21 / 87
Ⅲ お手並みご高覧下さいですとも!
20.寝転ぶときはうつぶせに
しおりを挟む
しばらくして落ち着いてから、僕は軽いパニック障害の発作で過呼吸を起こしたのだろう、とバーナードさんは説明してくれた。
寝転んでいる間はうつぶせでいるようにと言われた。深く呼吸できるようにするためだそうだ。息苦しさよりも、彼がどんなふうに僕を見ているのか判らないことが辛かった。
何もないのにいきなり苦しそうにするなんて、変なやつだと呆れられているのではないか。それとも、心配されたくて演技してるんだろう、と思われているかも。
そんな人目を気にする意識が膨れ上がって喉を締め付けているだけ、苦しい気がしてるだけだ。昔からそうなのだ、僕は――。
体を起こした時そこにいたバーナードさんは、とくに僕を心配している様子でもなく、かといって無関心というふうでもなく、何事もなかったように静かにお茶を飲んでいた。「落ち着いたかい?」と柔らかな声をかけてくれ、お茶のつづきででもあるかのようにグラスの水を手渡してくれた。それからゆっくりと、僕の様子を伺いながら、いくつかの質問をした。
「息苦しく感じたきっかけは、きみの話してくれたカップの装飾に描かれていた女神の図案が、きみの記憶を刺激して何かを想起させたから?」
僕は答えようがなくて、かすかに眉をよせてしまった。うんとも、違うとも言えずに軽く小首を傾げてしまった。
「揺れる水面に映った女性の絵がカップの底に反転して、水中の女性のように見えたのかな?」
そう言われると、そうかなって気がしてくる。
心の中心では、これは彼女からの何らかの警告だ、――とそんな気がしてならないけれど。だけどそれは、バーナードさんに言えるようなことじゃない。
それに彼の背後では、マークスが蒼白な顔でおろおろしているのだ。彼の前で下手なことは言えない。心配していろいろ尋ねてくれているバーナードさんよりも、そっちの方が気になって、つい目で追ってしまう。
「申し訳ございませんとも! 申し訳ございませんとも、コウさま! わたくしめがお傍を離れたばっかりに! あやつになんぞ任せるんじゃなかったですとも! あの役立たずめが! ええ、懲らしめてやりますとも!」
愚痴とも呪詛ともつかないことを小声で口汚く呟きながら、マークスの体は横に広がったり、半分近く細くなったり上手く形を保てないのだ。あまりの動揺で、顔色も蒼白から青、緑と寒色系のグラデーショで多彩に変化する。
「コウは大丈夫だよ」と、振り返ったバーナードさんも爽やかな笑顔を向けて宥めてくれた。この様子に驚かないでいられるなんて、ショーンに負けず劣らずこの人も大したものだと思う。
しばらく興味深げに、かといって不躾さは感じさせない柔らかさを湛えてマークスを眺めていた瞳が、ふっと腕時計に視線を落とした。
「ああ、申し訳ないが、今日は少し早めに終わらせてもらうよ。これから所要を一つこなさなくてはならなくてね。夜は、予定通り? 体調が芳しくないようなら――」
「いえ、もう平気です。予定通り5時には始めます。もし、お忙しいのでしたら、気楽な集まりですから、時間通り来られなくても全然問題ありませんから」
淀みなく答えることができたと思う。
「遅れることはないと思うよ。できるなら、パーティーの前に少し時間を取って欲しいのだけど、どうだろう?」
「今、切り上げる分だけ、ということですか?」
「きみの体調を確認しておきたいしね」
優しく細められた目、にっこりと向けられた笑みに、心がズキリと音を立てた。
アルは、こんな人にこんなふうに気遣われる日常を送っていたのだ。嬉しくないはずがないじゃないか。
彼は、なんていうのか、心地良いのだ。背中をさすってくれているときも、優しい言葉をくれる時も、境界線を越えてこない。踏みこんでこないのだ。触れている時でさえ、距離を保ってくれているのが分かる。こんな人は初めてだ。
アルが惹かれるのが解かる気がする――。
「あの、ありがとうございました」
「どういたしまして」
謙遜することなく、にこやかに受け止める余裕のある人。
「えっと、またお仕事に戻られるんですか?」
すぐに立ちあがって出ようとするわけでもない。彼との間に落ちた沈黙が堪らなくて、浮かんできたことをそのまま訊いた。
「仕事の一環ではあるね。僕の恩師が今度本を出版することになってね、お祝いに顔だけ出さなくちゃいけなくてね」
「出版のお祝い……」
まさか、パーティーが被ってるとか。
「きみ、」くくくっと咽喉を震わせて笑いをこらえながら、バーナードさんが目を細める。「面白いほど考えていることが顔に出るね。大丈夫、向こうはパーティーってほどのものじゃない。本当に顔を出すだけで済むから心配いらない」
「それじゃ、そろそろ失礼するよ」、と今度こそ彼は席を立った。マークスはシュルッと一度伸びをすると、「お任せください! お任せください! わたくしめがお見送りいたしますとも!」としゃっきりと胸を張って、彼の前を跳ねるように進んでいった。
僕は、どうも、狐に摘ままれた気分。
今まで、表情がないとか、何考えてるのか判らない気もち悪いやつ、と散々言われてきたのだ。アルにだって、気持ちを素直に語るのが苦手だねって指摘された。
こんなふうに見透かされるなんて――。
なんだか、裸を見られたみたいに恥ずかしい。
寝転んでいる間はうつぶせでいるようにと言われた。深く呼吸できるようにするためだそうだ。息苦しさよりも、彼がどんなふうに僕を見ているのか判らないことが辛かった。
何もないのにいきなり苦しそうにするなんて、変なやつだと呆れられているのではないか。それとも、心配されたくて演技してるんだろう、と思われているかも。
そんな人目を気にする意識が膨れ上がって喉を締め付けているだけ、苦しい気がしてるだけだ。昔からそうなのだ、僕は――。
体を起こした時そこにいたバーナードさんは、とくに僕を心配している様子でもなく、かといって無関心というふうでもなく、何事もなかったように静かにお茶を飲んでいた。「落ち着いたかい?」と柔らかな声をかけてくれ、お茶のつづきででもあるかのようにグラスの水を手渡してくれた。それからゆっくりと、僕の様子を伺いながら、いくつかの質問をした。
「息苦しく感じたきっかけは、きみの話してくれたカップの装飾に描かれていた女神の図案が、きみの記憶を刺激して何かを想起させたから?」
僕は答えようがなくて、かすかに眉をよせてしまった。うんとも、違うとも言えずに軽く小首を傾げてしまった。
「揺れる水面に映った女性の絵がカップの底に反転して、水中の女性のように見えたのかな?」
そう言われると、そうかなって気がしてくる。
心の中心では、これは彼女からの何らかの警告だ、――とそんな気がしてならないけれど。だけどそれは、バーナードさんに言えるようなことじゃない。
それに彼の背後では、マークスが蒼白な顔でおろおろしているのだ。彼の前で下手なことは言えない。心配していろいろ尋ねてくれているバーナードさんよりも、そっちの方が気になって、つい目で追ってしまう。
「申し訳ございませんとも! 申し訳ございませんとも、コウさま! わたくしめがお傍を離れたばっかりに! あやつになんぞ任せるんじゃなかったですとも! あの役立たずめが! ええ、懲らしめてやりますとも!」
愚痴とも呪詛ともつかないことを小声で口汚く呟きながら、マークスの体は横に広がったり、半分近く細くなったり上手く形を保てないのだ。あまりの動揺で、顔色も蒼白から青、緑と寒色系のグラデーショで多彩に変化する。
「コウは大丈夫だよ」と、振り返ったバーナードさんも爽やかな笑顔を向けて宥めてくれた。この様子に驚かないでいられるなんて、ショーンに負けず劣らずこの人も大したものだと思う。
しばらく興味深げに、かといって不躾さは感じさせない柔らかさを湛えてマークスを眺めていた瞳が、ふっと腕時計に視線を落とした。
「ああ、申し訳ないが、今日は少し早めに終わらせてもらうよ。これから所要を一つこなさなくてはならなくてね。夜は、予定通り? 体調が芳しくないようなら――」
「いえ、もう平気です。予定通り5時には始めます。もし、お忙しいのでしたら、気楽な集まりですから、時間通り来られなくても全然問題ありませんから」
淀みなく答えることができたと思う。
「遅れることはないと思うよ。できるなら、パーティーの前に少し時間を取って欲しいのだけど、どうだろう?」
「今、切り上げる分だけ、ということですか?」
「きみの体調を確認しておきたいしね」
優しく細められた目、にっこりと向けられた笑みに、心がズキリと音を立てた。
アルは、こんな人にこんなふうに気遣われる日常を送っていたのだ。嬉しくないはずがないじゃないか。
彼は、なんていうのか、心地良いのだ。背中をさすってくれているときも、優しい言葉をくれる時も、境界線を越えてこない。踏みこんでこないのだ。触れている時でさえ、距離を保ってくれているのが分かる。こんな人は初めてだ。
アルが惹かれるのが解かる気がする――。
「あの、ありがとうございました」
「どういたしまして」
謙遜することなく、にこやかに受け止める余裕のある人。
「えっと、またお仕事に戻られるんですか?」
すぐに立ちあがって出ようとするわけでもない。彼との間に落ちた沈黙が堪らなくて、浮かんできたことをそのまま訊いた。
「仕事の一環ではあるね。僕の恩師が今度本を出版することになってね、お祝いに顔だけ出さなくちゃいけなくてね」
「出版のお祝い……」
まさか、パーティーが被ってるとか。
「きみ、」くくくっと咽喉を震わせて笑いをこらえながら、バーナードさんが目を細める。「面白いほど考えていることが顔に出るね。大丈夫、向こうはパーティーってほどのものじゃない。本当に顔を出すだけで済むから心配いらない」
「それじゃ、そろそろ失礼するよ」、と今度こそ彼は席を立った。マークスはシュルッと一度伸びをすると、「お任せください! お任せください! わたくしめがお見送りいたしますとも!」としゃっきりと胸を張って、彼の前を跳ねるように進んでいった。
僕は、どうも、狐に摘ままれた気分。
今まで、表情がないとか、何考えてるのか判らない気もち悪いやつ、と散々言われてきたのだ。アルにだって、気持ちを素直に語るのが苦手だねって指摘された。
こんなふうに見透かされるなんて――。
なんだか、裸を見られたみたいに恥ずかしい。
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
出戻り聖女はもう泣かない
たかせまこと
BL
西の森のとば口に住むジュタは、元聖女。
男だけど元聖女。
一人で静かに暮らしているジュタに、王宮からの使いが告げた。
「王が正室を迎えるので、言祝ぎをお願いしたい」
出戻りアンソロジー参加作品に加筆修正したものです。
ムーンライト・エブリスタにも掲載しています。
表紙絵:CK2さま
食事届いたけど配達員のほうを食べました
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
なぜ自転車に乗る人はピチピチのエロい服を着ているのか?
そう思っていたところに、食事を届けにきたデリバリー配達員の男子大学生がピチピチのサイクルウェアを着ていた。イケメンな上に筋肉質でエロかったので、追加料金を払って、メシではなく彼を食べることにした。
そばにいてほしい。
15
BL
僕の恋人には、幼馴染がいる。
そんな幼馴染が彼はよっぽど大切らしい。
──だけど、今日だけは僕のそばにいて欲しかった。
幼馴染を優先する攻め×口に出せない受け
安心してください、ハピエンです。
【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
公爵家の五男坊はあきらめない
三矢由巳
BL
ローテンエルデ王国のレームブルック公爵の妾腹の五男グスタフは公爵領で領民と交流し、気ままに日々を過ごしていた。
生母と生き別れ、父に放任されて育った彼は誰にも期待なんかしない、将来のことはあきらめていると乳兄弟のエルンストに語っていた。
冬至の祭の夜に暴漢に襲われ二人の運命は急変する。
負傷し意識のないエルンストの枕元でグスタフは叫ぶ。
「俺はおまえなしでは生きていけないんだ」
都では次の王位をめぐる政争が繰り広げられていた。
知らぬ間に巻き込まれていたことを知るグスタフ。
生き延びるため、グスタフはエルンストとともに都へ向かう。
あきらめたら待つのは死のみ。
この愛のすべて
高嗣水清太
BL
「妊娠しています」
そう言われた瞬間、冗談だろう?と思った。
俺はどこからどう見ても男だ。そりゃ恋人も男で、俺が受け身で、ヤることやってたけど。いきなり両性具有でした、なんて言われても困る。どうすればいいんだ――。
※この話は2014年にpixivで連載、2015年に再録発行した二次小説をオリジナルとして少し改稿してリメイクしたものになります。
両性具有や生理、妊娠、中絶等、描写はないもののそういった表現がある地雷が多い話になってます。少し生々しいと感じるかもしれません。加えて私は医学を学んだわけではありませんので、独学で調べはしましたが、両性具有者についての正しい知識は無いに等しいと思います。完全フィクションと捉えて下さいますよう、お願いします。
成り行き番の溺愛生活
アオ
BL
タイトルそのままです
成り行きで番になってしまったら溺愛生活が待っていたというありきたりな話です
始めて投稿するので変なところが多々あると思いますがそこは勘弁してください
オメガバースで独自の設定があるかもです
27歳×16歳のカップルです
この小説の世界では法律上大丈夫です オメガバの世界だからね
それでもよければ読んでくださるとうれしいです
こっそりバウムクーヘンエンド小説を投稿したら相手に見つかって押し倒されてた件
神崎 ルナ
BL
バウムクーヘンエンド――片想いの相手の結婚式に招待されて引き出物のバウムクーヘンを手に失恋に浸るという、所謂アンハッピーエンド。
僕の幼なじみは天然が入ったぽんやりしたタイプでずっと目が離せなかった。
だけどその笑顔を見ていると自然と僕も口角が上がり。
子供の頃に勢いに任せて『光くん、好きっ!!』と言ってしまったのは黒歴史だが、そのすぐ後に白詰草の指輪を持って来て『うん、およめさんになってね』と来たのは反則だろう。
ぽやぽやした光のことだから、きっとよく意味が分かってなかったに違いない。
指輪も、僕の左手の中指に収めていたし。
あれから10年近く。
ずっと仲が良い幼なじみの範疇に留まる僕たちの関係は決して崩してはならない。
だけど想いを隠すのは苦しくて――。
こっそりとある小説サイトに想いを吐露してそれで何とか未練を断ち切ろうと思った。
なのにどうして――。
『ねぇ、この小説って海斗が書いたんだよね?』
えっ!?どうしてバレたっ!?というより何故この僕が押し倒されてるんだっ!?(※注 サブ垢にて公開済みの『バウムクーヘンエンド』をご覧になるとより一層楽しめるかもしれません)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる