霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

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Ⅱ.冬の静寂(しじま)

70 打ち明け話

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「立てる? 日が落ち切ってしまうと、足元も覚束ないほどの暗闇に覆われてしまうよ。行こう」
 
 薄靄に覆われた空は、瞬く間に紺青に侵食されている。ちらりと目をやった小塚に被さっていた光の焔も、既に鎮火されたように何事もなく闇に呑まれかけている。安堵の吐息が突いて出た。

「ありがとう。もう平気」
 強く掴んでしまっていたアルビーの腕から手を外した。足の裏に自分の体重が戻ってくる。ちゃんと立つんだ。自分の脚で。

 何度か深呼吸を繰り返し、やっとアルビーに顔を向けた。心配そうに眉根をよせる彼を目にし、自分が何のためにここにいるのかを思い出した。

「ごめん」
「何に対して謝っているの?」
「ここにいること」
「やましいことなんだ?」

 僕に合わせていつもより格段ゆっくりと歩き出しながら、アルビーはくっくっと喉を鳴らして笑った。

「マリーに頼まれた?」

 僕は俯いたままアルビーの問いをやり過ごし、闇の中に溶けてしまいそうな地面を見つめていた。冬でも青々としたこの国特有の芝生も薄闇に呑まれ、夜の帳にかき消えるようだ。
 どこに向かっているのかも判らない迷宮のような闇に戸惑い、僕はアルビーのコートの袖をぎゅっと握っていた。アルビーは巧みに僕の手を袖から外し、握り締めてくれた。
 そして反対の手でスマートフォンを取り出し、足元を照らした。遊歩道に辿り着くと、遠く西の空の地平線に薄らと伸びる残照も林立する樹々の絡み合う枝に遮られ、辺りは暗闇の中に埋没していた。
 土を踏み締める僕たちの足音を追うように剥き出しの梢が吹きすさぶ風に揺れ、打ち鳴らされる枝音に意味もなく怯えた。


「バンシーが泣いているみたいだ」

 彼の手を握る指先に力が入る。風の音が女の人の咽び泣きのようだ。

「コウは意外に怖がりだね」

 アルビーは僕を振り返ってくすくす笑う。でも、僕の手をぎゅっと握っていてくれる彼の手は、とても温かい。

「コウ」

 強く握りしめてしまった右手に応えるように、アルビーが僕を呼んだ。

「あの場所で何があったの?」
「アルビーは、なぜここに来たの?」

 僕は逆に訊き返した。アルビーは応えてくれる。そんな気がしたから。そして、僕は応える訳にはいかない。これも確かなことだから。
 スマートフォンの朧な灯りに照らされる、彼の横顔を見上げた。
 迷っている。口にするか、どうかを。

「コウが、心に巣くっている苦痛を話してくれるなら、僕も話すよ」
「ずるいな」
「お互い様さ」

 会話はここで途絶えた。そのまま黙々と歩き続けた。ざわざわと打ち合う梢が、僕に決断を迫るようにどよめき続けている。




 道の向こうに見える外灯の仄かな煌めきに、ほっと息を吐いた。すぅっと強張っていた力が抜ける。

「ここからなら一人で帰れる?」

 はっとして、アルビーを見上げた。彼はまだ行くつもりなのだ。どこかへ。僕には言えない所へ。

 ……違う。決断を迫っているのだ。僕に話す気があるかどうか。本気で彼の行動を止める意志があるのか。

 ずっと握っていた彼の手を離し、両の拳を握り込んで、ぐっと、お腹に力を籠めた。

「去年の夏至の日、ここで、このハムステッド・ヒースの小塚で、火事があったの、知っているかな?」
「なんとなく。観光客の火の不始末で、樹が数本焼けたって、あれのことかな?」
「僕たちが燃やしたんだ。儀式が、なかなか上手くいかなくて。焔の調整をしくじったんだ」
「儀式……」

 こんな言い方、まるで黒魔術か何かみたいじゃないか。またアルビーに誤解される。

「儀式って、民俗学的な何か? ……そうか、だからサラマンダー。生贄として、あの人形サラマンダーを燃やして、その焔が辺りに燃え広がって危うく大火事になりかけたってことなんだね」

 ……何て答えれば正解? あたらずといえども遠からず?

「解るよ。コウは真面目だからね。四大精霊が研究テーマなんだってね。太古の召喚の儀式をなぞってみたかったんだね」

 アルビーの体温の高い手が、僕の頬を包み込む。

「そんなことを気に病んでいたんだ。良かった。僕はもっと酷いことを想像していたよ。きみが無事で良かったよ」

 ぎゅっと抱きすくめられ、こんな無茶苦茶な話を「そんなこと」で済ませてしまっていいのだろうか、と、僕はなんとももどかしい想いでいっぱいだった。

 小火ボヤ程度で済んだとはいえ、僕らはイギリスの自然保護区域の歴史ある墳墓を丸焼けにするところだったんだぞ。

 アルビーはいったいどんな想像をしていたっていうんだ?

 まぁいい。こんな程度で納得してくれたのなら、それでいい。その方が助かる。
 中らずと雖も遠からず。それは事実だけれど、真実ではない。アルビーであっても、真実は話す訳にはいかないのだから。それよりも……。


「アルビー、僕はちゃんと話したよ。きみの番だ」

 僕は気を取り直して彼から身体を離し、真っ直ぐに顔を上げて、外灯の光に透ける彼の深緑の瞳を見つめた。







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