霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

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Ⅳ 初夏の木漏れ日

145 学位

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 蟻地獄に嵌っているような気分だ。
 何かに打ち込んでいないと。考えることを止めなければいけない。切にそう思う。
 来月の半ばから最終試験が始まる。今はそのための勉強を、なりふり構わず打ち込める。だから、良かったと思う。多分、良かったのだと思う。今の、この状況は……。


 アルビーはイースター休暇中に博士論文を書き上げ、つい先日、口頭試験を終えた。まだもう少し手直しはしなければいけないらしいけれど、合格だ。
 あの雨の日は、友人たちに囲まれて合格祝いをしてもらっていたのだそうだ。メールではなく直接伝えたくて、連絡しなかったせいで心配をかけてすまなかったと、真摯に謝ってくれた。
 もういいんだ、そんなこと。アルビーの努力が無事報われたことの喜びの方がずっと大きいもの。



 アルビーは、大学でリサーチアシスタントもしているし、ボランティアのカウンセリングのようなこともしているらしく、日中の忙しさはこれまでと余り変わらない。
 けれど、帰宅時間は今までよりもずっと規則的になって、部屋に籠っている時間は格段に減った。もちろん、だからといって僕の勉強の邪魔をするようなことはしないけれど。
 僕は僕で、夕食は学食で済ませ、図書館に寄って帰ってくるこれまでの日課はそんなに変わらない。でも、自室に直行していたのが、コーヒーを淹れてアルビーと少し雑談してから、居間でテキストを開くようになった。

 
 アルビーがそこにいる。それだけで僕は落ち着かない。本当は、部屋に籠って集中すればいいのだろうけれど、課題図書を読んでいる時、レポートを書いている時、ふっと顔を上げた視線の先、飾り棚の横のソファーで、静かに本や資料を読んでいる彼を見ると、とても幸せな気分になるんだ。だから、つい、このいつもの定位置に釘付けされたまま、動けない。だけど、このトクトクと脈打つ高揚感は、足を引っ張るものではなく、僕を励まし盛り立ててくれるものだと思うから、そんな自分を許している。

 でも、この感じに浸り過ぎると、すぐに溺れて我を忘れてしまうのも解っている。アルビーをできない言い訳にするのは絶対に嫌だ。だから僕はできるだけ手許を睨んだまま、顔を上げることはしない。時折、視線を感じるような時は特に。

 なによりも、博士号を所得する彼に誇れる自分でありたいから。



 こんな、穏やかな日々が続くと思っていたんだ。頑張れる自分でいられると……。


 本当に些細なきっかけだった。その日、アルビーは僕のレポートの添削をしてあげる、と言ってくれた。今迄は甘えないようにしていたのだけれど、博士論文も一段落ついて、負担になることはないから構わないよ、と彼の方から言ってもらえて。逆に、僕の試験の先行きが気になって落ち着かないから、なんて真剣に心配してくれているものだから。

 僕はレポートの下書きを彼のパソコンに転送し、アルビーは自室にノートパソコンを取りに行った。その間、居間のソファーで待っていた。ローテーブルの上には、マグカップと、お皿、ファイルが何冊も雑多に置かれていた。
 僕よりも帰って来るのが早かった彼は、冷凍庫の作り置きのスコーンを温めて食べていたらしい。
 少し片づけておこうと、ファイルを持ち上げた途端、挟んであった写真がバサバサと床に散らばった。


 息が止まった。思わず、呼吸を忘れた。僕を睨みつける赤毛の人形サラマンダーの赤く光るガラスの瞳に。

 それだけじゃない。黒髪の男の子の人形は、きっとグノーム。透き通る銀色の髪の女の子は、シルフに違いない。

 そして……、豊かな緑色の髪の乙女は、コリーヌに似ていた。


 四大精霊の人形の写真。それも、ネットから拾い上げたものなんかじゃない、本物の変色した古い写真。

 どうして、彼が……?

 気が動転し過ぎて、散らばった写真をまとめることすら、できなかった。



 



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