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Ⅱ.冬の静寂(しじま)
30 アビゲイル
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アビゲイル・アスターは、ビスクドールを作る工房の名前だ。でもそれだけじゃない。この工房を一躍世界に知らしめた人形の名前でもある。
それが、この家に飾っている人形アビゲイル。
そしてそのモデルとなった人形作家の妻、アビゲイル・アスターの名前でもあった。
彼女は世間ではこう呼ばれていたそうだ。森の瞳の白雪姫、と。
湖水地方の片田舎に工房をかまえ、ひきこもるようにして人形を作っていた作家が恋した相手が、当時の社交界の花アビゲイル・アスターだった。作家が彼女を娶ることが決まった時には誰もが驚愕した。その年齢差に、そして階級差に。類まれな美しさで周囲を魅了しようと、彼女は一介のファッション・モデルにすぎず、名家の出身である彼には釣り合わないと誰もが考えたのだ。人形作家という肩書にしろ、職業を持つ必要のない彼の道楽であると考えられていたのだから。
上手くいくはずがないという周囲の思惑をよそに、二人は仲睦まじく幸せに暮らしていた。華やかな世界から身を引き、主婦として働く彼女に誰もが驚きを隠せなかった。
ちょっと調べるだけで、こんなに詳しい記事がボロボロ出てくるなんて……。
僕はパソコン画面の細かな文字列から顔をあげて息をついた。もっとちゃんと調べておけば良かった。そうすればこんな苦い思いを味わうこともなかったのに。あの時は、赤毛の人形のことで頭がいっぱいになって、そこで思考が止まってしまっていたんだ。
アルビーがあの人形に似ているわけだよ――。彼はお母さんにそっくりだもの。この、アビゲイル・アスターに。
画面上に並ぶ沢山の画像。三十年も昔のものとは思えない。洗練された広告画像の中の彼女は、嫋やかで、儚く、美しい。まさに白雪姫だ。
雪のように白く、血のように赤く麗しい唇をもち、黒檀の窓枠のように黒い髪をした少女のような女性。
「アルビーが女の子じゃなくて良かった」
こんな人を目の前にしたら、誰だってすべてを捧げて跪きたくなるに違いない、そんな魔力が写真の中から感じられるもの。
でも男か女かなんて関係なく、アルビーにもそんな魔力があるのかもしれない。僕の頭の中はいつも彼でいっぱいで、どんなにそれらしい理由をつけたところで、目を逸らすことなんてできやしない。
僕はやっぱりアルビーを見ていたい。
人形のように綺麗に整った彼の顔じゃなくて。彼の緑の瞳のその奥を、地中深くから湧きでてくる地下水のような、澄んだ彼の泉を覗きこんでみたいと思うんだ。
右手の薬指にいる銀の蜥蜴を、癖のように反対の手の指で撫でていた。くるり、くるりと回すたびに、昨夜の恥ずかしい記憶が鮮やかに蘇る。
泣いている僕をアルビーは子どもをあやすように抱きしめて、背中をとんとんと叩いてくれていた。
その柔らかな振動はとても心地良く僕を慰めてくれたのに、なぜか、なぜだか判らないけれど、僕の記憶の底に亀裂をいれ穴を開けたのだ。
アルビーに対する後悔や申し訳なさに、今まで犯してきた様々な過ちの記憶が混じりあい、怒涛のごとく流れだして収集がつかなくなっていた。僕は悔恨の海に溺れ、息もできないまま自分を忘れ、アルビーを忘れた。
そして、次に目を開けた時にはもう朝だったんだ。僕はアルビーに膝枕していたはずなのに、いつの間にかアルビーに膝枕されて眠っていた。
恥の上塗りとはこのことか!
アルビーはすごく不自然な恰好でソファーの背もたれに頭をのせていて、それでもぐっすりと眠っていた。
彼の愛用のクッションをラジエーターの前からとってきてソファーの肘掛けにもたせ、彼の頭を支えて半身を横たえさせた。それでも全然眼を覚ます気配さえなくて。本当に疲れているんだな、って僕はますます申し訳なく思ってしまった。
こんな反芻をしていると、どんどん落ちこんでしまって何もやる気が起きなくなる。
もう一度画面に視線をすえなおし、アビゲイルの記事の検索を続けた。彼女のお葬式の記事。彼が話してくれた痛ましい事故が起こった真の理由。そして、彼の父親アーノルド・アイスバーグの真意を探して――。
それが、この家に飾っている人形アビゲイル。
そしてそのモデルとなった人形作家の妻、アビゲイル・アスターの名前でもあった。
彼女は世間ではこう呼ばれていたそうだ。森の瞳の白雪姫、と。
湖水地方の片田舎に工房をかまえ、ひきこもるようにして人形を作っていた作家が恋した相手が、当時の社交界の花アビゲイル・アスターだった。作家が彼女を娶ることが決まった時には誰もが驚愕した。その年齢差に、そして階級差に。類まれな美しさで周囲を魅了しようと、彼女は一介のファッション・モデルにすぎず、名家の出身である彼には釣り合わないと誰もが考えたのだ。人形作家という肩書にしろ、職業を持つ必要のない彼の道楽であると考えられていたのだから。
上手くいくはずがないという周囲の思惑をよそに、二人は仲睦まじく幸せに暮らしていた。華やかな世界から身を引き、主婦として働く彼女に誰もが驚きを隠せなかった。
ちょっと調べるだけで、こんなに詳しい記事がボロボロ出てくるなんて……。
僕はパソコン画面の細かな文字列から顔をあげて息をついた。もっとちゃんと調べておけば良かった。そうすればこんな苦い思いを味わうこともなかったのに。あの時は、赤毛の人形のことで頭がいっぱいになって、そこで思考が止まってしまっていたんだ。
アルビーがあの人形に似ているわけだよ――。彼はお母さんにそっくりだもの。この、アビゲイル・アスターに。
画面上に並ぶ沢山の画像。三十年も昔のものとは思えない。洗練された広告画像の中の彼女は、嫋やかで、儚く、美しい。まさに白雪姫だ。
雪のように白く、血のように赤く麗しい唇をもち、黒檀の窓枠のように黒い髪をした少女のような女性。
「アルビーが女の子じゃなくて良かった」
こんな人を目の前にしたら、誰だってすべてを捧げて跪きたくなるに違いない、そんな魔力が写真の中から感じられるもの。
でも男か女かなんて関係なく、アルビーにもそんな魔力があるのかもしれない。僕の頭の中はいつも彼でいっぱいで、どんなにそれらしい理由をつけたところで、目を逸らすことなんてできやしない。
僕はやっぱりアルビーを見ていたい。
人形のように綺麗に整った彼の顔じゃなくて。彼の緑の瞳のその奥を、地中深くから湧きでてくる地下水のような、澄んだ彼の泉を覗きこんでみたいと思うんだ。
右手の薬指にいる銀の蜥蜴を、癖のように反対の手の指で撫でていた。くるり、くるりと回すたびに、昨夜の恥ずかしい記憶が鮮やかに蘇る。
泣いている僕をアルビーは子どもをあやすように抱きしめて、背中をとんとんと叩いてくれていた。
その柔らかな振動はとても心地良く僕を慰めてくれたのに、なぜか、なぜだか判らないけれど、僕の記憶の底に亀裂をいれ穴を開けたのだ。
アルビーに対する後悔や申し訳なさに、今まで犯してきた様々な過ちの記憶が混じりあい、怒涛のごとく流れだして収集がつかなくなっていた。僕は悔恨の海に溺れ、息もできないまま自分を忘れ、アルビーを忘れた。
そして、次に目を開けた時にはもう朝だったんだ。僕はアルビーに膝枕していたはずなのに、いつの間にかアルビーに膝枕されて眠っていた。
恥の上塗りとはこのことか!
アルビーはすごく不自然な恰好でソファーの背もたれに頭をのせていて、それでもぐっすりと眠っていた。
彼の愛用のクッションをラジエーターの前からとってきてソファーの肘掛けにもたせ、彼の頭を支えて半身を横たえさせた。それでも全然眼を覚ます気配さえなくて。本当に疲れているんだな、って僕はますます申し訳なく思ってしまった。
こんな反芻をしていると、どんどん落ちこんでしまって何もやる気が起きなくなる。
もう一度画面に視線をすえなおし、アビゲイルの記事の検索を続けた。彼女のお葬式の記事。彼が話してくれた痛ましい事故が起こった真の理由。そして、彼の父親アーノルド・アイスバーグの真意を探して――。
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