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Ⅱ.冬の静寂(しじま)
61 絵本
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僕はこの書斎に入るのは初めてだ。スティーブの私室なので、ずっと遠慮していた。クリスマスに本人から、大学の課題に役立ちそうな類の本もあるかもしれない、自由に使ってもかまわないよ、と言ってもらえたのだけれど、さすがに主人の留守中に使わせてもらうのは気がひけた。
マリーが、机の上のスタンドライトを点けた。廊下から差し込む灯りに薄ぼんやりと沈んでいた部屋が、暖色の灯の中浮かび上がる。
天井まで届く重厚な本棚に壁一面を塞がれた書斎は、割りにこじんまりとした、落ち着いた部屋だった。
窓際にシンプルな書き物机と椅子、その横に肘掛け椅子と、おそらくアンティークのワイン・セラレットが置かれている。珍しい八角形で、綺麗に浮き出た木目が灯りに照らされ、艶やかに輝いている。
ここに来た目的を一瞬忘れ、見とれてしまっていた。間髪を入れず、呆れたようにため息を吐かれた。
「コウもパパと同じなの? 古いものが好きなのね。パパがいれば喜んで説明してくれたでしょうに。私じゃ何も知らないわよ」
言いながら、マリーは、ドサリと乱暴に肘掛け椅子に腰かける。
見ているだけでヒヤヒヤする。きっとその黄色の花模様の綸子織を張った椅子も、高価なアンティークに違いないのに。マリーにはどうでも良さそうだ。
僕は、傍らの机からそっと椅子を引き出し、彼女と少し間を開けて向かい合った。
肘掛け椅子に深く凭れて不機嫌そうな顔をしているマリーは、どこかスティーブに似ている。彼はいつもにこやかだったけれど。けれど、意志の強そうな瞳とか、理知的な額とか、頑固そうな顎のラインの与える印象が親子だな、と今更ながら思わずにはいられない。
僕は、この部屋の雰囲気に呑まれてしまっていた自分の心を引き締めて、ショーンとの会話を報告した。マリーは、きつい表情を緩めないままじっと聴いてくれていた。だが一通り僕が喋り終えると、
「やっぱりあんたって、ちっとも、何も解っていないのね」
と、冷めた声音で言い放った。
「あんたの指にあるその指輪は、ステディリングなの。アルはそのつもりで作ってあんたにあげたのよ」
「僕の同意も取らずに?」
「あれだけ露骨に態度に出しておいて、今更誤解だとか、あんたも大概な奴ね」
ショーンに指摘されたのと同じだ。さすがに絶句してしまい、言い訳出来ない。
「アルのマグカップ、分かるでしょ?」
唐突にマリーは話を変えた。なんだか泣き出したいのを我慢しているみたいに、唇をへの字に曲げて。
「あれは、私が彼にあげたものなの。もっとずっと子どもの頃にね」
アルビー専用のカメレオンの絵のついたカップの事だ。有名な、僕でも知っている絵本のモチーフの。
「アルは、パパやママの前では別人みたいないい子になって、カメレオンみたいねって。すごく意地悪なことを言って……」
声が震えている。いつも気丈なマリーが、囁くようにか細い声で喋っている。
「だって、アルは、誰とでも遊ぶの。私以外なら、誰とでも。そんな面、パパとママの前では絶対に見せないくせに」
眉間に皺を寄せ、マリーはぎゅっと目を瞑って唇を噛んだ。気持ちを落ち着けようと、大きく肩で呼吸している。僕は息を詰め、そんな彼女を見守るしかない。何て言えばいいのか判らなかった。
「コウは、あの絵本を知ってる?」
ゆっくりと目を開けたマリーに、頷き返した。
「自分だけの色を探すカメレオンの話だろ?」
「自分だけの色がどうしても見つからないのなら、もう一匹のカメレオンを見つけてって言ったわ」
「もう一匹の……」
僕は左手で、右手を握り締めていた。まさか、これが……。
「見つけて、連れて来てって。それが、コウ、あんただった。それなのに、あんたってば、気を持たせる素振りでアルを振り回すばっかりで……。挙句の果てに、こんな酷い仕打ちまでして!」
だんだんと恨みがましく澱んで行くマリーの声音に、身が竦んだ。もう半泣き状態で、愚痴とも罵りともつかない罵倒が、蛇口を捻ったままで止め方を忘れてしまったかのように流れ続ける。
でも、不思議と腹は立たなかった。彼女はこんなに僕に対して怒っているのに。無遠慮に罵られているのに。そんなことはどうでもよくて。
僕にはっきりと理解出来たのは、マリーは、こんなにもアルビーを愛しているってことだけだ。彼女は、自分の想いを成就させることよりも、アルビーを救いたいと思っている。
僕には未だに信じられないアルビーの知らない一面、どんな色に染まるのか想像もつかない、彼の、誰にも見つけることができない透き通った心を、マリーは、輪郭だけでも繋ぎ留めたいと思ったのだ。誰かの指先へ。
どういう巡り合わせでそうなったかは解らないけれど、その想いは僕の薬指へ注がれている。それが、彼女の僕への怒りの理由。本来の役目を果たさない僕への失望。
僕はどうすべきだったのか。これから、どうするべきなのか。今はまだ、判らないけれど……。
マリーの罵りは、いつの間にかすすり泣きに変わっていた。
僕は彼女に身を屈め、固く引き結んだまま小刻みに震えている唇に軽いキスを落とした。いつか部屋の前で、アルビーがしていたような。
マリーは驚いて目を瞠ったけれど、僕がにっと笑って見せると、彼女もまた、ちょっとはにかんだように、にっこりと笑ってくれた。
マリーが、机の上のスタンドライトを点けた。廊下から差し込む灯りに薄ぼんやりと沈んでいた部屋が、暖色の灯の中浮かび上がる。
天井まで届く重厚な本棚に壁一面を塞がれた書斎は、割りにこじんまりとした、落ち着いた部屋だった。
窓際にシンプルな書き物机と椅子、その横に肘掛け椅子と、おそらくアンティークのワイン・セラレットが置かれている。珍しい八角形で、綺麗に浮き出た木目が灯りに照らされ、艶やかに輝いている。
ここに来た目的を一瞬忘れ、見とれてしまっていた。間髪を入れず、呆れたようにため息を吐かれた。
「コウもパパと同じなの? 古いものが好きなのね。パパがいれば喜んで説明してくれたでしょうに。私じゃ何も知らないわよ」
言いながら、マリーは、ドサリと乱暴に肘掛け椅子に腰かける。
見ているだけでヒヤヒヤする。きっとその黄色の花模様の綸子織を張った椅子も、高価なアンティークに違いないのに。マリーにはどうでも良さそうだ。
僕は、傍らの机からそっと椅子を引き出し、彼女と少し間を開けて向かい合った。
肘掛け椅子に深く凭れて不機嫌そうな顔をしているマリーは、どこかスティーブに似ている。彼はいつもにこやかだったけれど。けれど、意志の強そうな瞳とか、理知的な額とか、頑固そうな顎のラインの与える印象が親子だな、と今更ながら思わずにはいられない。
僕は、この部屋の雰囲気に呑まれてしまっていた自分の心を引き締めて、ショーンとの会話を報告した。マリーは、きつい表情を緩めないままじっと聴いてくれていた。だが一通り僕が喋り終えると、
「やっぱりあんたって、ちっとも、何も解っていないのね」
と、冷めた声音で言い放った。
「あんたの指にあるその指輪は、ステディリングなの。アルはそのつもりで作ってあんたにあげたのよ」
「僕の同意も取らずに?」
「あれだけ露骨に態度に出しておいて、今更誤解だとか、あんたも大概な奴ね」
ショーンに指摘されたのと同じだ。さすがに絶句してしまい、言い訳出来ない。
「アルのマグカップ、分かるでしょ?」
唐突にマリーは話を変えた。なんだか泣き出したいのを我慢しているみたいに、唇をへの字に曲げて。
「あれは、私が彼にあげたものなの。もっとずっと子どもの頃にね」
アルビー専用のカメレオンの絵のついたカップの事だ。有名な、僕でも知っている絵本のモチーフの。
「アルは、パパやママの前では別人みたいないい子になって、カメレオンみたいねって。すごく意地悪なことを言って……」
声が震えている。いつも気丈なマリーが、囁くようにか細い声で喋っている。
「だって、アルは、誰とでも遊ぶの。私以外なら、誰とでも。そんな面、パパとママの前では絶対に見せないくせに」
眉間に皺を寄せ、マリーはぎゅっと目を瞑って唇を噛んだ。気持ちを落ち着けようと、大きく肩で呼吸している。僕は息を詰め、そんな彼女を見守るしかない。何て言えばいいのか判らなかった。
「コウは、あの絵本を知ってる?」
ゆっくりと目を開けたマリーに、頷き返した。
「自分だけの色を探すカメレオンの話だろ?」
「自分だけの色がどうしても見つからないのなら、もう一匹のカメレオンを見つけてって言ったわ」
「もう一匹の……」
僕は左手で、右手を握り締めていた。まさか、これが……。
「見つけて、連れて来てって。それが、コウ、あんただった。それなのに、あんたってば、気を持たせる素振りでアルを振り回すばっかりで……。挙句の果てに、こんな酷い仕打ちまでして!」
だんだんと恨みがましく澱んで行くマリーの声音に、身が竦んだ。もう半泣き状態で、愚痴とも罵りともつかない罵倒が、蛇口を捻ったままで止め方を忘れてしまったかのように流れ続ける。
でも、不思議と腹は立たなかった。彼女はこんなに僕に対して怒っているのに。無遠慮に罵られているのに。そんなことはどうでもよくて。
僕にはっきりと理解出来たのは、マリーは、こんなにもアルビーを愛しているってことだけだ。彼女は、自分の想いを成就させることよりも、アルビーを救いたいと思っている。
僕には未だに信じられないアルビーの知らない一面、どんな色に染まるのか想像もつかない、彼の、誰にも見つけることができない透き通った心を、マリーは、輪郭だけでも繋ぎ留めたいと思ったのだ。誰かの指先へ。
どういう巡り合わせでそうなったかは解らないけれど、その想いは僕の薬指へ注がれている。それが、彼女の僕への怒りの理由。本来の役目を果たさない僕への失望。
僕はどうすべきだったのか。これから、どうするべきなのか。今はまだ、判らないけれど……。
マリーの罵りは、いつの間にかすすり泣きに変わっていた。
僕は彼女に身を屈め、固く引き結んだまま小刻みに震えている唇に軽いキスを落とした。いつか部屋の前で、アルビーがしていたような。
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