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Ⅳ 初夏の木漏れ日
169 訪問1
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タクシーでの移動中、彼は余り喋らなかった。行き先についても何の説明もしてくれない。ただ僕の手を握り締めたまま、車窓に面を向けていた。
湖畔を走っていた車は、しばらくすると水辺から離れ、牧草地の広がる丘陵を抜ける道を走行する。牛や羊が至る所で草を食んでいる田園風景はいかにも英国らしい。けれどその背後に、蒼い空に霞む山々が連なっている。それがとにかく嬉しくて、これから行き着く先に待っているのが何なのか、と考えるよりも眼前に広がる懐かしくも美しい風景に見惚れていた。
時々、アルビーは思い出したように振り向いて僕を見ると、僕の頬を擦るように撫でた。親指で、僕の唇をなぞった。キスしたいのかな、と思ったけれど、彼はそうしなかった。だから僕も、彼の手のひらに唇を押し付けるだけに留めておいた。
アルビーが黙っているので、僕も途中で止まってしまっていた思考の続きを考えていた。列車の中で、中途半端なままで終わってしまった話の続き。ハムステッドヒースの、あの晩のこと。今、彼が僕に望んでいるであろうこと。あちこちに散らばってしまったパズルのピースを集めて、一つ、一つ、はめ込んでいく。全く無関係に思えていた事柄たちが、いくつもの糸で結ばれていく。時間と空間を超越する一枚の魔法陣の上で。
いつしか、また湖畔に出ていた。でもこれはホテルの面していた湖とはまた別の湖らしい。ここ、湖水地方は十六の大きな湖と無数の小さな湖があるんだ。
対岸の岸辺がずっと近い。山々の稜線を繋ぐ綿帽子のような雲が、澄んだ湖面に映っている。ここはなんだか、空がとても低く見える。手を伸ばせば届きそうなくらいに。そしてまた、湖畔から離れて緩やかな丘を登っていく。空に向かっているみたいだ。
アルビーが、ぐっと握る手のひらに力を入れた。
「そこで降ります」
タクシーから降りた道沿いには、整然とした樹々の並びが続いている。運転手と何か話していたアルビーがやっと降車すると、タクシーはUターンして元来た道を戻って行った。
「二時間したら迎えに来てくれるように頼んでいたんだ。この辺りじゃ、タクシーを呼ぶのも簡単じゃないからね」
肩を竦めてアルビーは苦笑している。
「こっちだよ。もうすぐそこだ」
そして、先に立って歩き出した。僕は半歩遅れて彼に続いた。
道沿いの樹々の陰に、脇に曲がる別の車道があった。そのどんつきに、大きな黒い鉄柵の門が見える。その両脇は、この辺りの家には珍しい高い塀で囲われている。
「ここがこれから会う来談者の家」
門前でいったん立ち止まり、アルビーは、その鉄柵の奥に見える大きな石造りの館を見上げて言った。そして僕に優しい視線を向けて、ふわりと笑った。
「行こうか。さっさと済ませて戻ろう」
門の脇にあるインターホンを押す。ほどなく聞こえた電子音の後、アルビーは門を押し開いた。玄関に続く、綺麗に整えられた庭の中央を通る道を、ゆっくりと進んだ。
僕は急に怖くなって、彼の腕を掴んでしまっていた。振り返った彼は、くしゃりと僕の頭を撫で、肩を抱いてくれた。
「緊張することなんてないよ。きみはただ、居てくれるだけでいいんだ」
玄関の呼び鈴を押すまでもなく、扉が開き、ひとの良さそうな老齢の婦人が迎えてくれる。アルビーを抱き締め、キスを交わす。親しいひとなんだ。なんだかほっと気が抜けた。
「スミスさん、電話で伝えた通り、今日は僕の友人も一緒なんだ」
「まぁ、可愛い坊ちゃんだこと! よろしくね!」
「こちらこそ」
スミスさんは僕の手を両手で抱えるように握り締め、にこにこと歓迎してくれた。ちょっと、アンナみたいだ。温かくて、おおらかで。
「彼は?」
「今日は作業場の方にいらっしゃるんですよ。坊ちゃんがいらっしゃるっていうのに! お呼びしてきますね」
「いや、いい。僕らが出向くよ」
アルビーは玄関口から踵を返す。
「お茶はどちらで? お持ちしましょうか?」
「後でいいよ。戻ってからで」
声高に答え、彼は僕の腕を引っ張った。
広々とした芝の上を突っ切り、厳格で、重苦しく、どっしりとした居住まいをみせる灰色の館の裏手に回る。菜園や花園に区画整備された庭の向こうに、小さな小屋があった。表で男が背中を向けて屈んでいる。アルビーは僕の腕を離し、一人、足を速めて彼の許へと向かった。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは、先生」
男が立ち上がり、顔を上げる。
ああ、やはり……。
僕はその場に立ち尽くし、拳を握り締め、奥歯を噛み締めて視線を足下に向けていた。ドクドクと暴れ馬のように興奮している心臓を少しでも落ち着け、僕がここに来た意味を、過たず理解できるように。アルビーの心に沿えるように。
火蜥蜴、どうか僕に、きみの知恵と、きみの強い心を貸して。
湖畔を走っていた車は、しばらくすると水辺から離れ、牧草地の広がる丘陵を抜ける道を走行する。牛や羊が至る所で草を食んでいる田園風景はいかにも英国らしい。けれどその背後に、蒼い空に霞む山々が連なっている。それがとにかく嬉しくて、これから行き着く先に待っているのが何なのか、と考えるよりも眼前に広がる懐かしくも美しい風景に見惚れていた。
時々、アルビーは思い出したように振り向いて僕を見ると、僕の頬を擦るように撫でた。親指で、僕の唇をなぞった。キスしたいのかな、と思ったけれど、彼はそうしなかった。だから僕も、彼の手のひらに唇を押し付けるだけに留めておいた。
アルビーが黙っているので、僕も途中で止まってしまっていた思考の続きを考えていた。列車の中で、中途半端なままで終わってしまった話の続き。ハムステッドヒースの、あの晩のこと。今、彼が僕に望んでいるであろうこと。あちこちに散らばってしまったパズルのピースを集めて、一つ、一つ、はめ込んでいく。全く無関係に思えていた事柄たちが、いくつもの糸で結ばれていく。時間と空間を超越する一枚の魔法陣の上で。
いつしか、また湖畔に出ていた。でもこれはホテルの面していた湖とはまた別の湖らしい。ここ、湖水地方は十六の大きな湖と無数の小さな湖があるんだ。
対岸の岸辺がずっと近い。山々の稜線を繋ぐ綿帽子のような雲が、澄んだ湖面に映っている。ここはなんだか、空がとても低く見える。手を伸ばせば届きそうなくらいに。そしてまた、湖畔から離れて緩やかな丘を登っていく。空に向かっているみたいだ。
アルビーが、ぐっと握る手のひらに力を入れた。
「そこで降ります」
タクシーから降りた道沿いには、整然とした樹々の並びが続いている。運転手と何か話していたアルビーがやっと降車すると、タクシーはUターンして元来た道を戻って行った。
「二時間したら迎えに来てくれるように頼んでいたんだ。この辺りじゃ、タクシーを呼ぶのも簡単じゃないからね」
肩を竦めてアルビーは苦笑している。
「こっちだよ。もうすぐそこだ」
そして、先に立って歩き出した。僕は半歩遅れて彼に続いた。
道沿いの樹々の陰に、脇に曲がる別の車道があった。そのどんつきに、大きな黒い鉄柵の門が見える。その両脇は、この辺りの家には珍しい高い塀で囲われている。
「ここがこれから会う来談者の家」
門前でいったん立ち止まり、アルビーは、その鉄柵の奥に見える大きな石造りの館を見上げて言った。そして僕に優しい視線を向けて、ふわりと笑った。
「行こうか。さっさと済ませて戻ろう」
門の脇にあるインターホンを押す。ほどなく聞こえた電子音の後、アルビーは門を押し開いた。玄関に続く、綺麗に整えられた庭の中央を通る道を、ゆっくりと進んだ。
僕は急に怖くなって、彼の腕を掴んでしまっていた。振り返った彼は、くしゃりと僕の頭を撫で、肩を抱いてくれた。
「緊張することなんてないよ。きみはただ、居てくれるだけでいいんだ」
玄関の呼び鈴を押すまでもなく、扉が開き、ひとの良さそうな老齢の婦人が迎えてくれる。アルビーを抱き締め、キスを交わす。親しいひとなんだ。なんだかほっと気が抜けた。
「スミスさん、電話で伝えた通り、今日は僕の友人も一緒なんだ」
「まぁ、可愛い坊ちゃんだこと! よろしくね!」
「こちらこそ」
スミスさんは僕の手を両手で抱えるように握り締め、にこにこと歓迎してくれた。ちょっと、アンナみたいだ。温かくて、おおらかで。
「彼は?」
「今日は作業場の方にいらっしゃるんですよ。坊ちゃんがいらっしゃるっていうのに! お呼びしてきますね」
「いや、いい。僕らが出向くよ」
アルビーは玄関口から踵を返す。
「お茶はどちらで? お持ちしましょうか?」
「後でいいよ。戻ってからで」
声高に答え、彼は僕の腕を引っ張った。
広々とした芝の上を突っ切り、厳格で、重苦しく、どっしりとした居住まいをみせる灰色の館の裏手に回る。菜園や花園に区画整備された庭の向こうに、小さな小屋があった。表で男が背中を向けて屈んでいる。アルビーは僕の腕を離し、一人、足を速めて彼の許へと向かった。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは、先生」
男が立ち上がり、顔を上げる。
ああ、やはり……。
僕はその場に立ち尽くし、拳を握り締め、奥歯を噛み締めて視線を足下に向けていた。ドクドクと暴れ馬のように興奮している心臓を少しでも落ち着け、僕がここに来た意味を、過たず理解できるように。アルビーの心に沿えるように。
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