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Ⅲ.春の足音
86 旅4 旅の宿
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大聖堂の尖塔へ登れるツアーに参加し、近場にあったエドワード・ヒース記念館にもついでに寄った。僕はこの人を知らないけれど、ショーンによれば、かつての英国首相で美術品のコレクターとして有名な人らしい。
雑学豊富なショーンだけれど、特に美術が好きだとも思えないのにな、と首を捻りながら、歴史ある建造物と、彼のコレクションを興味深く眺めた。
アンナの喜びそうな品の良い陶器が飾り棚を埋め尽くし、壁には油絵が所狭しと並べられている。
足を進めるうちに、「あ、」と小さく息を呑んでいた。
壁に幾つもの日本の版画作品が飾られている。それに、浮世絵も数点。骨董品みたいな大皿や、切子のグラスも。
素知らぬ振りをして美術品を鑑賞しているショーンの口許が、ニヤついている。どうだ、懐かしいだろ、と言わんばかりに。
うん。嬉しいよ。こんな思いがけないところで、故郷の空気を吸えて。息が楽になった気がする。懐かしい、と言うのとは違うけれど。なんだろうね。この感覚。誇らしいかな? 自国の文化が認められ、愛されていることが。そして、友人がそのことを知って、僕に教えてくれたことが。
「ショーン、ありがとう」
滲み出る喜びをそのまま笑みに刷いて彼に声を掛けると、彼は何のこと? とでもいうふうに、ひょいっと肩をすくめて照れ笑いし、ヒース元首相に関する得意の雑学を、皮肉まじりにゴシップネタまで交えて、披露してくれた。
雨上がりの艶やかな緑の光る庭を散策していると、樹々の向こう側に大聖堂が見えた。もう夕暮れ時だ。ショーンといると、本当に時間を忘れてしまう。
食費を浮かせるために、帰り道で見つけたスーパーに寄って、夕食のパンと総菜を買った。それにスナック菓子に、ショーンのビールも。重くなったリュックを肩に担いで、茜色に染まる見知らぬ街の石畳を歩く。そんな事が、すごく贅沢な気分だった。
無事にチェック・インを済ませた。案内された部屋は充分に広くて、アイボリーでまとめられた室内は落ち着いていて、清潔感がある。
「いい部屋だね」
「だろ? この値段にしては充分だろ?」
「落ち着くよ。すぐに眠ってしまいそうだ」
「じゃあ急いで食べちまおう!」
ショーンは慌てて、一旦下ろしたリュックをまた手にする。このまま部屋で、というのも味気ないので、建物の裏手にある川沿いのベンチで食べることにした。
もう陽はとっぷりと暮れていたけれど、東屋ふうの休憩所には、温かな灯がともっていた。手作り感満載のベンチに腰を下ろして、買ってきたサンドイッチを食べ、部屋で沸かしたお湯で、備え付けのインスタントコーヒーを作ってポットに移しておいたものを飲んだ。
「乾杯できなくて申し訳ない」
「構わないさ」
ショーンは笑って僕のポットの蓋に、ビール瓶をコツンと当てる。
ショーンはいい奴だ。
僕は本当は、こんなふうにアルビーと付き合いたかったんじゃないかと思う。
……ベッドの中ではなく。
こんなふうに、一緒に一日過ごして、どうでもいいような、詰まらないことで笑い合って。それから……。
愛し合うんだ。
もう、友だちには戻れないのだ。そう、思った。今のような関係がいつか終ってしまっても、きっと、友だちには戻れない。ショーンと過ごすような時間を、アルビーと持つことはできない。そう思った。だって、ショーンに対する気持ちと、アルビーに対する想いはまるで違う。こんなにも違う。思い出すだけで、苦しくなる。今ここに自分がいることが、間違ったことのように思えてくる。さっきまでの穏やかで楽しい時間が、一瞬の内に霧散する。
僕はもう、この初めて訪れた街の一角にさえ、居るはずのない彼の姿を探してしまう。彼の声を耳に聴き、あの息遣いを肌に感じる。
気がつくと嵌り込んでいた沈黙の穴倉から我に返って、面を上げた。だけど、僕だけじゃない。ショーンもまた、ここにはいない誰かのことを考えているようだった。虚ろに空を漂う視線が物語っている。
「ショーン、せっかくの長期休暇なのに僕と旅行だなんて、きみの彼女は、文句のひとつも言わなかったの?」
ふと頭を過った疑問を口に出していた。アルビーは反対こそしなかったけれど、ずっと拗ねて機嫌が悪かったのだ。そのことばかり、思い返していたからだろうか。
雑学豊富なショーンだけれど、特に美術が好きだとも思えないのにな、と首を捻りながら、歴史ある建造物と、彼のコレクションを興味深く眺めた。
アンナの喜びそうな品の良い陶器が飾り棚を埋め尽くし、壁には油絵が所狭しと並べられている。
足を進めるうちに、「あ、」と小さく息を呑んでいた。
壁に幾つもの日本の版画作品が飾られている。それに、浮世絵も数点。骨董品みたいな大皿や、切子のグラスも。
素知らぬ振りをして美術品を鑑賞しているショーンの口許が、ニヤついている。どうだ、懐かしいだろ、と言わんばかりに。
うん。嬉しいよ。こんな思いがけないところで、故郷の空気を吸えて。息が楽になった気がする。懐かしい、と言うのとは違うけれど。なんだろうね。この感覚。誇らしいかな? 自国の文化が認められ、愛されていることが。そして、友人がそのことを知って、僕に教えてくれたことが。
「ショーン、ありがとう」
滲み出る喜びをそのまま笑みに刷いて彼に声を掛けると、彼は何のこと? とでもいうふうに、ひょいっと肩をすくめて照れ笑いし、ヒース元首相に関する得意の雑学を、皮肉まじりにゴシップネタまで交えて、披露してくれた。
雨上がりの艶やかな緑の光る庭を散策していると、樹々の向こう側に大聖堂が見えた。もう夕暮れ時だ。ショーンといると、本当に時間を忘れてしまう。
食費を浮かせるために、帰り道で見つけたスーパーに寄って、夕食のパンと総菜を買った。それにスナック菓子に、ショーンのビールも。重くなったリュックを肩に担いで、茜色に染まる見知らぬ街の石畳を歩く。そんな事が、すごく贅沢な気分だった。
無事にチェック・インを済ませた。案内された部屋は充分に広くて、アイボリーでまとめられた室内は落ち着いていて、清潔感がある。
「いい部屋だね」
「だろ? この値段にしては充分だろ?」
「落ち着くよ。すぐに眠ってしまいそうだ」
「じゃあ急いで食べちまおう!」
ショーンは慌てて、一旦下ろしたリュックをまた手にする。このまま部屋で、というのも味気ないので、建物の裏手にある川沿いのベンチで食べることにした。
もう陽はとっぷりと暮れていたけれど、東屋ふうの休憩所には、温かな灯がともっていた。手作り感満載のベンチに腰を下ろして、買ってきたサンドイッチを食べ、部屋で沸かしたお湯で、備え付けのインスタントコーヒーを作ってポットに移しておいたものを飲んだ。
「乾杯できなくて申し訳ない」
「構わないさ」
ショーンは笑って僕のポットの蓋に、ビール瓶をコツンと当てる。
ショーンはいい奴だ。
僕は本当は、こんなふうにアルビーと付き合いたかったんじゃないかと思う。
……ベッドの中ではなく。
こんなふうに、一緒に一日過ごして、どうでもいいような、詰まらないことで笑い合って。それから……。
愛し合うんだ。
もう、友だちには戻れないのだ。そう、思った。今のような関係がいつか終ってしまっても、きっと、友だちには戻れない。ショーンと過ごすような時間を、アルビーと持つことはできない。そう思った。だって、ショーンに対する気持ちと、アルビーに対する想いはまるで違う。こんなにも違う。思い出すだけで、苦しくなる。今ここに自分がいることが、間違ったことのように思えてくる。さっきまでの穏やかで楽しい時間が、一瞬の内に霧散する。
僕はもう、この初めて訪れた街の一角にさえ、居るはずのない彼の姿を探してしまう。彼の声を耳に聴き、あの息遣いを肌に感じる。
気がつくと嵌り込んでいた沈黙の穴倉から我に返って、面を上げた。だけど、僕だけじゃない。ショーンもまた、ここにはいない誰かのことを考えているようだった。虚ろに空を漂う視線が物語っている。
「ショーン、せっかくの長期休暇なのに僕と旅行だなんて、きみの彼女は、文句のひとつも言わなかったの?」
ふと頭を過った疑問を口に出していた。アルビーは反対こそしなかったけれど、ずっと拗ねて機嫌が悪かったのだ。そのことばかり、思い返していたからだろうか。
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