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第一章 Ⅰ 僕を取り巻く人々
4.食べ損ねたケーキの行方
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うたた寝から覚めてみると、部屋は暗闇に沈んでいた。サラの姿はない。階下から、かすかに話し声が漏れ聞こえている。
みんな、帰ってきたのかな。
まだどんよりとした頭をなんとか持ちあげて、ベッドから足を下ろした。
ああ、行きたくないな。きっとまたマリーから質問攻めだ。あの人とは大した話はしてないってのに。
そう考えると、重い腰が上がらない。身体は正直だ。
だけど――、僕が起きたことにいち早く気づいた彼女が、ひょこりとドアから顔を覗かせる。
だから、ノックしろって。何度言っても聴きやしないんだから。
「大丈夫だよ。もう起きたから。――うん、すぐに行くから」
皺くちゃになっていたシャツを着替えて居間に下りてみると、「ペギー」のカップケーキの箱が空になっていた。小さいくせに1個5ポンドもするカップケーキが、8つもあったはずなのに。
はぁ、と深いため息がついてでた。
「なによ! 文句ある? 私のケーキ、あんた食べちゃったんでしょ!」
「だからこうして買ってきたじゃないか。代金を払ったのは僕じゃないけどね」
とそこまで言ったところで、「きゃあ!」と当のマリーの悲鳴に遮られた。
「彼が! 私のために!」
それ以上の奇声を上げないためにか、口許は両手で抑えられている。
爪が、いつもと違う。キラキラのデコレーションがついてない。色も派手な赤や紫から大人っぽいベージュピンクのグラデーションに変わっている。外にいた時は気づかなかった。こんな、らしくない爪――。
「ううん。皆さんでどうぞって」
どうせ僕の言うことなんか聞いちゃいないから、おざなりに応えてソファーの空いている所に腰を落とした。いちおう用意してくれていた僕のマグカップに紅茶を注ぐ。食べ終えた後にでも淹れなおしたのだろう、充分温かい。
カップを持つ腕に、そっと小さな手が触れた。大きな銀の瞳が申し訳なさそうに僕を覗きあげている。銀色の髪をさらりと揺らして、伺うように小首を傾げる。
「もう食べちゃったんだろ? いいよ、僕は」苦笑して、彼女の髪をくしゃりと撫でた。
彼女、シルフィは言葉を発することができない。ドラコのような正式な儀式によって得た身体じゃないから、能力の発現が不完全なのだ。だけど彼女が生まれた時から知っている僕とはなんとなく、以心伝心で会話できる。僕にとっては可愛い子どもとも、妹とも思えるような子だから。こうしている間にも、つい頬が緩んでしまう。
「ちょっと、コウ!」
それがマリーには少しだけ面白くないらしい。とはいえ彼女の鬱憤がこの幼げな子に向かうことはない。実際の身体年代は、僕と変わらないかもう少し下か――。どうも、彼らの年齢を説明するのは難しい。ともかくマリーは、14,5歳くらいにしか見えない愛らしい人形の面差しのシルフィを、ことのほか可愛がってくれている。返答がなくたって、マリーは気にせず彼女に話しかけてくれる。仲がいいんだ。
4人分のカップケーキを、二人だけで食べてしまうほどにね――。
「あら、帰ったの?」
長身のマリーが急に立ちあがった。圧迫された視界の向こうにショーンがいた。開けっ放しだったドアから悠然と歩いてきている。
彼はローテーブルを一瞥すると、「よっ、今頃お茶かい? 残念、ちょっと戻るのが遅かったみたいだな」などと言いながら、まずはシルフィの頭をよしよしと撫でる。
僕はちゃんと説明したし、解ってくれたはずなんだけどな。
ショーンはシルフィのことを、いまだに幼い頃行方不明になった妹さんと重ねているんだ。そんなはずはないのに。だって、彼女は――
「はい。あんたの分」
カップケーキ! それも2個! ちょっと待ってよ、マリー、これはないんじゃないの?
「うわ! これあれだろ、女子の聖地だっていう有名店のやつ。わざわざ、行った、の?」
ショーンは紫のパンジーののったカップケーキにさっそくかぶりつき、最後の方は頬をもごもごさせながら訊いている。僕はますます苦笑いするしかない。
「マリーは早々に引き上げたよ。これはバーナードさんから皆にって、お土産にいただいたんだ。ほら、今日は面談の日だったからさ」
本当は、「食べ損ねたケーキを持ち帰ってきてくれ」ってマリーからメッセージが来たからだ。それならってことで新しく皆の分まで買ってくれた。だって、あれは食べちゃった後だったから。つまり、マリーに怒られるべきなのは僕じゃなくて彼、バーナード・スペンサーだ。
ショーンは無言で頬をもごもご動かしている。
ちょっと微妙な空気が流れている。
「これ、もういいや。食べるかい?」
一つ残った薔薇のカップケーキが、ショーンからシルフィへと渡された。お皿を受け取った透き通るように白くて華奢な手が、今度はそっと僕の方へ。
「それでコウ、今日はどんな感じだったの? 次の予定はいつ?」
ふいに話しかけてきたマリーに、ふっと僕とショーンの意識が向いた。
そしてまた、皿を支えたままのシルフィに戻した時には、それは、跡形もなく消えていた。
みんな、帰ってきたのかな。
まだどんよりとした頭をなんとか持ちあげて、ベッドから足を下ろした。
ああ、行きたくないな。きっとまたマリーから質問攻めだ。あの人とは大した話はしてないってのに。
そう考えると、重い腰が上がらない。身体は正直だ。
だけど――、僕が起きたことにいち早く気づいた彼女が、ひょこりとドアから顔を覗かせる。
だから、ノックしろって。何度言っても聴きやしないんだから。
「大丈夫だよ。もう起きたから。――うん、すぐに行くから」
皺くちゃになっていたシャツを着替えて居間に下りてみると、「ペギー」のカップケーキの箱が空になっていた。小さいくせに1個5ポンドもするカップケーキが、8つもあったはずなのに。
はぁ、と深いため息がついてでた。
「なによ! 文句ある? 私のケーキ、あんた食べちゃったんでしょ!」
「だからこうして買ってきたじゃないか。代金を払ったのは僕じゃないけどね」
とそこまで言ったところで、「きゃあ!」と当のマリーの悲鳴に遮られた。
「彼が! 私のために!」
それ以上の奇声を上げないためにか、口許は両手で抑えられている。
爪が、いつもと違う。キラキラのデコレーションがついてない。色も派手な赤や紫から大人っぽいベージュピンクのグラデーションに変わっている。外にいた時は気づかなかった。こんな、らしくない爪――。
「ううん。皆さんでどうぞって」
どうせ僕の言うことなんか聞いちゃいないから、おざなりに応えてソファーの空いている所に腰を落とした。いちおう用意してくれていた僕のマグカップに紅茶を注ぐ。食べ終えた後にでも淹れなおしたのだろう、充分温かい。
カップを持つ腕に、そっと小さな手が触れた。大きな銀の瞳が申し訳なさそうに僕を覗きあげている。銀色の髪をさらりと揺らして、伺うように小首を傾げる。
「もう食べちゃったんだろ? いいよ、僕は」苦笑して、彼女の髪をくしゃりと撫でた。
彼女、シルフィは言葉を発することができない。ドラコのような正式な儀式によって得た身体じゃないから、能力の発現が不完全なのだ。だけど彼女が生まれた時から知っている僕とはなんとなく、以心伝心で会話できる。僕にとっては可愛い子どもとも、妹とも思えるような子だから。こうしている間にも、つい頬が緩んでしまう。
「ちょっと、コウ!」
それがマリーには少しだけ面白くないらしい。とはいえ彼女の鬱憤がこの幼げな子に向かうことはない。実際の身体年代は、僕と変わらないかもう少し下か――。どうも、彼らの年齢を説明するのは難しい。ともかくマリーは、14,5歳くらいにしか見えない愛らしい人形の面差しのシルフィを、ことのほか可愛がってくれている。返答がなくたって、マリーは気にせず彼女に話しかけてくれる。仲がいいんだ。
4人分のカップケーキを、二人だけで食べてしまうほどにね――。
「あら、帰ったの?」
長身のマリーが急に立ちあがった。圧迫された視界の向こうにショーンがいた。開けっ放しだったドアから悠然と歩いてきている。
彼はローテーブルを一瞥すると、「よっ、今頃お茶かい? 残念、ちょっと戻るのが遅かったみたいだな」などと言いながら、まずはシルフィの頭をよしよしと撫でる。
僕はちゃんと説明したし、解ってくれたはずなんだけどな。
ショーンはシルフィのことを、いまだに幼い頃行方不明になった妹さんと重ねているんだ。そんなはずはないのに。だって、彼女は――
「はい。あんたの分」
カップケーキ! それも2個! ちょっと待ってよ、マリー、これはないんじゃないの?
「うわ! これあれだろ、女子の聖地だっていう有名店のやつ。わざわざ、行った、の?」
ショーンは紫のパンジーののったカップケーキにさっそくかぶりつき、最後の方は頬をもごもごさせながら訊いている。僕はますます苦笑いするしかない。
「マリーは早々に引き上げたよ。これはバーナードさんから皆にって、お土産にいただいたんだ。ほら、今日は面談の日だったからさ」
本当は、「食べ損ねたケーキを持ち帰ってきてくれ」ってマリーからメッセージが来たからだ。それならってことで新しく皆の分まで買ってくれた。だって、あれは食べちゃった後だったから。つまり、マリーに怒られるべきなのは僕じゃなくて彼、バーナード・スペンサーだ。
ショーンは無言で頬をもごもご動かしている。
ちょっと微妙な空気が流れている。
「これ、もういいや。食べるかい?」
一つ残った薔薇のカップケーキが、ショーンからシルフィへと渡された。お皿を受け取った透き通るように白くて華奢な手が、今度はそっと僕の方へ。
「それでコウ、今日はどんな感じだったの? 次の予定はいつ?」
ふいに話しかけてきたマリーに、ふっと僕とショーンの意識が向いた。
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