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Ⅱ.冬の静寂(しじま)
32 おにぎり
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「最近おかかおにぎりばっかりじゃない。私はサーモンのが好きなのに!」
マリーが唇を尖らせて僕を睨む。
「べつに嫌なら食べなくたっていいんだよ」
素っ気なく応えて、手の中のご飯にかつお節を加えてぎゅっと握る。
僕は怒っているんだ。
でも面と向かって文句を言えるようなことじゃない。だからこれは、僕なりのささやかな復讐だ。
イギリスは鮭が美味しい。鮭だけは、間違いなく日本で食べるよりも美味しい。マリーも、アルビーも、そしておそらく英国人は鮭好きだ。でも、日本人のように魚好きっていうわけでもないようで、スーパーで売られている魚の種類はびっくりするほど少ない。その中で、鮭だけはどこででも手に入る有難い魚なのだ。
僕はこの鮭の切り身を買ってきて、鮭フレークを手作りしている。軽く茹でた鮭をほぐして骨と皮を取り除き、ハーブソルトと黒コショウ、細かく砕いたニンニクフレーク、それに白ワインを加えてオリーブオイルで炒る。
本当は和風の鮭フレークにしたかったけれど、二人が喜ぶかと思って、あえて洋風レシピを選んでみた。
日本にいるときは、鮭フレークが自分で作れるなんて思ってもみなかったけれど、やってみると意外に簡単だ。僕は白ゴマ入りの普通の鮭フレークの方が好きだけどね。バジル風味もたまにならいいって感じで。
とはいえ狙い通り、この自家製鮭フレークのおにぎりは、二人にとても好評だった。
でも当分作ってなんてやるもんか!
本当は、前に作ったフレークがまだたっぷり残っているけれど、冷蔵庫の奥に隠している。僕の朝ご飯に振りかけて、全部食べ切ってやるって決めたんだ。
取り付く島のない僕を睨みながら、マリーはますます膨れっ面だ。雨あられと文句を浴びせかけてくる。僕は意識のシャッターを下ろす。そうすると、マリーの声はもう言葉じゃなくて鳥の声だ。意識しないと聴きとることなんてできないもの。
なんだよ、おにぎりの具くらいで。アルビーは文句なんて言わないのに!
――文句どころか、何も言わない。
いつも空っぽのタッパがシンクに置いてあるだけだ。朝ご飯も一緒に食べなくなって、朝のこのおにぎりができあがると、それを持ってすぐさま大学へ行ってしまう。もうほとんど「おはよう」以外の会話をしていない。
この繰り返しの毎日に、ほっとするような気持ちと、逆に無視されているような腹立たしさ、キリキリと胃を捩じるようなやるせなさが練りこまれマーブル模様をなしている。
捩じれてぐにゃぐにゃな僕は、このわずかな「おはよう」の隙間ですら、まともに顔を上げることができない。
あれから僕は、努めてアルビーのことを考えないようにしている。そのためにも、今まで以上に講義に積極的に取り組んだ。
ボイスレコーダーで講義やディスカッションを録音して、聞き逃していた箇所や、その場で理解できなかった箇所を集中して聴き直す。それでも解らないところは、マリーに尋ねて……。鮭おにぎりは作らないけれど、お祖母ちゃんが送ってくれた苺味のポッキーをさし出して、「教えて」と頼むと、彼女はよほど忙しくしていない限り、つきあってくれる。
マリーに対してだって、腹立ちが収まったわけではないけれど……。
背に腹はかえられない。
クラスで若干浮いていた僕が、やっと皆に馴染んで授業以外でも雑談できるようになってきたんだ。もうこれ以上失敗したくない。友だちだってできるかもしれないんだ。
それに僕は、この国で普通に喋れる相手がマリーとアルビーしかいないのが問題だって気づいたんだ。だから、必要以上にアルビーのことばかり考えてしまうんだって。考えたって無駄なのに。僕は彼にとってお話にもならないお子さまで、彼に対する同情も心配も、鼻で笑われてしまうようなものに過ぎないのに。
ほんのわずかな衣擦れの音や、ふわりと漂う残り香、ドアの軋む音にさえアルビーを意識して神経を逆立てている――。そんな自分が、ほとほと嫌になっていたんだ。
マリーが唇を尖らせて僕を睨む。
「べつに嫌なら食べなくたっていいんだよ」
素っ気なく応えて、手の中のご飯にかつお節を加えてぎゅっと握る。
僕は怒っているんだ。
でも面と向かって文句を言えるようなことじゃない。だからこれは、僕なりのささやかな復讐だ。
イギリスは鮭が美味しい。鮭だけは、間違いなく日本で食べるよりも美味しい。マリーも、アルビーも、そしておそらく英国人は鮭好きだ。でも、日本人のように魚好きっていうわけでもないようで、スーパーで売られている魚の種類はびっくりするほど少ない。その中で、鮭だけはどこででも手に入る有難い魚なのだ。
僕はこの鮭の切り身を買ってきて、鮭フレークを手作りしている。軽く茹でた鮭をほぐして骨と皮を取り除き、ハーブソルトと黒コショウ、細かく砕いたニンニクフレーク、それに白ワインを加えてオリーブオイルで炒る。
本当は和風の鮭フレークにしたかったけれど、二人が喜ぶかと思って、あえて洋風レシピを選んでみた。
日本にいるときは、鮭フレークが自分で作れるなんて思ってもみなかったけれど、やってみると意外に簡単だ。僕は白ゴマ入りの普通の鮭フレークの方が好きだけどね。バジル風味もたまにならいいって感じで。
とはいえ狙い通り、この自家製鮭フレークのおにぎりは、二人にとても好評だった。
でも当分作ってなんてやるもんか!
本当は、前に作ったフレークがまだたっぷり残っているけれど、冷蔵庫の奥に隠している。僕の朝ご飯に振りかけて、全部食べ切ってやるって決めたんだ。
取り付く島のない僕を睨みながら、マリーはますます膨れっ面だ。雨あられと文句を浴びせかけてくる。僕は意識のシャッターを下ろす。そうすると、マリーの声はもう言葉じゃなくて鳥の声だ。意識しないと聴きとることなんてできないもの。
なんだよ、おにぎりの具くらいで。アルビーは文句なんて言わないのに!
――文句どころか、何も言わない。
いつも空っぽのタッパがシンクに置いてあるだけだ。朝ご飯も一緒に食べなくなって、朝のこのおにぎりができあがると、それを持ってすぐさま大学へ行ってしまう。もうほとんど「おはよう」以外の会話をしていない。
この繰り返しの毎日に、ほっとするような気持ちと、逆に無視されているような腹立たしさ、キリキリと胃を捩じるようなやるせなさが練りこまれマーブル模様をなしている。
捩じれてぐにゃぐにゃな僕は、このわずかな「おはよう」の隙間ですら、まともに顔を上げることができない。
あれから僕は、努めてアルビーのことを考えないようにしている。そのためにも、今まで以上に講義に積極的に取り組んだ。
ボイスレコーダーで講義やディスカッションを録音して、聞き逃していた箇所や、その場で理解できなかった箇所を集中して聴き直す。それでも解らないところは、マリーに尋ねて……。鮭おにぎりは作らないけれど、お祖母ちゃんが送ってくれた苺味のポッキーをさし出して、「教えて」と頼むと、彼女はよほど忙しくしていない限り、つきあってくれる。
マリーに対してだって、腹立ちが収まったわけではないけれど……。
背に腹はかえられない。
クラスで若干浮いていた僕が、やっと皆に馴染んで授業以外でも雑談できるようになってきたんだ。もうこれ以上失敗したくない。友だちだってできるかもしれないんだ。
それに僕は、この国で普通に喋れる相手がマリーとアルビーしかいないのが問題だって気づいたんだ。だから、必要以上にアルビーのことばかり考えてしまうんだって。考えたって無駄なのに。僕は彼にとってお話にもならないお子さまで、彼に対する同情も心配も、鼻で笑われてしまうようなものに過ぎないのに。
ほんのわずかな衣擦れの音や、ふわりと漂う残り香、ドアの軋む音にさえアルビーを意識して神経を逆立てている――。そんな自分が、ほとほと嫌になっていたんだ。
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