エートス 風の住む丘

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
35 / 97
Ⅴ テラスは風に翻弄される

34.情にほだされると泣きを見る

しおりを挟む
「これ、みんなブラウニーが作ったの? すごいよ、噂以上に料理上手じゃん」

 なんとなくソファーに座らずつっ立っていた僕に、ゲールが明るく話しかけてきた。だけど彼、喋る合い間にもパイにかぶりつき、頬を膨らませて咀嚼するのに余念がない。

「うん。――きみ、もしかして、ものすごくお腹空いてる?」
 テラスからの流れでこうも無邪気にがっつけるって、なんだかすごくないか。一生分でも食べ尽くしそうな勢いなんだけど。
「うん」照れくさそうな笑みを浮かべて、ゲールは皿を膝に下ろした。「それに俺、腹減ってると怒りっぽくなってだめなんだ。まずはそこんとこ。ちゃんと落ち着いて話したいじゃん」
「そうだね。まずはゆっくり食べて。時間は充分あるし焦らなくていいからね」

 ああ、そうか、解るような気がする。くつろいで食べてるんじゃない。その逆、緊張してるんだ。これから話さなきゃいけないことに――

 それならその前に、食事を楽しんでほしい。ロンドンに来てからの彼の生活の過酷さを聴いてから、できることなら、ここでひと息ついていってほしいと、ずっと思っていたんだ。
 僕も日本からこっちに来たばかりの頃は学校の課題をこなすだけでいっぱいいっぱいで、日々の食事にまで気が回らなかった。よく食事を抜いてサラに怒られていた。
 せめて、こんな時だけど――

 ガラスのローテーブルには、アルビーの言った通りに、いろんな料理を少しづつ取り分けた大皿がいくつも載っていた。そのなかでも、メインの肉類ばかりが減っている。アルビーと僕の分も考えて取り分けてくれているところに、ゲールの性格が見えるようじゃないか。
 それにも。お酒のつまみに、小さな嘴で飾り切りされた林檎をとても上品に啄んでいる。

 僕の分を皿に取り分け「気に入ったなら、これもどうぞ。僕は先に取ってあるから」、とゲールの傍に置いた。
 それから僕のイニシャルのピックの刺さった、先ほどアルビーのくれた皿を手に持った。ソファーには座らずにアルの横を回ってその後方、壁際に置かれたアップライトピアノの椅子に浅く腰かけた。

 ここでも正面の間仕切りは可動式の鏡壁だ。アルビーが鏡の中の僕を睨んでいる。僕自身には目もくれないのに。


 あの仮装パーティーの日から、どれだけ言葉を尽くして説明しても彼は解ってくれないような気がして、言葉は喉に詰まったまま出てこない。
 視える世界が違う。同じものを見ていても、捉え方が違う。互いが納得し合えることは決してないんじゃないか、とそんな気がしてならない。
 それが悲しいのか、悔しいのか、やるせないのか――、今さらどうこう考えることもないけれど。

 それでも、彼の眼差しに火傷したみたいに全身の皮膚がヒリヒリする。ささくれだってポロポロになって崩れてしまいそうだ。

 この小さな痛みのせいで落ち着かない。心が波立つ。だから僕は、ついアルビーから顔を背けてしまう。彼をますます怒らせ、悲しませてしまうと解っていても……。


「コウ」

 ゲールに呼ばれて、反射的に微笑んでみせた。彼には、僕のぐずぐずした内側を悟られたくない。彼は、関係ないのだから。

「ごめん、コウ。俺、ほんと申し訳ないことをしたと思ってる。きみを待っている間に、彼にも事情を聞いてもらったんだけどさ、」

 ぴくっと、反射的に眉が釣りあがった。顔が強張っていくのが自分でも判った。

 先にアルと話したって――

「俺、さすがにきみに恋人がいるなんて考えてもみなくてさ。まさか、俺のてんとう虫レディバードがそんな相手のところへ行くなんて思わないじゃん。だからほんと、男だとか女だとか関係なくてさ、運命の相手って決められちゃったのは、無効に――」
「ゲール、ほれ、そんなに焦って結論をだしてはいかんぞ、と教えてやったではないか、ほれ」

 話の途中で、小鳥がテーブルからパサパサッとゲールの肩へ移動した。侏儒こびとに変化して間髪入れずに口を挟む。

 さすが、この侏儒、心得てるな。ゲールの口から言わさないつもりだ。

「火の依代よりしろよ、ほれ、ここは一つ腰を据えて、ほれ、この愚かな若者の命に関わる打ち明け話を聴いてもらえんじゃろうか」

 白いふさふさした眉毛の下の意外にもつぶらな瞳に見つめられると、なんともふわふわと浮きあがりそうな気分に――

 だめだめ、取り込まれるな! 

 ぎゅっと目を瞑ってうつむいた。この声からしてもう呪術的だ。鳥だからか。そりゃ、声音に掛けては一流だろうさ。


「ほれ、大地の依代は寛大な御心でもって、先にお許しくださったぞ、火の依代よ」
 


 
 
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

あの頃の僕らは、

のあ
BL
親友から逃げるように上京した健人は、幼馴染と親友が結婚したことを知り、大学時代の歪な関係に向き合う決意をするー。

夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 2nd season」  アルビーの留学を控えた二か月間の夏物語。  僕の心はきみには見えない――。  やっと通じ合えたと思ったのに――。 思いがけない闖入者に平穏を乱され、冷静ではいられないアルビー。 不可思議で傍若無人、何やら訳アリなコウの友人たちに振り回され、断ち切れない過去のしがらみが浮かび上がる。 夢と現を両手に掬い、境界線を綱渡りする。 アルビーの心に映る万華鏡のように脆く、危うい世界が広がる――。  *****  コウからアルビーへ一人称視点が切り替わっていますが、続編として内容は続いています。独立した作品としては読めませんので、「霧のはし 虹のたもとで」からお読み下さい。  注・精神疾患に関する記述があります。ご不快に感じられる面があるかもしれません。 (番外編「憂鬱な朝」をプロローグとして挿入しています)  

家族になろうか

わこ
BL
金持ち若社長に可愛がられる少年の話。 かつて自サイトに載せていたお話です。 表紙画像はぱくたそ様(www.pakutaso.com)よりお借りしています。

僕の幸せは

春夏
BL
【完結しました】 恋人に捨てられた悠の心情。 話は別れから始まります。全編が悠の視点です。 1日2話ずつ投稿します。

別に、好きじゃなかった。

15
BL
好きな人が出来た。 そう先程まで恋人だった男に告げられる。 でも、でもさ。 notハピエン 短い話です。 ※pixiv様から転載してます。

美しき父親の誘惑に、今宵も息子は抗えない

すいかちゃん
BL
大学生の数馬には、人には言えない秘密があった。それは、実の父親から身体の関係を強いられている事だ。次第に心まで父親に取り込まれそうになった数馬は、彼女を作り父親との関係にピリオドを打とうとする。だが、父の誘惑は止まる事はなかった。 実の親子による禁断の関係です。

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

『これで最後だから』と、抱きしめた腕の中で泣いていた

和泉奏
BL
「…俺も、愛しています」と返した従者の表情は、泣きそうなのに綺麗で。 皇太子×従者

処理中です...