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Ⅳ 初夏の木漏れ日
185 器3
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「アーノルドのためだよ」
「彼が、また儀式を望んでいるから?」
「多分。僕は、よくは知らないんだ」
「それとも、スティーブ自身が儀式を望んでいるのかな?」
アルビーは、判らないと首を振った。
非日常的な世界になんて全く関心のない彼に、こんな内容をすぐに消化しろと言ったって無理な話だと思う。いっぱい、いっぱいなんだと思う。
彼は下唇を噛んで、黙り込んでしまっている。
でも、しばらくして、「僕ひとりでは決められない」と、深くて長いため息を吐き、おもむろに立ち上がって人形を飾り棚に戻し、静かにその扉を閉めた。
「コウ、いろいろ教えてくれてありがとう」
無理に作ったような笑みを浮かべて、アルビーは僕に被さるように腕を伸ばして抱きついてきた。
「アルビー、もし、精霊の人形が見つかっても、もうどんな儀式もしちゃいけない。あの魔法陣の図面も削除して欲しいんだ。あれは、安易に扱っていいものじゃないんだよ」
「うん。コウがそう言うのなら」
「アーノルドが言ってたんだ。後悔しているって。彼らを見つけて、また儀式を望みたいんだと思う」
「後悔?」
「妻と子どもと、両方望めば良かったって。彼の時間は止まっているはずなのに、彼の思考にはちゃんと時間が流れていたよ」
「アーノルドは……」
「多分、」
「充分だ」
僕のうなじに顔を埋め、その躰を強張らせている彼を、しっかりと抱き締めた。むせび泣く彼の背中を、そっと擦り続けた。彼が落ち着くまでずっと。
多分、アーノルドは、アルビーが誰だか解っている。解っているけれど、自分では、自分の作った檻の中から出ることができないんだ。彼を解放するには、外から檻を壊すしかない。そうしないと、アルビーはいつまでたってもアーノルドの世界に異界から訪れる夢のような存在でしかない。
けれど、どちらを選ぶことも、アルビーには辛い選択に違いないんだ……。
「コウ、」
返事をする間もなく、唇を塞がれた。アルビーの舌が僕を絡め取る。柔らかく噛み、舐めとり、吸い尽くす。
「息ができないよ」
肩で息をして喘ぎながら文句を言うと、「僕が酸素補給してたからさ」と悪びれもせずに言い訳された。
「僕の部屋で寝る?」
「でも、」
「コウを抱き締めて眠りたい」
「それだけ?」
「今晩はね」
「うん」
その通りに、アルビーは僕をただ抱き締めて眠った。僕はなんだか、三日月のような細い舟に乗って、湖面で揺られているような気分だった。アルビーのとても静かな規則正しい呼吸が、そんな夢を見せてくれたのだろうか……。
「コウの言うことは、理にかなっているんだ」
薄闇の中、ぽっかりと浮かぶ光に目を眇める。
マイク付きヘッドフォンを付けたアルビーが膝の上に置いたパソコンで、誰かと通話しているみたいだった。
「そういう症例も確かにあるんだよ。薬での治療が成功してパラノイアから醒めても、それまで信じていた世界が崩壊することで、その世界に依存していた患者は生きる意味を見失って自殺してしまったり、ね」
パラノイア……。
アルビーは、アーノルドのことをそんなふうに見ているのか。彼の世界は妄想だと。
「現実に適応して生きることが本当に幸せかどうか、僕には判らないよ、スティーブ。夢から醒めたこの世界には、彼のアビーはいないんだ」
スティーブ……。こんな時間に? と、一瞬頭に過ったけれど、仄暗い窓外はすでに朝の気配に満ち満ちている。時差を考えると、香港はちょうど昼時だ。
「僕には決められない」
落ち着いた声音だった。決して動揺している訳ではない……。それなのに、涙が滲んできた。僕はやはり彼を追い詰め、どちらを選んでも辛い選択となる、人生の岐路に立たせてしまったのだと。
「ありがとう、スティーブ。でもいいんだ。僕の人生は、あなたが見守ってくれていたじゃないか。それで充分だよ。父と、僕の世界が決して重なり合うことはなくても、僕はそれで構わない」
アルビー……。
彼は僕が目を覚ましていることに気づいて、僕の頭をくしゃりと撫でた。それから、画面に目を据えたまま、ぽろぽろと零れる僕の涙を器用に拭った。
スティーブとの通話を終わらせた彼は、パソコンをサイドボードに置いて、僕と向かい合って寝転んだ。
「僕の手は、きみの涙を拭うためにあるのかな? 僕としては、きみを悦ばす方が好きなんだけどね」
まといつく髪を払い、瞼にキスをくれる。
「スティーブはなんて」
「僕を本当の意味でアーノルドに会わせたいって。彼が捨てた息子はこんなに大きく立派に育ったんだって、彼に見せたいって」
「彼の命を縮めることになっても?」
「この現実で生きてこそ、人間だろうって」
「きみはどうするの?」
「現実と、心の世界と、二度もアビーを失うことになるのは、彼には耐えられないと思う」
「だから、」
「このままでいい」
「うん」
僕は彼の胸に顔を擦りつけた。背中に腕を回して抱き締めた。
「ありがとう、コウ」
「僕が傍にいる。ずっときみを見てるよ」
「うん」
「……四大精霊の名において、僕は生涯きみを愛すると誓うよ」
「変わった誓いだね。僕も同じように言えばいいのかな?」
口の中で唱えた精霊の本当の名を、アルビーもたどたどしく、けれど正確に唱えて同じように僕を愛すると誓ってくれた。
まさかこの時の誓いが、後にとんでもない未来を引き起こすことになるなんて、この時は、欠片も想像することすらできなかったんだ。
「彼が、また儀式を望んでいるから?」
「多分。僕は、よくは知らないんだ」
「それとも、スティーブ自身が儀式を望んでいるのかな?」
アルビーは、判らないと首を振った。
非日常的な世界になんて全く関心のない彼に、こんな内容をすぐに消化しろと言ったって無理な話だと思う。いっぱい、いっぱいなんだと思う。
彼は下唇を噛んで、黙り込んでしまっている。
でも、しばらくして、「僕ひとりでは決められない」と、深くて長いため息を吐き、おもむろに立ち上がって人形を飾り棚に戻し、静かにその扉を閉めた。
「コウ、いろいろ教えてくれてありがとう」
無理に作ったような笑みを浮かべて、アルビーは僕に被さるように腕を伸ばして抱きついてきた。
「アルビー、もし、精霊の人形が見つかっても、もうどんな儀式もしちゃいけない。あの魔法陣の図面も削除して欲しいんだ。あれは、安易に扱っていいものじゃないんだよ」
「うん。コウがそう言うのなら」
「アーノルドが言ってたんだ。後悔しているって。彼らを見つけて、また儀式を望みたいんだと思う」
「後悔?」
「妻と子どもと、両方望めば良かったって。彼の時間は止まっているはずなのに、彼の思考にはちゃんと時間が流れていたよ」
「アーノルドは……」
「多分、」
「充分だ」
僕のうなじに顔を埋め、その躰を強張らせている彼を、しっかりと抱き締めた。むせび泣く彼の背中を、そっと擦り続けた。彼が落ち着くまでずっと。
多分、アーノルドは、アルビーが誰だか解っている。解っているけれど、自分では、自分の作った檻の中から出ることができないんだ。彼を解放するには、外から檻を壊すしかない。そうしないと、アルビーはいつまでたってもアーノルドの世界に異界から訪れる夢のような存在でしかない。
けれど、どちらを選ぶことも、アルビーには辛い選択に違いないんだ……。
「コウ、」
返事をする間もなく、唇を塞がれた。アルビーの舌が僕を絡め取る。柔らかく噛み、舐めとり、吸い尽くす。
「息ができないよ」
肩で息をして喘ぎながら文句を言うと、「僕が酸素補給してたからさ」と悪びれもせずに言い訳された。
「僕の部屋で寝る?」
「でも、」
「コウを抱き締めて眠りたい」
「それだけ?」
「今晩はね」
「うん」
その通りに、アルビーは僕をただ抱き締めて眠った。僕はなんだか、三日月のような細い舟に乗って、湖面で揺られているような気分だった。アルビーのとても静かな規則正しい呼吸が、そんな夢を見せてくれたのだろうか……。
「コウの言うことは、理にかなっているんだ」
薄闇の中、ぽっかりと浮かぶ光に目を眇める。
マイク付きヘッドフォンを付けたアルビーが膝の上に置いたパソコンで、誰かと通話しているみたいだった。
「そういう症例も確かにあるんだよ。薬での治療が成功してパラノイアから醒めても、それまで信じていた世界が崩壊することで、その世界に依存していた患者は生きる意味を見失って自殺してしまったり、ね」
パラノイア……。
アルビーは、アーノルドのことをそんなふうに見ているのか。彼の世界は妄想だと。
「現実に適応して生きることが本当に幸せかどうか、僕には判らないよ、スティーブ。夢から醒めたこの世界には、彼のアビーはいないんだ」
スティーブ……。こんな時間に? と、一瞬頭に過ったけれど、仄暗い窓外はすでに朝の気配に満ち満ちている。時差を考えると、香港はちょうど昼時だ。
「僕には決められない」
落ち着いた声音だった。決して動揺している訳ではない……。それなのに、涙が滲んできた。僕はやはり彼を追い詰め、どちらを選んでも辛い選択となる、人生の岐路に立たせてしまったのだと。
「ありがとう、スティーブ。でもいいんだ。僕の人生は、あなたが見守ってくれていたじゃないか。それで充分だよ。父と、僕の世界が決して重なり合うことはなくても、僕はそれで構わない」
アルビー……。
彼は僕が目を覚ましていることに気づいて、僕の頭をくしゃりと撫でた。それから、画面に目を据えたまま、ぽろぽろと零れる僕の涙を器用に拭った。
スティーブとの通話を終わらせた彼は、パソコンをサイドボードに置いて、僕と向かい合って寝転んだ。
「僕の手は、きみの涙を拭うためにあるのかな? 僕としては、きみを悦ばす方が好きなんだけどね」
まといつく髪を払い、瞼にキスをくれる。
「スティーブはなんて」
「僕を本当の意味でアーノルドに会わせたいって。彼が捨てた息子はこんなに大きく立派に育ったんだって、彼に見せたいって」
「彼の命を縮めることになっても?」
「この現実で生きてこそ、人間だろうって」
「きみはどうするの?」
「現実と、心の世界と、二度もアビーを失うことになるのは、彼には耐えられないと思う」
「だから、」
「このままでいい」
「うん」
僕は彼の胸に顔を擦りつけた。背中に腕を回して抱き締めた。
「ありがとう、コウ」
「僕が傍にいる。ずっときみを見てるよ」
「うん」
「……四大精霊の名において、僕は生涯きみを愛すると誓うよ」
「変わった誓いだね。僕も同じように言えばいいのかな?」
口の中で唱えた精霊の本当の名を、アルビーもたどたどしく、けれど正確に唱えて同じように僕を愛すると誓ってくれた。
まさかこの時の誓いが、後にとんでもない未来を引き起こすことになるなんて、この時は、欠片も想像することすらできなかったんだ。
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