36 / 193
Ⅱ.冬の静寂(しじま)
33 鮭フレークサンド
しおりを挟む
白い息を吐きながら寒さに身を強張らせて夜道を帰ってくると、マヨネーズとガーリックの焼ける香ばしい匂いが玄関にまで漂っていた。ドアを開けたとたん一気に緩む空気。温度のある匂い。思いきり吸いこんで、灯りの漏れるキッチンのドアに目を向ける。
何かお惣菜の温め直しでもしているのだろうかと、ひょっこりと覘いてみた。
アルビーが、「いいタイミングだね。食べる?」と、ちょいとホットサンドののった皿を持ちあげて僕にみせる。
何もなかったように誘ってくれる彼に対して、安堵と、そんな食べものなんかに釣られてなるものか、僕は怒っているんだぞ、という自尊心が瞬間、喧嘩していたのだが――。
あっけなく、食欲の前に負けた。お腹がぺこぺこだったのだ。
夕食は学食で食べたけれど、それから何時間も経っているんだ。夜食に、日本から送ってもらったカップ麺を食べようかどうしようかと、道々思案しながら戻ってきたところなのだ。
僕が何も言わなくても、アルビーはホットサンドを切り分けて皿に盛ってくれている。ふらふらと席につき、勧められるままに一つ摘まんだ。
「アルビー、これ……」
「パンにも合うだろ?」
結局こうなる運命なのだ。
僕の指の間で、サクサクの薄い食パンに挟まれたピンク色が、きらきらと存在を主張している。冷蔵庫の奥にそっと隠していたつもりの僕の鮭フレークが、ホットサンドの具にされていたのだ。ご丁寧にクリームチーズも塗ってあって、グレードがもう一段上がっている。
食べながらアルビーはコーヒーも淹れてくれた。いつもは何もしないのに。
「コウ、何か怒っている? 不満があるなら言わなきゃ分からないよ」
僕の前にマグカップを置く彼を、ぷっと膨れっ面をして上目遣いに見あげる。
こんなにキッチンを散らかしたって、絶対に自分じゃ片づけないくせに。洗い物だってしないくせに。そのくせ僕を赤ちゃんだって言う……。
僕は怒っているのだ。それなのに、宝石のような瞳に吸い込まれそうになる。魔法をかけられる。甘えたくなる。
慌てて目線を逸らした。この瞳に、僕は勝てはしないのだ。
「べつに何も……」
下を向いたまま口籠る。
「何?」
ついっと顔を寄せてきたアルビーの体温をふわりと感じて、飛び跳ねるように立ちあがっていた。
「ごちそうさま。シンクに置いておいてくれれば後で洗うから」
ギクシャクと、出しっぱなしのクリームチーズとコーヒーの粉だけ、冷蔵庫に片づけた。そしてまだ湯気の立っているマグカップを手にすると、アルビーと目を合わせないようにして部屋を出た。アルビーは、特に僕を引き留めたりもしなかった。
自室に戻ると、緊張が一気に解けてため息をついていた。僕は最低だ。アルビーに対して腹が立つのなら、彼が言うように、言えばいいのだ。
子ども扱いしないでって。
でもそれじゃあ、アルビーの大人扱いは、って考えると、それはそれで怖いものがあって。
アルビーの白いうなじ。綺麗な鎖骨。そこに浮かぶ赤い痕――。
頭に浮かぶ映像に、とっさに顔を逸らす自分がいる。それでも浮かんでくる妄想を黒のラッカーで塗り潰す。その匂いで頭がクラクラして、思考することを止めてしまう。そんな僕はきっとズルい。
だから赤ちゃんだって言われるのに。
揶揄われて、笑われている自分は惨めだけど、大人なアルビーを遠くから見ていたいのはどうしようもなくて。
赤ちゃんだって言われるのは嫌なのに、子どもをあやすように抱きしめてくれるアルビーの大地のような温かさはとても心地良くて。
僕は、そんな赤ちゃんでいたい自分を捨ててしまうこともできないんだ。
右手の薬指にいるとぼけた顔の銀色の蜥蜴を親指で撫でながら、問いかけてみた。
「ねぇ、僕はどうしたらいいんだろう?」
もちろん蜥蜴は、机に沿えつけられたクリップライトの光を跳ねるばかりで、何も答えてはくれなかった。
何かお惣菜の温め直しでもしているのだろうかと、ひょっこりと覘いてみた。
アルビーが、「いいタイミングだね。食べる?」と、ちょいとホットサンドののった皿を持ちあげて僕にみせる。
何もなかったように誘ってくれる彼に対して、安堵と、そんな食べものなんかに釣られてなるものか、僕は怒っているんだぞ、という自尊心が瞬間、喧嘩していたのだが――。
あっけなく、食欲の前に負けた。お腹がぺこぺこだったのだ。
夕食は学食で食べたけれど、それから何時間も経っているんだ。夜食に、日本から送ってもらったカップ麺を食べようかどうしようかと、道々思案しながら戻ってきたところなのだ。
僕が何も言わなくても、アルビーはホットサンドを切り分けて皿に盛ってくれている。ふらふらと席につき、勧められるままに一つ摘まんだ。
「アルビー、これ……」
「パンにも合うだろ?」
結局こうなる運命なのだ。
僕の指の間で、サクサクの薄い食パンに挟まれたピンク色が、きらきらと存在を主張している。冷蔵庫の奥にそっと隠していたつもりの僕の鮭フレークが、ホットサンドの具にされていたのだ。ご丁寧にクリームチーズも塗ってあって、グレードがもう一段上がっている。
食べながらアルビーはコーヒーも淹れてくれた。いつもは何もしないのに。
「コウ、何か怒っている? 不満があるなら言わなきゃ分からないよ」
僕の前にマグカップを置く彼を、ぷっと膨れっ面をして上目遣いに見あげる。
こんなにキッチンを散らかしたって、絶対に自分じゃ片づけないくせに。洗い物だってしないくせに。そのくせ僕を赤ちゃんだって言う……。
僕は怒っているのだ。それなのに、宝石のような瞳に吸い込まれそうになる。魔法をかけられる。甘えたくなる。
慌てて目線を逸らした。この瞳に、僕は勝てはしないのだ。
「べつに何も……」
下を向いたまま口籠る。
「何?」
ついっと顔を寄せてきたアルビーの体温をふわりと感じて、飛び跳ねるように立ちあがっていた。
「ごちそうさま。シンクに置いておいてくれれば後で洗うから」
ギクシャクと、出しっぱなしのクリームチーズとコーヒーの粉だけ、冷蔵庫に片づけた。そしてまだ湯気の立っているマグカップを手にすると、アルビーと目を合わせないようにして部屋を出た。アルビーは、特に僕を引き留めたりもしなかった。
自室に戻ると、緊張が一気に解けてため息をついていた。僕は最低だ。アルビーに対して腹が立つのなら、彼が言うように、言えばいいのだ。
子ども扱いしないでって。
でもそれじゃあ、アルビーの大人扱いは、って考えると、それはそれで怖いものがあって。
アルビーの白いうなじ。綺麗な鎖骨。そこに浮かぶ赤い痕――。
頭に浮かぶ映像に、とっさに顔を逸らす自分がいる。それでも浮かんでくる妄想を黒のラッカーで塗り潰す。その匂いで頭がクラクラして、思考することを止めてしまう。そんな僕はきっとズルい。
だから赤ちゃんだって言われるのに。
揶揄われて、笑われている自分は惨めだけど、大人なアルビーを遠くから見ていたいのはどうしようもなくて。
赤ちゃんだって言われるのは嫌なのに、子どもをあやすように抱きしめてくれるアルビーの大地のような温かさはとても心地良くて。
僕は、そんな赤ちゃんでいたい自分を捨ててしまうこともできないんだ。
右手の薬指にいるとぼけた顔の銀色の蜥蜴を親指で撫でながら、問いかけてみた。
「ねぇ、僕はどうしたらいいんだろう?」
もちろん蜥蜴は、机に沿えつけられたクリップライトの光を跳ねるばかりで、何も答えてはくれなかった。
0
お気に入りに追加
30
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
美人に告白されたがまたいつもの嫌がらせかと思ったので適当にOKした
亜桜黄身
BL
俺の学校では俺に付き合ってほしいと言う罰ゲームが流行ってる。
カースト底辺の卑屈くんがカースト頂点の強気ド美人敬語攻めと付き合う話。
(悪役モブ♀が出てきます)
(他サイトに2021年〜掲載済)


後輩に嫌われたと思った先輩と その先輩から突然ブロックされた後輩との、その後の話し…
まゆゆ
BL
澄 真広 (スミ マヒロ) は、高校三年の卒業式の日から。
5年に渡って拗らせた恋を抱えていた。
相手は、後輩の久元 朱 (クモト シュウ) 5年前の卒業式の日、想いを告げるか迷いながら待って居たが、シュウは現れず。振られたと思い込む。
一方で、シュウは、澄が急に自分をブロックしてきた事にショックを受ける。
唯一自分を、励ましてくれた先輩からのブロックを時折思い出しては、辛くなっていた。
それは、澄も同じであの日、来てくれたら今とは違っていたはずで仮に振られたとしても、ここまで拗らせることもなかったと考えていた。
そんな5年後の今、シュウは住み込み先で失敗して追い出された途方に暮れていた。
そこへ社会人となっていた澄と再会する。
果たして5年越しの恋は、動き出すのか?
表紙のイラストは、Daysさんで作らせていただきました。
某国の皇子、冒険者となる
くー
BL
俺が転生したのは、とある帝国という国の皇子だった。
転生してから10年、19歳になった俺は、兄の反対を無視して従者とともに城を抜け出すことにした。
俺の本当の望み、冒険者になる夢を叶えるために……
異世界転生主人公がみんなから愛され、冒険を繰り広げ、成長していく物語です。
主人公は魔法使いとして、仲間と力をあわせて魔物や敵と戦います。
※ BL要素は控えめです。
2020年1月30日(木)完結しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる