霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

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Ⅱ.冬の静寂(しじま)

75 朝

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 閉じた瞼の上からちりちりと刺激する、柔らかな陽射しに眼が開いた。薄暗い室内に、窓辺のロールスクリーンが白く浮かび上がって見える。
 何時だ? 肘をついて頭を起こすと、横で眠っているアルビーの背中が眼に入った。

 朝陽を浴びた白い肩甲骨の上に、翼を広げる瑠璃色の鳥。静かな呼吸に合わせて羽ばたいている。腰から下はやはりシダに覆われていて。抜けるような白と緑の密林に思わず見とれた。

「おはよう。目が覚めたのなら、もう一回してもいい?」
 アルビーの手が、僕のうなじに掛かる。
「駄目」
「じゃあ、抱き締めるだけ」

 駄目を言う間もなく抱き寄せられた。否応なく、アルビーは脚を絡めてくる。
「コウ」
「何?」
 腕の中で身を固くしたまま呟いた。
「可愛い」
 アルビーの手のひらが、ゆるりと背中を滑る。緩んだ腕を押しやって、身を捩った。
「帰らないと。きっと、マリーが心配している」
「平気だよ。いつものことだもの」

 人の気も知らないで! 

 思わずむっしてと尖らせた僕の唇を、アルビーは人差し指で押し戻した。

「解ったよ。シャワーを浴びて来る。少し時間が掛かるよ。コウが意地悪だから」
 僕の頬に軽くキスを落として、アルビーはバスルームに向かってくれた。その間に、急いで衣服を身に着けた。立ち上がるのも、歩くのももどかしい。まさか、こんなに痛いものだなんて思わなかったんだ。それに、何て言うか……。

 とにかく早くこの場所を出たかった。

 アルビーを待っている間、その辺に散らばっているティッシュを拾ってごみ箱に捨てた。ぐしゃぐしゃのシーツも、取り敢えず簡単にだけど畳んだ。こんな有り様を、たとえ掃除の人にだって見られるのは嫌だった。



 アルビーがお腹が空いたと言うので、下のパブで朝食を食べた。まだ朝早いからか、他にお客さんはいない。ここの主人も、特に無駄話をする訳でもなく、皿を置いたらどこかへ引っ込んでくれてほっとした。

 アルビーはイングリッシュ・ブレックファーストをフルで注文し、僕はコーヒーだけを頼んだ。
「ちゃんと食べないと、て、いつもならきみの方が言うくせに」と、バターを塗った薄切りのトーストを一枚差し出されたので、僕は黙ってそれを受け取って一口齧った。アルビーが心配そうに僕を見ている。大きな、深緑の瞳で。僕は目を伏せてトーストを黙々と食べた。

「コウ」
 ちらりと視線を上げると、フォークに突き刺したマッシュルームを突きつけられた。アルビーが見ている。じっと僕を。口を開くと、そっとフォークを押し込まれた。
 ゆるりと微笑む彼を睨んで、咀嚼する。

 朝食を食べ終えると、彼は、上手く力が入らなくて歩き辛かった僕のために、タクシーを呼んでくれた。

 家までは、車で数分と掛からない距離だった。


 やっと自分の部屋に戻ってこれて、ベッドに潜り込み、頭まですっぽりと布団を被って包まった。全身が熱を持っているようにジンジンして、そのくせ頭はふわふわと定まらない。酷く疲れていた。躰をぎゅっと丸めて、縮こまって眠った。夢も見ることなく。


 目が覚めると、もう日が暮れていた。気怠くて、布団の中で丸まったまま動けなかった。ふと、イギリスに来たばかりの頃、彼と一緒に見に行った大英博物館の、アンモナイトを思い出した。くるりと丸まった貝の化石。僕もこのまま、布団に包まれたまま、化石になってしまえればいいのに。誰も知らない海の底で、ずっと眠っていられればいいのに。



 けたたましいノックの音。と、同時にドアが開く。マリーが、ずかずかと入って来る。いつものように。遠慮なんてしない。
 僕は仕方なく、のろのろと起き上がり、ベッドに腰掛ける。

「大丈夫? アルが心配してる、」

 マリーは僕の傍らに座り、若干眉根を寄せて僕を見た。同情的な視線で。僕が、勝手にそう思っただけかも知れないけれど。

 彼女の声を聞いた途端、ぼろぼろと涙が溢れていた。
「コウ……」
 僕の肩に、彼女の手がそっと添えられた。僕は、マリーにしがみつくように抱きついて、声をあげて泣き出した。どうしてだか、自分でも判らなかった。

「ごめん、マリー」

 どうして僕は彼女に謝るのだろう?

「僕は、何にもならなかったよ」

 そんなことで泣いている訳ではないと、それは、解っていたけれど。
 でも僕はマリーに謝らなければならない。そう思えてならなかったんだ。

 残酷で、身勝手な僕を許して、マリー。


 マリーは何も言わなかった。ただ、僕をしっかりと受け止めて、優しく背中を擦ってくれていた。



 



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