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Ⅳ 初夏の木漏れ日
144 一番
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「コウ、」
ポタリと頬に感じた冷たい雫に、飛び起きた。
「驚いたよ、こんなところで寝ているから。危うく踏むところだったよ」
中腰で僕を覗き込んでいるアルビーが、小首を傾げてくすくす笑っている。青灰色のスプリングコートに、ビーズのような雫を幾つも幾つも載せて。
「おかえり、アルビー」
握り締めていた毛布を放し、寝ぼけ眼を瞬かせて、胸と膝の間に抱えていたタオルを広げて、彼の頭をふわりと包んだ。
「こんなに冷たくなってる」
そのまま、両手でその頬も包んだ。
「待っていてくれたの?」
「傘を持ってないかと思って」
「そんなに酷い降りじゃなかったのに」
玄関前の廊下に座り込んでいた僕の手を、アルビーの氷のように冷え切った手が握り、力を籠めて引っ張り起こした。そして僕を抱き締めようと腕を広げたけれど、濡れている服を気にしたのか、戸惑いがちに微笑んで「ありがとう」とだけ、呟いた。
「きみはそのまま浴室へ行って」
「ん」
「きみの部屋で待っていてもいい?」
「何かあったの?」
常夜灯の仄かな灯りの下で、アルビーは僅かに眉根を寄せた。深い、深い、優しい瞳が心配そうに曇っている。僕は何も言えなくて、ただ首を横に振る。
「きみに触れても大丈夫なくらい温まったら、すぐに戻るから」
「うん。ゆっくり温もってきて」
それなのに、僕を見つめたままアルビーは動こうとしないから、床の毛布を拾い上げ、抱え直して先に階段を上っていった。
「待ってるから」
まだその場に立って僕を見上げているアルビーに、もう一度声を掛けた。彼はやっと頷いて、浴室へ向かった。
アルビーの部屋の、虫襖《むしあお》色のベッドカバーの中に潜り込んで、僕は子どものように丸くなった。アルビーの匂いに包まれた。
森の梟。天上の星。まるで夢の中のようなアルビーの世界。
待っている間にまたうとうとしてしまっていたらしく、気がつくと、もうアルビーは戻って来ていた。僕の髪を優しく撫でてくれていた。バスローブのままのその胸に顔を擦りつけた。背中に腕を廻してぎゅっと抱き締める。
「好きだよ、アルビー」
「ありがとう」
アルビーは僕の額にキスをくれた。瞼にも。頬にも。鼻の先にも。ゆっくりと、埋め尽くすように。
「本当に、好きだよ」
もう、キスでは足りないと思うほどに。きみのいない時間に浸食されるほどに。好きという言葉では、足りない。苦しくて、苦しくて堪らないほどに。
きみの理想は僕じゃない。
けれど夜になれば、きみはここに帰って来てくれる。
きみが来るまで僕は凍えて震えながら、小さく丸まって待ち続ける。もし、帰って来なかったら? 他の誰かのところに行ってしまったら? そんな想いと闘いながら、冷たい思考の海を揺蕩っている。黄緑色の蛍光塗料の星々の波間を。橙色の光を孕む梟に憐れまれ。
アルビーが心の中にいるその人を想い続けることに疲れて、僕のところに帰って来るのを待っている。そんな瞬間を待っている自分が、堪らなく、淋しい。
それでも、もう、この温もりを手放せない。自分自身の熱に熔解していく。
どろりと溶けて、彼にまといついている自分が怖い。これは何だと、問い続けている。僕の知らない、僕じゃない、僕。アルビーしか知らない僕。これは何?
「コウ、何かあったの?」
彼の声が耳を擽る。
「何も」
「教えて」
「本当だよ。ただ、ちょっとだけ、きみに甘えたくなっただけ」
「心配かけた? 遅くなったから」
「淋しかったんだ。きみのいない時間が」
「ごめん、コウ」
アルビーの息が熱い。指の一本、一本に焔が燈る。僕を熔かす。どろどろに。溺れる。この熱に溺れる。
一番も、二番もない。この瞬間だけが、実在。
ポタリと頬に感じた冷たい雫に、飛び起きた。
「驚いたよ、こんなところで寝ているから。危うく踏むところだったよ」
中腰で僕を覗き込んでいるアルビーが、小首を傾げてくすくす笑っている。青灰色のスプリングコートに、ビーズのような雫を幾つも幾つも載せて。
「おかえり、アルビー」
握り締めていた毛布を放し、寝ぼけ眼を瞬かせて、胸と膝の間に抱えていたタオルを広げて、彼の頭をふわりと包んだ。
「こんなに冷たくなってる」
そのまま、両手でその頬も包んだ。
「待っていてくれたの?」
「傘を持ってないかと思って」
「そんなに酷い降りじゃなかったのに」
玄関前の廊下に座り込んでいた僕の手を、アルビーの氷のように冷え切った手が握り、力を籠めて引っ張り起こした。そして僕を抱き締めようと腕を広げたけれど、濡れている服を気にしたのか、戸惑いがちに微笑んで「ありがとう」とだけ、呟いた。
「きみはそのまま浴室へ行って」
「ん」
「きみの部屋で待っていてもいい?」
「何かあったの?」
常夜灯の仄かな灯りの下で、アルビーは僅かに眉根を寄せた。深い、深い、優しい瞳が心配そうに曇っている。僕は何も言えなくて、ただ首を横に振る。
「きみに触れても大丈夫なくらい温まったら、すぐに戻るから」
「うん。ゆっくり温もってきて」
それなのに、僕を見つめたままアルビーは動こうとしないから、床の毛布を拾い上げ、抱え直して先に階段を上っていった。
「待ってるから」
まだその場に立って僕を見上げているアルビーに、もう一度声を掛けた。彼はやっと頷いて、浴室へ向かった。
アルビーの部屋の、虫襖《むしあお》色のベッドカバーの中に潜り込んで、僕は子どものように丸くなった。アルビーの匂いに包まれた。
森の梟。天上の星。まるで夢の中のようなアルビーの世界。
待っている間にまたうとうとしてしまっていたらしく、気がつくと、もうアルビーは戻って来ていた。僕の髪を優しく撫でてくれていた。バスローブのままのその胸に顔を擦りつけた。背中に腕を廻してぎゅっと抱き締める。
「好きだよ、アルビー」
「ありがとう」
アルビーは僕の額にキスをくれた。瞼にも。頬にも。鼻の先にも。ゆっくりと、埋め尽くすように。
「本当に、好きだよ」
もう、キスでは足りないと思うほどに。きみのいない時間に浸食されるほどに。好きという言葉では、足りない。苦しくて、苦しくて堪らないほどに。
きみの理想は僕じゃない。
けれど夜になれば、きみはここに帰って来てくれる。
きみが来るまで僕は凍えて震えながら、小さく丸まって待ち続ける。もし、帰って来なかったら? 他の誰かのところに行ってしまったら? そんな想いと闘いながら、冷たい思考の海を揺蕩っている。黄緑色の蛍光塗料の星々の波間を。橙色の光を孕む梟に憐れまれ。
アルビーが心の中にいるその人を想い続けることに疲れて、僕のところに帰って来るのを待っている。そんな瞬間を待っている自分が、堪らなく、淋しい。
それでも、もう、この温もりを手放せない。自分自身の熱に熔解していく。
どろりと溶けて、彼にまといついている自分が怖い。これは何だと、問い続けている。僕の知らない、僕じゃない、僕。アルビーしか知らない僕。これは何?
「コウ、何かあったの?」
彼の声が耳を擽る。
「何も」
「教えて」
「本当だよ。ただ、ちょっとだけ、きみに甘えたくなっただけ」
「心配かけた? 遅くなったから」
「淋しかったんだ。きみのいない時間が」
「ごめん、コウ」
アルビーの息が熱い。指の一本、一本に焔が燈る。僕を熔かす。どろどろに。溺れる。この熱に溺れる。
一番も、二番もない。この瞬間だけが、実在。
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