も、もっともだと思うよ。彼らが交わす会話は日本語だし、僕たちにはその内容は判らないものね。話にも入りづらいよ。でも、コウだって気を使ってくれている。それは判るだろ? そこをとやかく言うのは、狭量というものじゃないかな。母国語で会話できる気安さは、彼の息抜きになっているはずだからね」
「それは、解っちゃいるんだけどな……」
 語尾をかき消すように、ショーンは言い淀んだ。当然だ。彼の言う事は理不尽だものね。


 留学生の中でも、コウは英語が堪能だ。それもかなり美しい英語を話す。まるでBBCのアナウンサーのように。お上品すぎてスラングがまるで通じない、という欠点はあるにしても。
 対してあの英国籍の赤毛は、なぜか時代がかった古典的な英語と、下町言葉コックニーを混ぜこぜにした不思議な発音を操る。英国育ちネイティブではないことは、あのとんでもなく独特な言葉使いで判断できる。見た目は赤毛でヘーゼルの瞳の白人種ではあるが。コウと同郷の日本育ちらしいが、どんな学び方をしたらあんな奇妙な発音の英語を習得することになるのか、どうでもいい興味だけは尽きない。

 だが、生粋のロンドン育ちの僕やショーンにとってさえ奇抜な英語なのだ。コウにしてみれば、輪をかけて理解しづらいに違いない。つい母国語での会話が多くなってしまっても、そこは大目に見てあげるべきだと僕は思っている。多いに、腹立たしくはあるけれど――。


「たださ、」と、ショーンはもどかしさを隠せない様子で息をつき、悔しげに頬を膨らませてぼそぼそと続ける。
「きみは、知っていて見過ごしにしているのかと気になってさ」
「何を?」

 もちろん僕だって我慢しているに決まっているじゃないか。どんなにいけ好かない奴にしても、コウにとっては、故郷を同じくする数少ない気心しれた相手だから、仕方なく。

「つまり、聴き取れる単語をつなげるとな、この夏季休暇にフランスへ行くとか、行かないとか、そんな話をしているみたいなんだ。このところずっとな。人形ドールがどうだ、とか……。水の精霊ウンディーネの人形ってさ、ほら、きみの父親の作ったバカ高い一点もののことだろ? あれを探しに行こうって話みたいでさ、」

「許せないな」
 考えるよりも先に言葉が零れ落ちていた。湧きあがる怒りに押しだされて――。

 まったくなんてことだ、あのうさん臭い赤毛野郎め! 
 純粋なコウをたぶらかして、いったい何をさせるつもりなんだ!





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