霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

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Ⅱ.冬の静寂(しじま)

25 お弁当2

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 いつもよりも早い時間に帰宅した。嬉しいことがあったから。
 でも、家に灯りはついていなかった。アルビーもマリーもいないなんてがっかりだ。話を聴いて欲しかったのに。


 僕は今日のディスカッションの授業で、いつもよりもずっと発言できたんだ。議論は白熱したし、「いい質問ですね」と先生にも言ってもらえた。
 すごく嬉しくて舞いあがって、それから冷静になって気がついた。
 普段のマリーやアルビーとの会話。
 マリーはひと言ひと言に突っこんで、いろんなことを訊いてくる。アルビーにしても、こんなことを言ったら相手がどう想うとか、そんな遠慮なんてまるでない。
 だから僕はこの家に来てからというもの、常に身構えていたかもしれない。次はなにを訊かれるだろう? こんなことを言ったら、どんなことを尋ね返されるだろう、って。
 それが役に立っていたのだ。自分でも信じられないことに。

 意見を発表する前に、返ってくる質問を予測する。そのためのシミュレーションをしておく。議論の流れる方向を、いくつもいくつも考えて。
 その成果なのか、アルビーみたいに厳しい反対意見をパンッと言われても、以前みたいに動揺したりしなかった。

 今まで上手く発言できなかったせいで、やる気がないって思われていたのだと、僕は三か月目にして気づいたんだ。ここでは自分の意見を言わないって、関心がない、やる気がないのと同じにみられる。
 マリーが言っていた意味も、たぶんそういうこと。

 関心を示す。歩みよる。ちゃんと相手に伝わるように。
 
 日本にいる時みたいに、みんなと違うことを言ってしまったり、やってしまったりすることを怖れなくてもいいんだ。違って当たり前だもの。この国で、僕は異邦人なんだ。
 マリーもアルビーも、違うからこそ訊ねてくれる。僕のことを知りたいと言ってくれる。



 窓から見える庭には、もうとっぷりと夜の帳が降りていた。シンクの前にぼんやりつっ立ったまま、時計に眼をやった。
 一杯分の水を測ってお湯を沸かす。静まりかえったキッチンに一人でいるのが、堪らなく淋しかった。今までずっと、あのお喋りなマリーがいないとほっとしていたのに。

 コーヒーを淹れ、飲みながら洗い物をした。シンクに空のタッパが置いてあったから、アルビー、食べてくれたんだな、ってちょっと嬉しかった。

 片づけ終わってからカップを手に一休みすると、テーブルの上の僕の残したメモに、「おいしかった。ありがとう」と綴ってあった。そして、「私のも作って」とも。

 アルビー、マリーに分けてあげたのかな? 横でふくれっ面をしているマリーが目に浮かぶようだよ。


 つい口許をにやつかせながら、久しぶりにのんびりとした気分でコーヒーを口に運んでいた。




 いつしか僕はキッチンにつっ伏して眠っていたみたいだ。
 アルビーも、マリーもなかなか戻ってこなくて、キッチンは静かすぎて。時計の音がやけにコチコチと耳についていた。記憶にあるのはそんなことだけ。
 
 寝ぼけ眼で辺りを見回しても、やはり誰もいない。がっかりして立ちあがると、背中からぱさりと青灰色の上着が落ちた。アルビーのものだ。

 帰ってるんだ。

 僕はその上着を掴むと急いで階段を駆けあがった。



「アルビー」

 何度かノックしたけれど返事はない。また出かけたのか、それとももう寝てるのか――。夜中ってほどの時間でもないけど、休んでいたら悪いから、上着をドアノブにかけて戸口から離れた。

 行きかけたとき、カチャッとドアを開ける音がして、マリーが部屋から顔をだす。

「アルはいないわよ」
 僕は頷いた。
「ねぇ、あれ」
「お弁当?」
 マリーのねだるような瞳が肯定する。
「アルだけひいきするなんて、ズルいじゃない!」
 彼女は拗ねて唇を尖らせている。
「だってマリー、朝食を食べないじゃないか」
「アルはお昼に食べてたわよ!」

 アルビー、お昼まで起きてこなかったのか……。

 疲れているのかな? 論文、大変なのかな? 

 僕は彼のことをあまりに知らない。

「コウ!」

 一瞬上の空になってしまった僕を咎めるような、マリーの高い声が響く。

「うん、弁当ね。作るよ、あんなものでいいのなら。おやすみ、マリー」

 マリーには生返事をして、僕はもやもやとした気分で自室に戻っていった。

 アルビーやマリーが、さりげなく僕にディスカッションの仕方を教えてくれていたように、僕も、僕にできることで二人にお礼がしたい。

 僕は突然、そんなことを思いたっていた。



 

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