霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
115 / 193
Ⅲ.春の足音

111 旅29 蟹

しおりを挟む
 訪れたのは、一階がパブ、二階が宿の広い建物だ。シンプルで近代的な外観とは裏腹に、内側は漆喰天井に剥き出しの梁が通り、年季の入った太い柱に支えられた温もりを感じさせるオーソドックスなタイプの内装だ。だだっ広いフロアに充分に間隔を取ってテーブルが幾つも並び、その多くが埋まって賑わっている。
 空いたテーブルの一つにコリーヌと二人で待っている間に、ショーンとミシェルは、まずはエールを買いに行く。

「海辺の町だから、ここのお勧めは魚介なのよ。特に蟹ですって!」
 コリーヌは苦笑を浮かべ、僕をあのキツイ瞳で射すくめながら大袈裟に首をすくめてみせる。
「でも、私に遠慮せずに好きに注文して。今晩は異議申し立てをする気はないから」

 蟹! イギリスで蟹が食べられるなんて!

 露骨に変わった僕の表情に、コリーヌのつんとした小さな鼻が笑いを堪えるようにひくひくと動いた。
 悪かったね! 自然保護よりも蟹に心を動かされるような俗人で!

 ちょっとふてくされた僕の前に、パイントグラスがドンッと置かれる。

「僕はエールは、」
「解ってるって。一口だけ付き合えよ。まずは乾杯だ!」

 軽くグラスを打ち合わせ、一口、口をつけた。ミシェルとショーンで適当に頼んだらしい、パブ定番のフライドポテトやオニオンリングの山盛り乗った皿が、まずは運ばれてきた。それらを摘まみながら、壁の黒板にあった蟹のサラダを追加で頼んだ。

 運ばれて来た大きな皿に、驚きで目を瞠った。皿半分のスペースに盛られたサラダの横には、野菜に負けない量の蟹のほぐし身。ココット皿の自家製タルタルソースをつけて食べるらしい。温かなパンも添えられている。コーンウォール産のバターとピクルス付き。

 何はともあれ、蟹だ!

 まずは蟹にソースを混ぜて。それからサラダと一緒に、薄く切ったパンにのせて。
 美味しい。パブに来てこんな幸せな気分になれたのは、初めてかもしれない。

「最高。蟹、大好きなんだ!」
「そりゃ良かった。勧めたかいがあったよ」

 ミシェルもにこにこ。彼らは魚のフライらしき料理を堪能している。コリーヌは、いつもながらのベジタリアンメニューだけど。

「エールは苦手なんですって? それを飲むといいわ」
「蟹に、とても合うんだ」

 いつの間にか僕のエールは消え、代わりに白ワインのグラスが置かれている。コリーヌにミシェルも、エールからワインに切り替えたみたいだ。蟹で浮かれ飛んでいた僕は、深く考えもせずグラスを口に運んだ。すっきりして飲みやすい。これくらいなら、酔っ払うこともないかな。



 

 いい気分でパブを出たのは覚えている。車で寝かかって、ショーンに肩を借りてホステルの部屋に戻ったことも。
 誰かが、部屋で飲み直そうと言って、昼の内に寄ったスーパーで買ったスナック菓子を開け、ビールを開けた。僕は飲めないから、コリーヌが瓶入りのアイスティーをくれた。炭酸が入っていて飲みやすい。冷蔵庫を借りていたのか、良く冷えていた。


「だから、」
 僕はほとんど眠りかけながら壁にもたれ、訊かれたことに応えていた。
「召喚の儀式じゃないって。サラマンダーのための儀式だよ。彼は、人形に受肉させるために自らの焔で取り込んだんだ。それから……」

 思い出したくない記憶に、喉が詰まる。口は動くのに、声が出ない。掠れた息がヒューヒューと漏れた。熱に浮かされたような脳に、火照った躰があの日の記憶を呼び起こす。


 人形は人形だ。人間じゃない。器にするには欠けているんだ。聖なる焔で焼き尽くし、喰い尽くすだけでは足りなかったんだ。

 僕は知らなかった。知らされていなかった。どうしようもなく無知なまま、全てを彼に捧げていたんだ。

 悪夢が蘇る。
 この躰を二つに裂かれるような感覚が、骨を、内臓を軋ませる。血が吸い取られていく。より合わせた糸を解すように神経が抜かれていく。肉を削がれ、ベリべリと皮を剥がされる。
 幻視痛だと解っていても。躰が失われる訳ではないのに、僕は確かに分断され二つに分かれた。僕の魂を喰らい僕と同化していた彼は、人形を核にして、新たな受肉と生成を果たしたんだ。



 儀式は成功した。
 それなのに、彼は消えた。僕を一人残して。以来僕は、魂の半分を失ったまま。


 
 




しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

ある少年の体調不良について

雨水林檎
BL
皆に好かれるいつもにこやかな少年新島陽(にいじまはる)と幼馴染で親友の薬師寺優巳(やくしじまさみ)。高校に入学してしばらく陽は風邪をひいたことをきっかけにひどく体調を崩して行く……。 BLもしくはブロマンス小説。 体調不良描写があります。

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

そんなの真実じゃない

イヌノカニ
BL
引きこもって四年、生きていてもしょうがないと感じた主人公は身の周りの整理し始める。自分の部屋に溢れる幼馴染との思い出を見て、どんなパソコンやスマホよりも自分の事を知っているのは幼馴染だと気付く。どうにかして彼から自分に関する記憶を消したいと思った主人公は偶然見た広告の人を意のままに操れるというお香を手に幼馴染に会いに行くが———? 彼は本当に俺の知っている彼なのだろうか。 ============== 人の証言と記憶の曖昧さをテーマに書いたので、ハッキリとせずに終わります。

【完結】I adore you

ひつじのめい
BL
幼馴染みの蒼はルックスはモテる要素しかないのに、性格まで良くて羨ましく思いながらも夏樹は蒼の事を1番の友達だと思っていた。 そんな時、夏樹に彼女が出来た事が引き金となり2人の関係に変化が訪れる。 ※小説家になろうさんでも公開しているものを修正しています。

放課後教室

Kokonuca.
BL
ある放課後の教室で彼に起こった凶事からすべて始まる

心からの愛してる

マツユキ
BL
転入生が来た事により一人になってしまった結良。仕事に追われる日々が続く中、ついに体力の限界で倒れてしまう。過労がたたり数日入院している間にリコールされてしまい、あろうことか仕事をしていなかったのは結良だと噂で学園中に広まってしまっていた。 全寮制男子校 嫌われから固定で溺愛目指して頑張ります ※話の内容は全てフィクションになります。現実世界ではありえない設定等ありますのでご了承ください

あの頃の僕らは、

のあ
BL
親友から逃げるように上京した健人は、幼馴染と親友が結婚したことを知り、大学時代の歪な関係に向き合う決意をするー。

処理中です...