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Ⅲ.春の足音
82 焼きおにぎり
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旅行に出かける前に、大きな紙に「べからずの約束ごと」をしたためて、キッチンの壁に貼っておいた。
一つ、シンクに洗い物をためないこと。
二つ、ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てること。
三つ、居間に使った食器を置きっぱなしにしないこと。
……。
と、こんな感じで二十項目ほど、思いつくままに並べた。
十日間は長い。
二人の予定を訊ねた。マリーは、サークルの友だちとボランティア活動に勤しみ、アルビーは、休暇中も大学の研究室に通うらしい。「追い込み中だからね。遊んでいられないよ」と、言葉の割りには余裕の笑みを浮かべて、ひょいっと肩をすくめている。
二人とも忙しくて家には寝に帰るくらいかも、と言っている。それならキッチンが悲惨なことになることもないかと思う反面、アルビー、ちゃんと食事を取るのだろうかと、別の心配がもたげてくる。
スコーンの常備に加えて、焼きおにぎりを沢山作って冷凍することにした。中の具も、チーズや鮭フレーク、ウインナーと、飽きないように色々変えて。
これで食べる時にはオーブンで温めるだけでいい。でも、彼のことだからどんな手段を取るか判らない。調理メモを書いて、フリーザーバッグの中に一緒に入れておこう。とりあえず、袋ごと湯煎したり、蒸気口を開けずにレンジにかけるのはやめて欲しい。
「こんな事を、今、口を酸っぱくして言ったところで、どうせきみは忘れてしまうんだろ? 聞いているフリをして、いつも聞いちゃいないんだから」
「コウがそうやっていつまでも、僕に構ってくれないからだよ。だから、ほかのことで、頭がいっぱいになるんだからね」
壁にもたれてキッチンテーブルに肘をつき、アルビーは不貞腐れている。明日の朝には出立するのに、僕が朝から家のことばかりに精を出しているからだって、彼は言うけれど。
「アルビーのことが心配だからじゃないか!」
僕は呆れて唇を尖らせる。
旅行から帰って来て、家がごみ溜めになっていたら、僕は本気で怒るからね! 本当は旅行に出る前に、家の模様替えだってしたかったのに。さすがにそこまでし始めると、アルビーが本気で怒りだしそうだから、止めにしたんだからね!
アルビーは、そんな僕の文句をクスクス笑って聞いている。さっきまで不満そうにしていたくせに。
「その小さいの、食べていい?」
ずらりと握ったおにぎりを、オーブンに並び終えたところだった。後はこれを焼いて、冷まして、冷凍保存するだけだ。
「焼いてからの方が美味しいよ」
「そんなに待てない。今、欲しいんだ」
鼻に掛かった甘えるような声音に負けて、半端に残ったご飯を握った小さなおにぎりを除けてから、オーブンを点火した。
「はい」
指の端にのせて、差し出した。
アルビーは僕の手首を掴んで顔を寄せると、上目遣いに僕を見ながら、ゆっくりと口を開けた。
それだけで、目を背けてしまった。恥ずかしくて、堪らなくて。彼の柔らかな唇の感触に、指先がびくりと痙攣する。反対の手で、声を漏らさないように口を押さえた。舌先が、指全体に残るご飯の粘り気を舐めとるように、絡みつく。
「離して」の一言が出て来ない。力の入らない腕を引き戻すことも。
「どのくらいで出来上がるの?」
耳許を囁くような声がくすぐる。首筋に温かな唇が触れる度、力が抜ける。立っていられなくなる。
「十分ちょっと。それから冷めるのを待って、」
「じゃあ、」
「駄目だよ! 駄目、駄目!」
ここで流されては駄目だ!
腰に回された彼の手を掴んで肩越しに振り返り、睨みつけた。
今日こそはアルビーの誘惑を振り切らなければ。この数日、準備も何もろくに出来ていないのだから。
僕は頬を思いっきり膨らませ、目を眇めて彼に向き合った。
「これが終わるまでちゃんと待って! これ以上邪魔をしたら、部屋に鍵をかけるからね!」
「コウの部屋の鍵なら、僕も持っているよ。元は僕の子ども部屋だったもの」
開いた口が塞がらない。
「僕が言いたかったのはね、お腹が空いたから、出来たてを少し摘まんでもいいかい? ってことだったんだけど」
クスクス笑いながら、アルビーは僕の耳元に顔を寄せた。
「これが終わればって、コウが、夜になるのを待ちきれないのなら、もちろん僕はいつでも大歓迎だよ」
一つ、シンクに洗い物をためないこと。
二つ、ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てること。
三つ、居間に使った食器を置きっぱなしにしないこと。
……。
と、こんな感じで二十項目ほど、思いつくままに並べた。
十日間は長い。
二人の予定を訊ねた。マリーは、サークルの友だちとボランティア活動に勤しみ、アルビーは、休暇中も大学の研究室に通うらしい。「追い込み中だからね。遊んでいられないよ」と、言葉の割りには余裕の笑みを浮かべて、ひょいっと肩をすくめている。
二人とも忙しくて家には寝に帰るくらいかも、と言っている。それならキッチンが悲惨なことになることもないかと思う反面、アルビー、ちゃんと食事を取るのだろうかと、別の心配がもたげてくる。
スコーンの常備に加えて、焼きおにぎりを沢山作って冷凍することにした。中の具も、チーズや鮭フレーク、ウインナーと、飽きないように色々変えて。
これで食べる時にはオーブンで温めるだけでいい。でも、彼のことだからどんな手段を取るか判らない。調理メモを書いて、フリーザーバッグの中に一緒に入れておこう。とりあえず、袋ごと湯煎したり、蒸気口を開けずにレンジにかけるのはやめて欲しい。
「こんな事を、今、口を酸っぱくして言ったところで、どうせきみは忘れてしまうんだろ? 聞いているフリをして、いつも聞いちゃいないんだから」
「コウがそうやっていつまでも、僕に構ってくれないからだよ。だから、ほかのことで、頭がいっぱいになるんだからね」
壁にもたれてキッチンテーブルに肘をつき、アルビーは不貞腐れている。明日の朝には出立するのに、僕が朝から家のことばかりに精を出しているからだって、彼は言うけれど。
「アルビーのことが心配だからじゃないか!」
僕は呆れて唇を尖らせる。
旅行から帰って来て、家がごみ溜めになっていたら、僕は本気で怒るからね! 本当は旅行に出る前に、家の模様替えだってしたかったのに。さすがにそこまでし始めると、アルビーが本気で怒りだしそうだから、止めにしたんだからね!
アルビーは、そんな僕の文句をクスクス笑って聞いている。さっきまで不満そうにしていたくせに。
「その小さいの、食べていい?」
ずらりと握ったおにぎりを、オーブンに並び終えたところだった。後はこれを焼いて、冷まして、冷凍保存するだけだ。
「焼いてからの方が美味しいよ」
「そんなに待てない。今、欲しいんだ」
鼻に掛かった甘えるような声音に負けて、半端に残ったご飯を握った小さなおにぎりを除けてから、オーブンを点火した。
「はい」
指の端にのせて、差し出した。
アルビーは僕の手首を掴んで顔を寄せると、上目遣いに僕を見ながら、ゆっくりと口を開けた。
それだけで、目を背けてしまった。恥ずかしくて、堪らなくて。彼の柔らかな唇の感触に、指先がびくりと痙攣する。反対の手で、声を漏らさないように口を押さえた。舌先が、指全体に残るご飯の粘り気を舐めとるように、絡みつく。
「離して」の一言が出て来ない。力の入らない腕を引き戻すことも。
「どのくらいで出来上がるの?」
耳許を囁くような声がくすぐる。首筋に温かな唇が触れる度、力が抜ける。立っていられなくなる。
「十分ちょっと。それから冷めるのを待って、」
「じゃあ、」
「駄目だよ! 駄目、駄目!」
ここで流されては駄目だ!
腰に回された彼の手を掴んで肩越しに振り返り、睨みつけた。
今日こそはアルビーの誘惑を振り切らなければ。この数日、準備も何もろくに出来ていないのだから。
僕は頬を思いっきり膨らませ、目を眇めて彼に向き合った。
「これが終わるまでちゃんと待って! これ以上邪魔をしたら、部屋に鍵をかけるからね!」
「コウの部屋の鍵なら、僕も持っているよ。元は僕の子ども部屋だったもの」
開いた口が塞がらない。
「僕が言いたかったのはね、お腹が空いたから、出来たてを少し摘まんでもいいかい? ってことだったんだけど」
クスクス笑いながら、アルビーは僕の耳元に顔を寄せた。
「これが終わればって、コウが、夜になるのを待ちきれないのなら、もちろん僕はいつでも大歓迎だよ」
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