エートス 風の住む丘

萩尾雅縁

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Ⅺ もしも過去に戻れたら

79.空腹の値は千金

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 人間って単純だ。ブルーベリーでお腹いっぱいにしただけで、なんだか元気がでてきたもの。ショーンたちは、僕が空腹で倒れたと思っていたから、これで安心したと思う。だけど本当はそうじゃない。おそらくヴィーが何か仕掛けたのだ。僕が彼に従わないと思ったんだろうな。とはいえ、このことは黙っておく方がいいだろう。これ以上ショーンに心配をかけたくないもの。

 ほとんど強制的に寝かしつけられたベッドの上で、ひたすら考え続けていた。

 今、肝心のヴィーはいない。僕は塔の中で気を失い、ショーンがここまでおぶって来てくれた。ゲールが近道があるのだと、すごい秘密のように瞳を輝かせて案内してくれたそうだ。僕は、それが本当に道だったのかどうかが気になるのだが。ヴィーはその道中で、いつのまにかいなくなったという。
 ともかく、この小さいゲールはヴィーのように腹に一物あるやつとは違う。僕の知っているゲールと変わらない真っ直ぐな子だ。できるだけ彼の運命に影響を与えないように気をつけて動かないと――

 そんなことをつらつら考えていた。窓から見える空はまだまだ明るい。大して時間も経っていないのだと思う。

 ヴィーが戻ってきたら、この子と分かれて、いなくなったゲールを取り返して……

「すげぇ!」
 突然の素っ頓狂な声に、思考が飛んだ。
 小さなゲールはショーンに、部屋の隅に積み重ねられた売れ残りの商品を見せている。何か面白い品物でも紛れていたのだろうか。
「本当にいいの!」
 何を話してるんだろう? 
 体を起こしてショーンたちの方へ首を伸ばした。ショーンはすぐに気がついて、ぱっと片手をあげた。

「コウ」床の上から立ち上がり、彼はすぐに僕の方へ戻ってきた。「ゲールとちょっと出てくるよ」
 唐突な発言だったけれど、僕は軽く頷いて同意した。別行動を取ることに不安はあるけれど、一人きりになりたい気持ちもあったのだ。
「こいつの家、というか店に行ってくる」
「うん」、と僕は再度頷いた。
 彼は朝から僕たちと一緒にいる。きっと、彼のお母さんが心配しているに違いない。そうは言っても、小さなゲールが大人ショーンを連れ帰るのは不審極まりないのではないだろうか。

「どうするつもりなの?」僕が小首を傾げると、ショーンは目の前に手の甲をぐいっと突き出してきた。「これを買い取ってもらえないか訊いてみるよ」

 え――、と信じられなくて、あんぐりと口を開け、僕はまじまじと彼の大きな手を、その中指を見つめた。鈍く鎮座するヘブライ語の刻まれた六芒星、彼が命の次に大切にしている指輪がそこにあるのだ。それは彼が譲り受けたアルのお父さんの貴重なコレクションで、オカルト好きの間だけでなく、アンティークとしても価値のあるソロモンの指輪のレプリカだ。

「一生大切にするって言っていたのに」
「背に腹は代えられないって。これだけのものなら身分証なしでもいけるかもしれないだろ」

 ソロモンの指輪のレプリカ自体はそんなに珍しいものではない。これも通説の通りに鉄と真鍮の二種類の金属を使い、銀メッキを施してエメラルドを埋め込んだ、精緻な技巧の一点ものだから価値がある、というわけではない。この指輪が特別なのは、19世紀初頭のオーダーメイドで、工房の刻印が押されている出自のはっきりしたものだからだ。独自のデザインで制作させた指輪の注文主が、魔術師として一世風靡した人物だったということまで分かっているからだ。
 とはいえ宝飾品としては、大した価値はないのだ。売っても微々たる金額にしかならないだろう。

 もったいない。僕は素直にそう思った。気持ちが顔に出ていたのだろう。ショーンはわざとおどけた顔をして、「いいんだよ。数日分のメシ代さえ稼げればさ」と、ひょいと肩をすくめてみせた。
「ごめん」
「いいって。ほとんど自分のためだよ。俺はきみの数倍は食い物に執着あるからさ。――さぁ、行こうや」
 後方で散らばした品物を片づけていたゲールをショーンが呼んだ。
「あ、はーい!」元気よく返事をして、ゲールがかけてくる。
「コウはここで待っててくれ。自覚ないかもしれないけど、きみの顔色まだまだ悪いぞ。休んでてくれよ、頼むから」起き上がった僕を止め、ショーンは枕を整え、顔をしかめて僕を威圧した。
 また、ごめん、と言いかけて「ありがとう」と言い換えた。確かに僕にとっても、その方が都合がよかったのだ。

 階段を下りるリズミカルな足音を聞いていた。と、すぐに小さな足音が舞い戻ってきた。
「リュック、忘れてた」
 飛び込んできたゲールが急いでリュックにタッパやランチボックスを詰め込んでいる。
「ね、コウ、あの指輪! あんな凄いの僕初めて見たよ。本当にママがもらっていいのかな?」せっせと手だけは動かしながら、ゲールが僕を見つめて言った。 
「ショーンが決めることだからさ、僕には何も言えないよ。だけどね、あの指輪は本当に彼が大切にしていたものだからさ……」

 僕も何か持っていたら――

 自分の右手に目を落とした。アルのくれたサラマンダーを手放すなんて考えられない。そんな僕は強欲だろか。ショーンは大切なものをこんなにあっさり手放す決心をしてくれたのに。

「本当に譲ってもらっていいの?」

 また同じ質問だ。子どもってこういうところあるよな。自分が納得いく返事以外は受けつけない。

「だってあれ、ショーンのものじゃないよね。一目で分かったよ。あの指輪、本当はコウのなんじゃないの?」

 何もかも見透かしてしまいそうな瞳でまくしたてるこの子どもは、やっぱり、僕の知っているゲールなんだ。
 僕はなんだかどきどきしながらこの瞳に見入ってしまった。
 

 

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