144 / 193
Ⅳ 初夏の木漏れ日
139 模様替え
しおりを挟む
家に戻ってから掃除と模様替えをした。使っていなかったから汚れていない、とマリーが言っていたのは本当らしく、部屋は散らかっていなかった。けれどその分、埃が溜まっていた。
旅行に行く前から気になっていた、居間のファブリック類を変えた。春物のカーテンは爽やかな若草色だ。絨毯はまだいいかな。夜はまだまだ冷えるから。アルビーたちが戻って来て、訊いてからにしよう。
アンナに教えてもらった、洗濯をする際の色落ちを防ぐ薬剤を加えてカーテンを入れ、洗濯機を回した。キッチンにいると喧し過ぎるので、お茶を淹れた後は居間に移った。
いつものティーテーブルではなく、ソファーに座った。ティーセットの載ったトレイを置いて、傍らのキャビネットに眼をやった。
変わりなく神秘的な微笑みを唇にのせ、脱力したように壁面の鏡にもたれる人形。アルビーによく似た深緑のガラスの瞳の人形。アルビーの地雷。
偶然知り合い、共に旅をしたミシェルは、この人形のアビゲイルではなく、モデルとなったアルビーのお母さんのアビゲイルを知っていた。直接という訳ではないけれど。でも、こんな偶然があるものなのかと思ってしまう。それとも、またもや僕が知らないだけで、アビゲイルという人は想像以上の著名人だったのだろうか?
視線の先の彼女は何も答えてくれない。ただ微笑むだけで。
偶然と言えば、僕とアルビーを結びつけたのだって、このアビゲイルだと言えなくもない。僕たちの赤毛の人形が、僕と彼との架け橋だった。この人形と赤毛の人形、そんな眼に見える共通点なんてないのに。同じ作家が作ったというだけで。
ふと、最後に見た彼の姿が浮かんできた。あの時彼は、肩越しに振り返り、何か言った。それなのに僕はその言葉を思い出せない。記憶そのものが朧で、霞を掴むみたいで。記憶なのか、妄想なのか、それすら判らなくなる。思い出そうとすればするほど迷い込む霧の中から目覚めようと、僕は無意識にお茶を注いだ。
花の香りが広がる。
茶葉を変えたのかな。洗剤の匂いのせいかな、缶を開けた時は気づかなかった。
くすぐるような芳香と喉を落ちていく温もりに、ストンと心も落ち着いた。
そう言えば、四大精霊の人形って、彼以外の残りの精霊はどんなだっけ? アビゲイル・アスターを検索した時に見ているはずなのに、それも記憶の中にない。
いろんなことがあり過ぎて、キャパオーバー。そんな気がする。
「コウ、今日は早いんだね。カーテンを変えたの? 部屋が春めいて見えるよ。ありがとう」
物思いに耽り過ぎて、玄関の音に気づかなかった。もうそんな時間なのか。
「おかえり、アルビー。紅茶を飲む? さっき淹れたところだよ」
「カップを取って来る」
アルビーの笑顔にほっとする。と、同時に昼間のマリーとの会話が脳裏に蘇って来た。彼女はまだ帰って来ない。いつもはアルビーよりも早いのに。
「コウ、夕食は済ませた?」
戻って来て僕の横に腰を下ろした彼に、僕は頭を振った。
「まだ余り食欲がないんだ」
「そうかな、と思って買って来た」
言いながら、アルビーは肩にかけていた大判のトートバッグから、何やらゴソゴソと取り出し僕の前に置いた。
オーガニック・カフェの、ハムとサワークラフトのバケットサンドと、スリランカ風豆のスープだそうだ。
「もっと胃に優しいものが良かったかな?」
プラスチックの蓋を外すとツンと鼻孔を刺激したカレーの香りに、なんだか嬉しくて堪らなくなった。
「お腹が空いてきた。僕はもう、元気だよ。ぐちゃぐちゃいろんなことを考えていたから、忘れてただけなんだ」
「忘れてたって、空腹を?」
アルビーがくすくす笑う。なんだか恥ずかしいよ。視線を逸らしてフォークを手にし、スープカップを持ち上げた。
「美味しそうな匂い。いただきます」
アルビーがいるだけで、僕は面倒なことは全て忘れられる。こうして僕の横にいてくれるだけでいい。それだけでいいんだ。
「コウ、何を悩んでいるの? 教えて。もしきみが、嫌ではなければ」
だけど彼は、そんな僕とは違うようだった。形の良い唇は、買って来たサンドイッチにかぶりつくこともなく、物憂げにそんな言葉を呟いたから。
旅行に行く前から気になっていた、居間のファブリック類を変えた。春物のカーテンは爽やかな若草色だ。絨毯はまだいいかな。夜はまだまだ冷えるから。アルビーたちが戻って来て、訊いてからにしよう。
アンナに教えてもらった、洗濯をする際の色落ちを防ぐ薬剤を加えてカーテンを入れ、洗濯機を回した。キッチンにいると喧し過ぎるので、お茶を淹れた後は居間に移った。
いつものティーテーブルではなく、ソファーに座った。ティーセットの載ったトレイを置いて、傍らのキャビネットに眼をやった。
変わりなく神秘的な微笑みを唇にのせ、脱力したように壁面の鏡にもたれる人形。アルビーによく似た深緑のガラスの瞳の人形。アルビーの地雷。
偶然知り合い、共に旅をしたミシェルは、この人形のアビゲイルではなく、モデルとなったアルビーのお母さんのアビゲイルを知っていた。直接という訳ではないけれど。でも、こんな偶然があるものなのかと思ってしまう。それとも、またもや僕が知らないだけで、アビゲイルという人は想像以上の著名人だったのだろうか?
視線の先の彼女は何も答えてくれない。ただ微笑むだけで。
偶然と言えば、僕とアルビーを結びつけたのだって、このアビゲイルだと言えなくもない。僕たちの赤毛の人形が、僕と彼との架け橋だった。この人形と赤毛の人形、そんな眼に見える共通点なんてないのに。同じ作家が作ったというだけで。
ふと、最後に見た彼の姿が浮かんできた。あの時彼は、肩越しに振り返り、何か言った。それなのに僕はその言葉を思い出せない。記憶そのものが朧で、霞を掴むみたいで。記憶なのか、妄想なのか、それすら判らなくなる。思い出そうとすればするほど迷い込む霧の中から目覚めようと、僕は無意識にお茶を注いだ。
花の香りが広がる。
茶葉を変えたのかな。洗剤の匂いのせいかな、缶を開けた時は気づかなかった。
くすぐるような芳香と喉を落ちていく温もりに、ストンと心も落ち着いた。
そう言えば、四大精霊の人形って、彼以外の残りの精霊はどんなだっけ? アビゲイル・アスターを検索した時に見ているはずなのに、それも記憶の中にない。
いろんなことがあり過ぎて、キャパオーバー。そんな気がする。
「コウ、今日は早いんだね。カーテンを変えたの? 部屋が春めいて見えるよ。ありがとう」
物思いに耽り過ぎて、玄関の音に気づかなかった。もうそんな時間なのか。
「おかえり、アルビー。紅茶を飲む? さっき淹れたところだよ」
「カップを取って来る」
アルビーの笑顔にほっとする。と、同時に昼間のマリーとの会話が脳裏に蘇って来た。彼女はまだ帰って来ない。いつもはアルビーよりも早いのに。
「コウ、夕食は済ませた?」
戻って来て僕の横に腰を下ろした彼に、僕は頭を振った。
「まだ余り食欲がないんだ」
「そうかな、と思って買って来た」
言いながら、アルビーは肩にかけていた大判のトートバッグから、何やらゴソゴソと取り出し僕の前に置いた。
オーガニック・カフェの、ハムとサワークラフトのバケットサンドと、スリランカ風豆のスープだそうだ。
「もっと胃に優しいものが良かったかな?」
プラスチックの蓋を外すとツンと鼻孔を刺激したカレーの香りに、なんだか嬉しくて堪らなくなった。
「お腹が空いてきた。僕はもう、元気だよ。ぐちゃぐちゃいろんなことを考えていたから、忘れてただけなんだ」
「忘れてたって、空腹を?」
アルビーがくすくす笑う。なんだか恥ずかしいよ。視線を逸らしてフォークを手にし、スープカップを持ち上げた。
「美味しそうな匂い。いただきます」
アルビーがいるだけで、僕は面倒なことは全て忘れられる。こうして僕の横にいてくれるだけでいい。それだけでいいんだ。
「コウ、何を悩んでいるの? 教えて。もしきみが、嫌ではなければ」
だけど彼は、そんな僕とは違うようだった。形の良い唇は、買って来たサンドイッチにかぶりつくこともなく、物憂げにそんな言葉を呟いたから。
0
お気に入りに追加
29
あなたにおすすめの小説
目覚ましに先輩の声を使ってたらバレた話
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
サッカー部の先輩・ハヤトの声が密かに大好きなミノル。
彼を誘い家に泊まってもらった翌朝、目覚ましが鳴った。
……あ。
音声アラームを先輩の声にしているのがバレた。
しかもボイスレコーダーでこっそり録音していたことも白状することに。
やばい、どうしよう。
食事届いたけど配達員のほうを食べました
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
なぜ自転車に乗る人はピチピチのエロい服を着ているのか?
そう思っていたところに、食事を届けにきたデリバリー配達員の男子大学生がピチピチのサイクルウェアを着ていた。イケメンな上に筋肉質でエロかったので、追加料金を払って、メシではなく彼を食べることにした。
【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
姫を拐ったはずが勇者を拐ってしまった魔王
ミクリ21
BL
姫が拐われた!
……と思って慌てた皆は、姫が無事なのをみて安心する。
しかし、魔王は確かに誰かを拐っていった。
誰が拐われたのかを調べる皆。
一方魔王は?
「姫じゃなくて勇者なんだが」
「え?」
姫を拐ったはずが、勇者を拐ったのだった!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる