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Ⅲ.春の足音
81 花の印
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アルビーの部屋に入ると、深い森の中に迷い込んだような錯覚に陥る。何度来てもドアを開けた瞬間の、その不思議な感覚は変わらない。
豊かな葉を湛える重なり合う梢が、道を失った旅人を惑わすかのように壁を彩り、カーテン代わりの、窓ガラスに貼られた蒼い遮光シートの泉に、淡く滲んだ魚が泳ぐ。
枝に留まる梟の孕む仄かな灯の下で、大抵、アルビーは、しっとりとした下生えのような虫襖色のカバーに包まれたベッドに座り、壁にもたれている。
この日もそうだった。
読んでいた本から顔を上げると驚いたように目を瞠り、でも同時に、アルビーは嬉しそうに微笑んでくれた。
「どうしたの? コウの方から来てくれるなんて珍しいね」
膝の上の本を閉じて傍らに置き、アルビーは背筋を起こしてちょっと首を傾げている。
当然のように差し伸ばされた白い指先から、ついっと目を伏せた。
やっぱり、明日にすれば良かった。マリーに言われたからって、今日中に言わなきゃいけないことでもなかったのに……。
「ごめん、読書の邪魔をしてしまって。別に、明日でも良かったんだ。明日にする」
僕は早口で言い、ドアノブに手を掛けて後退る。
「かまわないよ。何?」
ベッドが微かに軋んで、アルビーが立ち上がる。
「マリーが、」
「うん」
パタンと、僕の背後でドアが閉められる。
「早めに言っておけって」
「うん、何?」
僕はもう後悔していた。マリーの名前を出すんじゃなかった。彼女のせいにしようとするなんて、僕は最低だ。
そうすることが当然のように、アルビーは僕の首筋にキスを落とす。僕の存在を確かめるように、手のひらを僕の輪郭に沿って滑らせる。こんな時、僕はいつも目を瞑る。暗闇に溶けた、アルビーにしか見つけられない僕になる。そして、不安で堪らなくなって、自分自身を取り戻すために、彼にしがみつくんだ。そっと薄目を開けて、天井に瞬く蛍光塗料の小さな星をひとつ、ひとつ、数えるんだ。
夜の闇のようなアルビーを抱き抱えて。
「イースター休暇、ショーンと旅行に行く」
天井の瞬きに視線を据えたまま、彼の耳許で囁いた。アルビーの手の動きが止まった。
「日帰りで?」
「十日間ほど」
「そんなに長くコウと離れているなんて、我慢できない」
ぎゅっと抱きすくめられた。どこに行くのも許さない。そう言われているような気がした。
「我慢できないと、またあそこに行くの? 僕の代わりを探しに」
違う。僕が、誰かの代わりだ。アルビーが本当に欲しいと思っている誰かの。
「たった十日間離れるだけで、アルビーは僕がいらなくなるの?」
アルビーの腕が緩んだ。両肩に、彼の手がかかる。
「コウは時々、本当に酷いことを平気で言うね」
深いため息と共に、アルビーは言った。
「おいで」
僕の手に指を絡めて、ベッドに誘う。
「マリーがいるのに?」
「彼女は気にしない」
「マリーは、」
「僕のベッドで、僕以外の誰の名前も呼んじゃ駄目だよ」
塞がれた唇がやっと自由になった時、僕は彼の背中から両の腕を離し、パタリとベッドカバーの上に落としていた。
「アルビー、行ってもいいよね?」
アルビーは僕を抱き締めたまま、応えなかった。
「いいよね?」
天井の星を見つめ、もう一度訊ねた。
「どこに行くの?」
「ストーンヘンジとその周辺の遺跡巡り。彼に話したんだろ? 夏至の日の儀式のこと」
僕を抱き締める腕に、更に力が籠っていた。
「……話した訳じゃない。尋ねたんだ。コウは、自分のことはちっとも話してくれないから」
「それで旅行に行こう、って話になったんだ。彼、あの儀式にすっかり興味を持ってしまって」
僕はショーンとの会話を思い出し、くすっと喉を震わせて笑った。
僕が行ったと言う、夏至の日の火の精霊の召喚の儀式は、どんなものなのか教えて欲しい。どうせなら、夏至の日に最大の力を得るように作られたストーンヘンジで再現してみせて欲しい。夏と違ってこの時期なら、観光客もいないだろうから、って。
全くの誤解も甚だしいのに。
「アルビーのせいだよ。きみが、彼に漏らしたからだよ」
今日の僕は少し変なのかもしれない。こんなこと、言えた義理じゃないのに。なぜだか少し、気が立っていたような気がする。いつだって僕の自由を奪い、僕を自分の自由にできると思っているアルビーに、僕は、腹が立っていたのだろうか?
「分かった」
アルビーは小さな声で承諾した。
ほら、彼はマリーの言うように焼きもちなんて焼いたりしない。僕とショーンは単なる友だちだって解っているもの。
「でも、きみがいない間、僕はずっときみのことを想っているって、忘れないで」
そう言ってアルビーは、ショーンにも誰にも絶対に見せられないような、鮮やかな花の印を一晩かけて僕の全身に刻みつけた。
豊かな葉を湛える重なり合う梢が、道を失った旅人を惑わすかのように壁を彩り、カーテン代わりの、窓ガラスに貼られた蒼い遮光シートの泉に、淡く滲んだ魚が泳ぐ。
枝に留まる梟の孕む仄かな灯の下で、大抵、アルビーは、しっとりとした下生えのような虫襖色のカバーに包まれたベッドに座り、壁にもたれている。
この日もそうだった。
読んでいた本から顔を上げると驚いたように目を瞠り、でも同時に、アルビーは嬉しそうに微笑んでくれた。
「どうしたの? コウの方から来てくれるなんて珍しいね」
膝の上の本を閉じて傍らに置き、アルビーは背筋を起こしてちょっと首を傾げている。
当然のように差し伸ばされた白い指先から、ついっと目を伏せた。
やっぱり、明日にすれば良かった。マリーに言われたからって、今日中に言わなきゃいけないことでもなかったのに……。
「ごめん、読書の邪魔をしてしまって。別に、明日でも良かったんだ。明日にする」
僕は早口で言い、ドアノブに手を掛けて後退る。
「かまわないよ。何?」
ベッドが微かに軋んで、アルビーが立ち上がる。
「マリーが、」
「うん」
パタンと、僕の背後でドアが閉められる。
「早めに言っておけって」
「うん、何?」
僕はもう後悔していた。マリーの名前を出すんじゃなかった。彼女のせいにしようとするなんて、僕は最低だ。
そうすることが当然のように、アルビーは僕の首筋にキスを落とす。僕の存在を確かめるように、手のひらを僕の輪郭に沿って滑らせる。こんな時、僕はいつも目を瞑る。暗闇に溶けた、アルビーにしか見つけられない僕になる。そして、不安で堪らなくなって、自分自身を取り戻すために、彼にしがみつくんだ。そっと薄目を開けて、天井に瞬く蛍光塗料の小さな星をひとつ、ひとつ、数えるんだ。
夜の闇のようなアルビーを抱き抱えて。
「イースター休暇、ショーンと旅行に行く」
天井の瞬きに視線を据えたまま、彼の耳許で囁いた。アルビーの手の動きが止まった。
「日帰りで?」
「十日間ほど」
「そんなに長くコウと離れているなんて、我慢できない」
ぎゅっと抱きすくめられた。どこに行くのも許さない。そう言われているような気がした。
「我慢できないと、またあそこに行くの? 僕の代わりを探しに」
違う。僕が、誰かの代わりだ。アルビーが本当に欲しいと思っている誰かの。
「たった十日間離れるだけで、アルビーは僕がいらなくなるの?」
アルビーの腕が緩んだ。両肩に、彼の手がかかる。
「コウは時々、本当に酷いことを平気で言うね」
深いため息と共に、アルビーは言った。
「おいで」
僕の手に指を絡めて、ベッドに誘う。
「マリーがいるのに?」
「彼女は気にしない」
「マリーは、」
「僕のベッドで、僕以外の誰の名前も呼んじゃ駄目だよ」
塞がれた唇がやっと自由になった時、僕は彼の背中から両の腕を離し、パタリとベッドカバーの上に落としていた。
「アルビー、行ってもいいよね?」
アルビーは僕を抱き締めたまま、応えなかった。
「いいよね?」
天井の星を見つめ、もう一度訊ねた。
「どこに行くの?」
「ストーンヘンジとその周辺の遺跡巡り。彼に話したんだろ? 夏至の日の儀式のこと」
僕を抱き締める腕に、更に力が籠っていた。
「……話した訳じゃない。尋ねたんだ。コウは、自分のことはちっとも話してくれないから」
「それで旅行に行こう、って話になったんだ。彼、あの儀式にすっかり興味を持ってしまって」
僕はショーンとの会話を思い出し、くすっと喉を震わせて笑った。
僕が行ったと言う、夏至の日の火の精霊の召喚の儀式は、どんなものなのか教えて欲しい。どうせなら、夏至の日に最大の力を得るように作られたストーンヘンジで再現してみせて欲しい。夏と違ってこの時期なら、観光客もいないだろうから、って。
全くの誤解も甚だしいのに。
「アルビーのせいだよ。きみが、彼に漏らしたからだよ」
今日の僕は少し変なのかもしれない。こんなこと、言えた義理じゃないのに。なぜだか少し、気が立っていたような気がする。いつだって僕の自由を奪い、僕を自分の自由にできると思っているアルビーに、僕は、腹が立っていたのだろうか?
「分かった」
アルビーは小さな声で承諾した。
ほら、彼はマリーの言うように焼きもちなんて焼いたりしない。僕とショーンは単なる友だちだって解っているもの。
「でも、きみがいない間、僕はずっときみのことを想っているって、忘れないで」
そう言ってアルビーは、ショーンにも誰にも絶対に見せられないような、鮮やかな花の印を一晩かけて僕の全身に刻みつけた。
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