エートス 風の住む丘

萩尾雅縁

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Ⅵ クリスマスチャイルドの受難

42.伝え方が悪くても伝わる相手がいる

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「おい、しっかりしろよ、コウ!」

 ピシャピシャと頬を叩かれる痛みに、目が開いた。
 空気の澄んだ冬の空のような――、ショーンやマリーの青よりもずっと明るい空色の瞳が覗きこんでいた。鼻梁に散らばる星屑のようなそばかす、こんな近くで見るまで気づかなかったな。

 目を開けてからもぼうっとしたままの僕に苛立ったのか、ほっとしたように緩んでいたゲールの瞳が、すぐにまたきつく釣り上がる。

「なぁ、あいつに何かされたんだろ! コウ、大丈夫? ちゃんと生きてる?」
「生きてるよ」

 酷い言われように、つい笑ってしまった。
 ゲールは腹立たしげに唇を尖らせていたけれど、僕の返事に今度こそ安堵の笑みを見せてくれた。それから体を捻り、水の入ったグラスを「ほら」と差しだしてくれた。彼の背後で、白薔薇アイスバーグが揺れていた。心配そうに。

 そうだ、アルビー……
 彼をまたこんなところへ呼び込むわけにはいかない。

 視線をゲールに戻した。頭が割れるように痛い。

「ごめん。きみを巻きこんでしまったんだね」

 彼もあの場にいたのだろうか――

 頭が上手く働かない。
 彼はいつの間にここへ来たのだろう。彼女が見つけて、ここへ招いたのだろうか。
 
 僕は確か、アビーと館の庭にいて、それからサンルームで朝食を……
 食べたっけ――、僕は、サンルームに行った? 

 ここはサンルームじゃない。

 金づちでカンカン、カンカン殴られているような痛みに頭を押さえ、どうにか半身を起こした。差し出された水を受け取り、目を瞑ってゆっくりと噛みしめ飲みくだす。

 ゲールが立ちあがって離れたような気配がした。
 再び開かれた視界には、切り花の白薔薇と空っぽの大皿の置かれた食べかすだらけの汚れたローテーブルがあった。その向こうには死人のように血の気のない顔の僕がいて、虚ろな顔でこちらを見ていた。おもむろに見上げた天井にも、幽霊のような僕が映っている。こんな鏡だらけの部屋、にはない。

「ここって、――ロンドン?」
「うん。ナイツブリッジのきみのアパートメント」

 水差しを持って同じ位置に戻ってきたゲールが神妙な顔で頷く。

 僕の、じゃないけれど。
 自然に頬がほころんだ。僕は戻って来られたのだ。本当によかった。

 だけど、どうやって帰ってこられたのかまるで判らない。初めからドラコの手違いだったとか? それとも思ったような収穫がなかった? こんなことをするドラコの意図が読めなさすぎる。
 あるいは、以前よりもずっと強力になっているはずの地の精霊グノームの結界に弾き戻されたとか。
 考えたところで判るはずがない。ドラコ本人に訊ねるほうが早いだろう。素直に教えてくれるかどうかは判らないけれど。

 今、置かれている状況などそっちのけで、つらつら考え込んでしまっていた。その間、ゲールは僕が落ち着くの待って声をかけるのを控えてくれていたようだ。
 ひとしきりしてようやく、訊きたい事が溢れそうなのにじっと我慢しているような、労わりと厳しさを湛えた瞳で僕を見ている彼に気づいた。
 彼の緊張をほぐすために、そして僕自身の覚悟をつけるために、「お水、もう一杯もらえるかな」とグラスを手渡して頼んだ。

 今度は僕が僕のことを話す番なのだ。

 僕も彼に負けず劣らず神妙な面持ちになって、深呼吸する。
 目を瞑るとまた、まとわりつく白薔薇の香りに錯覚してしまいそうだった。

 ここはどこなのか――

 二杯目の水を飲み干すと、僕は「あ!」といきなり声をあげて、カーペットに膝をついてしゃがんだままのゲールの肩を掴んで、身を乗り出してしまった。

 もしかして、僕の知らない間に彼が僕を連れ帰ってくれたんじゃないか、とそんな突拍子もないことを思いついたのだ。

「えっと、僕はどうしてここにいるのかな?」

 我ながら間抜けな質問だと思う。けれど上手い言い方が思いつかなかった。彼ならこんな変なことを訊いても解ってくれるような気がしたのだ。

「窓越しにあいつがいるのに気がついてさ、そこを開けたら、頭にキーンってくる金属を叩いたような声が聞こえたんだ」

 軽く頷いてから、ゲールは少し強張った口調で応えてくれた。

「それからきみがいきなり倒れて。めちゃくちゃ焦ったよ。コウ」

 ごく当たり前の説明に安堵して、それから少しがっかりした。
 彼は、僕が抜けてくずおれた体を部屋の中に運んでくれたのだ。だから、僕はテラスではなくここにいる。それだけだ。僕の意図した答えじゃなかった。

 と、ひやりと冷たい手のひらが額に置かれた。心配そうに「本当に平気なの?」、と髪をすくい撫でていく。
 田舎のおばあちゃんに頭を撫でてもらっているみたいだ。子どもの頃と同じようにほっとしている自分が気恥ずかしくて、頭を振った。

「心配かけてごめん。こういうこと、よくあるんだ。最近はなかったからさ、気が緩んでいたせいかな。ほんと大したことじゃないんだよ」

 本当にそうだと思う。僕自身が夢でも見ていたんじゃないか、って気さえしているのだ。そうじゃない、ってことも解っているのだけれど。

 とはいえ、平気かと訊かれれば、平気だと応えるしかない。
 、大丈夫だ。

「大したことじゃないわけないじゃん! コウ、きみが行っていた場所は危ないところじゃなかったってこと? それでも、ぶじに帰ってこられたのって奇跡じゃん! こんな――、魂をもぎ取るみたいにして放り込まれたのに! マジ酷すぎる。やっぱりあいつ、悪い妖精アンシーリー・コートじゃん。コウ、あんなやつと付き合ってちゃだめだ! ヴィーがいなかったら、どうなってたか判ったもんじゃないんだぞ!」

 まじまじとゲールの険しい顔を見つめてしまった。
 早口で、それも僕を心配してというよりも叱りつけるような口調になっているのに。
 胸が、どきどきする。

 僕の質問、ちゃんと伝わっていたんだってことが、こんなにも嬉しくて――

 



 
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