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Ⅶ 今度は僕の番
50.鏡に映るものが本当とは限らない
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彼の言うことがまるで理解できなくて、どう応えていいのか判らなかった。僕はただ呆けた顔を晒すことしかできなくて、情けない。
今まで少しでも賢く、なんておこがましいけれど、こんな僕を好きになってくれたアルが馬鹿にされないくらいには価値ある人間に思ってもらえるようにと――、違う、とんでもない。そんなの無理に決まってる。
だけど、ともかく僕は頑張っていたんだ! とっさの今、こんな羞恥が頭の中をぐるぐるかけ巡るくらいには!
「ああ、本当に気づいていなかったんだね。ほら、この画面を見てごらん」
「画面?」
訳が解らず、オウム返しに呟いた。継いで、彼の長い指が示している方向を視線で辿って頭をのけぞらせる。そうすると、そこにある鏡、薄明りを反射してぼわりと浮かびあがる水面のような鏡を見上げることになった。鏡は少し傾斜をつけて掛けられている。とはいえ座った状態では僕の顔は映らない。薄闇に包まれたテラスがあるだけだ。だけどすぐに「え?」と、噛み合わない違和に戸惑って、身体は反射的に立ちあがって方向転換していた。
まじまじと鏡を見つめ直した。
ようやく、バーナードさんが画面と言った意味が解かった。
床材と溶け合い奥に向かうほど濃さを増していく夜の闇。薄闇により深い陰影をつけるトピアリー。そして、最奥にある白い靄のようなパラソルとガーデンセット。そこに映っているのは、僕がたった今までこのソファーから眺めていた景色とは違う。ここはこんなに奥行きのあるスペースじゃないのだ。それならば「これはどこなんだろう」と思わず呟いてしまった。
「昼間きみと面談していた側のテラスだよ」
事も無げな返答が返ってきた。
彼は「さっきまでそこにいたんだ」と僕の横に立ち、鏡の奥のテーブルを指さした。そして「おそらくこれは、この辺りから映した映像だろうね」と、ついと指を下方に滑らせていく。それからもう一度ガーデンセットを見上げる。
「ここでぼんやりしていてね、ふと鏡を見ると、きみがこちら側を覗きこんでいた」
首を傾けて柔らかく頬を緩めたバーナードさんの微笑みは、しばらく会えなかった家族がようやく再会できた時のような、一瞬で、緊張をとろとろに溶かしてしまう優しさに充ちていた。
だけどその時、ふっと寝室の鏡に映っていた二人の姿が脳裏をよぎった。
そう、彼はさっきまでアルと一緒にいたのだ。まさにその場所に。その瞬間感じた息苦しさを「どういうこと」とまた、つい口に出して言ってしまった。
「本当にね」バーナードさんが頷いた。画面を見据えているから、おそらく僕とは違った意味だと思う。
目をつぶって彼を遮断し息を整えた。
胸の辺りに感じる不快感は嫉妬じゃない。だってアルビーは本当に僕のことを心配して、この人に相談していたのだから。そしてバーナードさんはとてもアルを労わってくれていた。むしろ感謝したいくらいだ。
そうじゃなくて。
この嫌な感じが何に起因するのか探ろうと集中した。今度はバーナードさんが横にいるのも忘れてしまうほど鏡に映るその場所を凝視して。
そうか――
アルが僕の部屋へ来てから、もうかなりの時間が経っていた。その間、ずっとこの人はそこにいたのだろうか。アルは彼を、この底冷えするテラスに置き去りにしたのだろうか。
とそんな疑問が、胸の奥から爪を立てて這い上がってきたからだ。こうしているのが居た堪れないほどに僕を責め立てて。
僕は今となりにいる彼の、あまりにも孤独な姿を見ていた。今じゃない、最初にこの鏡を覗きこんだ時だ。だけど僕はそれを意識の外に追いやり見ないふりをした。
こうして今彼の横に立ち、息苦しさにせっつかれるまで……
「きみが感じているのが罪悪感ならそれは見当違いだよ。僕が物思いに耽っていたのは大学の、昼間話した教授との問題についてだからね。ただ誰にも思考の邪魔をされたくなかっただけだ」
バーナードさんは僕の心を見透かしたように言い、軽く肩をすくめた。僕は自分でも意識しないまま、凝視していたはずの画面から彼の上に視線をずらしていた。僕の不躾な眼差しに応えてか、彼もまた僕を見ていた。
「それに少々飲みすぎたみたいだから、頭を冷やしたかったのもある」
バーナードさんは、はにかんだような笑みをみせて僕の肩をぽんと叩いた。もう座ろうという合図なのだろう。静かに腰を下ろしフルートグラスを引き寄せている。
「罪悪感って?」またもや僕の心を見透かした彼の発言に白を切るように訊ね返した。彼は本当に僕の心が読めるのだろうか。それとも僕はそんなにも失礼な、憐れむような瞳で彼を見ていたのだろうか。自分でも自覚できないままに――
けれど「違うなら違うで構わないよ。気にしないでくれ」と、彼はこの話は打ち切ってシャンパンに手を伸ばした。
「きみは?」
「これを」僕は自分のミネラルウォーター入りのグラスに指を添える。その少し上で彼のグラスがチンッと軽い音を立てた。
細長いグラスの中で小さな気泡がシュワシュワと昇っている。僕が取り入れ損ねた酸素がそこに捕まって、彼に飲み込まれる前に必死に逃げているみたいだ。
グラスを手にしたまま口に運ぶことはせず、バーナードさんはまた頭上の画面を見上げていた。
これは彼が思っているような監視カメラの画面なんかじゃない。鏡だ。初めにその鏡を覗きこんだ時、そこには僕も映っていたのだ。だから僕は背景の違いやそこにいた彼を錯覚だと無視してしまったんだ。
――などと、今さら言うに言えない。
今、この鏡はビデオカメラの画面のように他の場所だけを映している。それなら、そういうことにしておく方がいいような気がする。
この鏡を使って、誰かが意図的にこの人をここへ導いたのなら、下手なことは言わないに限る。誰かと言ったって、そんなことをするのはドラコくらいしかいないのだから。
それならそれで、ドラコがこの人に何をさせたいのかを、僕は探らなきゃならないのだと思う。
このドラコの意図の先に、きっとゲールもいる。
今まで少しでも賢く、なんておこがましいけれど、こんな僕を好きになってくれたアルが馬鹿にされないくらいには価値ある人間に思ってもらえるようにと――、違う、とんでもない。そんなの無理に決まってる。
だけど、ともかく僕は頑張っていたんだ! とっさの今、こんな羞恥が頭の中をぐるぐるかけ巡るくらいには!
「ああ、本当に気づいていなかったんだね。ほら、この画面を見てごらん」
「画面?」
訳が解らず、オウム返しに呟いた。継いで、彼の長い指が示している方向を視線で辿って頭をのけぞらせる。そうすると、そこにある鏡、薄明りを反射してぼわりと浮かびあがる水面のような鏡を見上げることになった。鏡は少し傾斜をつけて掛けられている。とはいえ座った状態では僕の顔は映らない。薄闇に包まれたテラスがあるだけだ。だけどすぐに「え?」と、噛み合わない違和に戸惑って、身体は反射的に立ちあがって方向転換していた。
まじまじと鏡を見つめ直した。
ようやく、バーナードさんが画面と言った意味が解かった。
床材と溶け合い奥に向かうほど濃さを増していく夜の闇。薄闇により深い陰影をつけるトピアリー。そして、最奥にある白い靄のようなパラソルとガーデンセット。そこに映っているのは、僕がたった今までこのソファーから眺めていた景色とは違う。ここはこんなに奥行きのあるスペースじゃないのだ。それならば「これはどこなんだろう」と思わず呟いてしまった。
「昼間きみと面談していた側のテラスだよ」
事も無げな返答が返ってきた。
彼は「さっきまでそこにいたんだ」と僕の横に立ち、鏡の奥のテーブルを指さした。そして「おそらくこれは、この辺りから映した映像だろうね」と、ついと指を下方に滑らせていく。それからもう一度ガーデンセットを見上げる。
「ここでぼんやりしていてね、ふと鏡を見ると、きみがこちら側を覗きこんでいた」
首を傾けて柔らかく頬を緩めたバーナードさんの微笑みは、しばらく会えなかった家族がようやく再会できた時のような、一瞬で、緊張をとろとろに溶かしてしまう優しさに充ちていた。
だけどその時、ふっと寝室の鏡に映っていた二人の姿が脳裏をよぎった。
そう、彼はさっきまでアルと一緒にいたのだ。まさにその場所に。その瞬間感じた息苦しさを「どういうこと」とまた、つい口に出して言ってしまった。
「本当にね」バーナードさんが頷いた。画面を見据えているから、おそらく僕とは違った意味だと思う。
目をつぶって彼を遮断し息を整えた。
胸の辺りに感じる不快感は嫉妬じゃない。だってアルビーは本当に僕のことを心配して、この人に相談していたのだから。そしてバーナードさんはとてもアルを労わってくれていた。むしろ感謝したいくらいだ。
そうじゃなくて。
この嫌な感じが何に起因するのか探ろうと集中した。今度はバーナードさんが横にいるのも忘れてしまうほど鏡に映るその場所を凝視して。
そうか――
アルが僕の部屋へ来てから、もうかなりの時間が経っていた。その間、ずっとこの人はそこにいたのだろうか。アルは彼を、この底冷えするテラスに置き去りにしたのだろうか。
とそんな疑問が、胸の奥から爪を立てて這い上がってきたからだ。こうしているのが居た堪れないほどに僕を責め立てて。
僕は今となりにいる彼の、あまりにも孤独な姿を見ていた。今じゃない、最初にこの鏡を覗きこんだ時だ。だけど僕はそれを意識の外に追いやり見ないふりをした。
こうして今彼の横に立ち、息苦しさにせっつかれるまで……
「きみが感じているのが罪悪感ならそれは見当違いだよ。僕が物思いに耽っていたのは大学の、昼間話した教授との問題についてだからね。ただ誰にも思考の邪魔をされたくなかっただけだ」
バーナードさんは僕の心を見透かしたように言い、軽く肩をすくめた。僕は自分でも意識しないまま、凝視していたはずの画面から彼の上に視線をずらしていた。僕の不躾な眼差しに応えてか、彼もまた僕を見ていた。
「それに少々飲みすぎたみたいだから、頭を冷やしたかったのもある」
バーナードさんは、はにかんだような笑みをみせて僕の肩をぽんと叩いた。もう座ろうという合図なのだろう。静かに腰を下ろしフルートグラスを引き寄せている。
「罪悪感って?」またもや僕の心を見透かした彼の発言に白を切るように訊ね返した。彼は本当に僕の心が読めるのだろうか。それとも僕はそんなにも失礼な、憐れむような瞳で彼を見ていたのだろうか。自分でも自覚できないままに――
けれど「違うなら違うで構わないよ。気にしないでくれ」と、彼はこの話は打ち切ってシャンパンに手を伸ばした。
「きみは?」
「これを」僕は自分のミネラルウォーター入りのグラスに指を添える。その少し上で彼のグラスがチンッと軽い音を立てた。
細長いグラスの中で小さな気泡がシュワシュワと昇っている。僕が取り入れ損ねた酸素がそこに捕まって、彼に飲み込まれる前に必死に逃げているみたいだ。
グラスを手にしたまま口に運ぶことはせず、バーナードさんはまた頭上の画面を見上げていた。
これは彼が思っているような監視カメラの画面なんかじゃない。鏡だ。初めにその鏡を覗きこんだ時、そこには僕も映っていたのだ。だから僕は背景の違いやそこにいた彼を錯覚だと無視してしまったんだ。
――などと、今さら言うに言えない。
今、この鏡はビデオカメラの画面のように他の場所だけを映している。それなら、そういうことにしておく方がいいような気がする。
この鏡を使って、誰かが意図的にこの人をここへ導いたのなら、下手なことは言わないに限る。誰かと言ったって、そんなことをするのはドラコくらいしかいないのだから。
それならそれで、ドラコがこの人に何をさせたいのかを、僕は探らなきゃならないのだと思う。
このドラコの意図の先に、きっとゲールもいる。
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