霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
190 / 193
Ⅳ 初夏の木漏れ日

185 器3

しおりを挟む
「アーノルドのためだよ」
「彼が、また儀式を望んでいるから?」
「多分。僕は、よくは知らないんだ」
「それとも、スティーブ自身が儀式を望んでいるのかな?」

 アルビーは、判らないと首を振った。

 非日常的な世界になんて全く関心のない彼に、こんな内容をすぐに消化しろと言ったって無理な話だと思う。いっぱい、いっぱいなんだと思う。
 彼は下唇を噛んで、黙り込んでしまっている。

 でも、しばらくして、「僕ひとりでは決められない」と、深くて長いため息を吐き、おもむろに立ち上がって人形を飾り棚に戻し、静かにその扉を閉めた。


「コウ、いろいろ教えてくれてありがとう」
 無理に作ったような笑みを浮かべて、アルビーは僕に被さるように腕を伸ばして抱きついてきた。
「アルビー、もし、精霊の人形が見つかっても、もうどんな儀式もしちゃいけない。あの魔法陣の図面も削除して欲しいんだ。あれは、安易に扱っていいものじゃないんだよ」
「うん。コウがそう言うのなら」
「アーノルドが言ってたんだ。後悔しているって。彼ら・・を見つけて、また儀式を望みたいんだと思う」
「後悔?」
「妻と子どもと、両方望めば良かったって。彼の時間は止まっているはずなのに、彼の思考にはちゃんと時間が流れていたよ」
「アーノルドは……」
「多分、」
「充分だ」

 僕のうなじに顔を埋め、その躰を強張らせている彼を、しっかりと抱き締めた。むせび泣く彼の背中を、そっと擦り続けた。彼が落ち着くまでずっと。


 多分、アーノルドは、アルビーが誰だか解っている。解っているけれど、自分では、自分の作った檻の中から出ることができないんだ。彼を解放するには、外から檻を壊すしかない。そうしないと、アルビーはいつまでたってもアーノルドの世界に異界から訪れる夢のような存在でしかない。


 けれど、どちらを選ぶことも、アルビーには辛い選択に違いないんだ……。


「コウ、」
 返事をする間もなく、唇を塞がれた。アルビーの舌が僕を絡め取る。柔らかく噛み、舐めとり、吸い尽くす。
「息ができないよ」
 肩で息をして喘ぎながら文句を言うと、「僕が酸素補給してたからさ」と悪びれもせずに言い訳された。

「僕の部屋で寝る?」
「でも、」
「コウを抱き締めて眠りたい」
「それだけ?」
「今晩はね」

「うん」



 その通りに、アルビーは僕をただ抱き締めて眠った。僕はなんだか、三日月のような細い舟に乗って、湖面で揺られているような気分だった。アルビーのとても静かな規則正しい呼吸が、そんな夢を見せてくれたのだろうか……。




「コウの言うことは、理にかなっているんだ」

 薄闇の中、ぽっかりと浮かぶ光に目を眇める。
 マイク付きヘッドフォンを付けたアルビーが膝の上に置いたパソコンで、誰かと通話しているみたいだった。

「そういう症例も確かにあるんだよ。薬での治療が成功してパラノイアから醒めても、それまで信じていた世界が崩壊することで、その世界に依存していた患者は生きる意味を見失って自殺してしまったり、ね」

 パラノイア……。

 アルビーは、アーノルドのことをそんなふうに見ているのか。彼の世界は妄想だと。

「現実に適応して生きることが本当に幸せかどうか、僕には判らないよ、スティーブ。夢から醒めたこの世界には、彼のアビーはいないんだ」

 スティーブ……。こんな時間に? と、一瞬頭に過ったけれど、仄暗い窓外はすでに朝の気配に満ち満ちている。時差を考えると、香港はちょうど昼時だ。

「僕には決められない」

 落ち着いた声音だった。決して動揺している訳ではない……。それなのに、涙が滲んできた。僕はやはり彼を追い詰め、どちらを選んでも辛い選択となる、人生の岐路に立たせてしまったのだと。

「ありがとう、スティーブ。でもいいんだ。僕の人生は、あなたが見守ってくれていたじゃないか。それで充分だよ。父と、僕の世界が決して重なり合うことはなくても、僕はそれで構わない」

 アルビー……。

 彼は僕が目を覚ましていることに気づいて、僕の頭をくしゃりと撫でた。それから、画面に目を据えたまま、ぽろぽろと零れる僕の涙を器用に拭った。

 スティーブとの通話を終わらせた彼は、パソコンをサイドボードに置いて、僕と向かい合って寝転んだ。


「僕の手は、きみの涙を拭うためにあるのかな? 僕としては、きみを悦ばす方が好きなんだけどね」

 まといつく髪を払い、瞼にキスをくれる。

「スティーブはなんて」
「僕を本当の意味でアーノルドに会わせたいって。彼が捨てた息子はこんなに大きく立派に育ったんだって、彼に見せたいって」
「彼の命を縮めることになっても?」
「この現実で生きてこそ、人間だろうって」
「きみはどうするの?」
「現実と、心の世界と、二度もアビーを失うことになるのは、彼には耐えられないと思う」
「だから、」
「このままでいい」
「うん」

 僕は彼の胸に顔を擦りつけた。背中に腕を回して抱き締めた。

「ありがとう、コウ」
「僕が傍にいる。ずっときみを見てるよ」
「うん」
「……四大精霊の名において、僕は生涯きみを愛すると誓うよ」
「変わった誓いだね。僕も同じように言えばいいのかな?」

 口の中で唱えた精霊の本当の名を、アルビーもたどたどしく、けれど正確に唱えて同じように僕を愛すると誓ってくれた。


 まさかこの時の誓いが、後にとんでもない未来を引き起こすことになるなんて、この時は、欠片も想像することすらできなかったんだ。

 




しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

放課後教室

Kokonuca.
BL
ある放課後の教室で彼に起こった凶事からすべて始まる

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

後輩に嫌われたと思った先輩と その先輩から突然ブロックされた後輩との、その後の話し…

まゆゆ
BL
澄 真広 (スミ マヒロ) は、高校三年の卒業式の日から。 5年に渡って拗らせた恋を抱えていた。 相手は、後輩の久元 朱 (クモト シュウ) 5年前の卒業式の日、想いを告げるか迷いながら待って居たが、シュウは現れず。振られたと思い込む。 一方で、シュウは、澄が急に自分をブロックしてきた事にショックを受ける。 唯一自分を、励ましてくれた先輩からのブロックを時折思い出しては、辛くなっていた。 それは、澄も同じであの日、来てくれたら今とは違っていたはずで仮に振られたとしても、ここまで拗らせることもなかったと考えていた。 そんな5年後の今、シュウは住み込み先で失敗して追い出された途方に暮れていた。 そこへ社会人となっていた澄と再会する。 果たして5年越しの恋は、動き出すのか? 表紙のイラストは、Daysさんで作らせていただきました。

美人に告白されたがまたいつもの嫌がらせかと思ったので適当にOKした

亜桜黄身
BL
俺の学校では俺に付き合ってほしいと言う罰ゲームが流行ってる。 カースト底辺の卑屈くんがカースト頂点の強気ド美人敬語攻めと付き合う話。 (悪役モブ♀が出てきます) (他サイトに2021年〜掲載済)

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

いとしの生徒会長さま

もりひろ
BL
大好きな親友と楽しい高校生活を送るため、急きょアメリカから帰国した俺だけど、編入した学園は、とんでもなく変わっていた……! しかも、生徒会長になれとか言われるし。冗談じゃねえっつの!

『これで最後だから』と、抱きしめた腕の中で泣いていた

和泉奏
BL
「…俺も、愛しています」と返した従者の表情は、泣きそうなのに綺麗で。 皇太子×従者

別れようと彼氏に言ったら泣いて懇願された挙げ句めっちゃ尽くされた

翡翠飾
BL
「い、いやだ、いや……。捨てないでっ、お願いぃ……。な、何でも!何でもするっ!金なら出すしっ、えっと、あ、ぱ、パシリになるから!」 そう言って涙を流しながら足元にすがり付くαである彼氏、霜月慧弥。ノリで告白されノリで了承したこの付き合いに、βである榊原伊織は頃合いかと別れを切り出したが、慧弥は何故か未練があるらしい。 チャライケメンα(尽くし体質)×物静かβ(尽くされ体質)の話。

処理中です...