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Ⅰ.秋の始まり
21 ハムステッド・ヒース3
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僕はまたアルビーを苛立たせるようなことをしてしまったのだろうか? 自分でも気づかないうちに。彼はどうしてそんなに、あの人形のことが気になるんだろう?
「ごめん、アルビー。あの赤毛の人形はもうないんだ。友人が壊してしまったから」
本当は、壊したのではなくて燃やした。だから、もうこの世に存在しない。
案の定アルビーはショックを受けたようで、綺麗な顔を凍りつかせている。
四体セットのうちのひとつが永遠に欠けてしまったのだから、その反応は推して知るべしというものだ。
「そう」と小さく吐息を漏らしたアルビーの横で、マリーが怪訝そうに僕と彼の顔を見比べている。自分だけが蚊帳の外なのが気に入らないみたいだ。でもアルビーは彼女に説明なんてしない。おかまいなしで話し続けた。
「だけど僕は、きみに人形のことを訊いたんじゃないよ。民俗学を選んだのはその友人の影響なのかって訊ねただけだ」
彼には僕を見逃してくれる気はないらしい。僕は深く息をついていた。もう本当にやめて欲しい。この場から逃げだしてしまいたい。
眼下に広がるロンドンの街並みが霧に霞んでぼやけてみえる。しっとりと肌に触れる冷たい空気に、心までが冷え込んでいく。
アルビーは――。
僕には、彼を真っ直ぐに見つめる勇気なんてない。
「……そうだよ。友人の影響。彼のためにこの専攻分野に決めたんだ。一緒にこの世界の不思議に挑もうって約束したから」
「それは日本にいたときに?」
僕は観念して頷いた。アルビーは僕が答えるまでこの話を止めない。それが判ったから。
「彼は日本人?」
こんなにしつこく彼の話を知りたがる理由、そっちの方を僕が知りたい。アルビーだって、いつもはこんなことないのに。やっぱり、さっきの僕の発言を怒っているんだ。――あんな誤解されるような言い方をするんじゃなかった。でも、もう遅い。今さら言い繕いなんてできっこない。
「違う。日本育ちで英語はからきしダメな奴だったけど、生まれは英国なんだ。先祖代々英国だって。先祖の縁の地はケンブリッジだって言ってたんだ。彼が生まれ故郷に帰りたがったから僕は留学を決めた」
「友人のために?」
僕は黙って頷いた。
触れて欲しくない――。
声が震えていた。こうして言葉にして口にだすだけで、涙が零れ落ちそうだ。
「友人のために、こんな大きな人生の選択を決めたの?」
アルビーの口調は淡々としている。話の途中で彼はマリーに目配せでもしたのか、いつの間にか彼女は席を外してくれていた。
彼が僕と二人で話したいって察したみたいだ。僕に対しては空気を読んだりしないくせに。アルビーが相手だと違うんだ。
僕は泣きだしてしまいそうな、この感情を我慢するだけで必死なのに。そんな僕には気づきもしないくせに。
「ごめん」
なに?
僕はようやくアルビーをちらりと見た。彼はこの丘の向こうを、ロンドンの街並みよりも、もっとずっと遠くを眺めているような瞳をして空を見ていた。
「事情も知らないのに、きみに酷いことを言った」
その遠くを見ていた瞳が、すっと僕を映す。静かな染みいるような優しさを湛えて。
「きみとその友人の間になにがあったのか知らないのに、あんなふうに言うべきじゃなかった」
堰を切った涙が溢れだして、止まらなくなった。
アルビーのせいだ。
アルビーは泣きじゃくる僕の頭に腕を回して、自分の肩に抱き寄せてくれた。そして、僕が泣き止むまでずっと、そのまま、そうしてくれていたんだ。
「ごめん、アルビー。あの赤毛の人形はもうないんだ。友人が壊してしまったから」
本当は、壊したのではなくて燃やした。だから、もうこの世に存在しない。
案の定アルビーはショックを受けたようで、綺麗な顔を凍りつかせている。
四体セットのうちのひとつが永遠に欠けてしまったのだから、その反応は推して知るべしというものだ。
「そう」と小さく吐息を漏らしたアルビーの横で、マリーが怪訝そうに僕と彼の顔を見比べている。自分だけが蚊帳の外なのが気に入らないみたいだ。でもアルビーは彼女に説明なんてしない。おかまいなしで話し続けた。
「だけど僕は、きみに人形のことを訊いたんじゃないよ。民俗学を選んだのはその友人の影響なのかって訊ねただけだ」
彼には僕を見逃してくれる気はないらしい。僕は深く息をついていた。もう本当にやめて欲しい。この場から逃げだしてしまいたい。
眼下に広がるロンドンの街並みが霧に霞んでぼやけてみえる。しっとりと肌に触れる冷たい空気に、心までが冷え込んでいく。
アルビーは――。
僕には、彼を真っ直ぐに見つめる勇気なんてない。
「……そうだよ。友人の影響。彼のためにこの専攻分野に決めたんだ。一緒にこの世界の不思議に挑もうって約束したから」
「それは日本にいたときに?」
僕は観念して頷いた。アルビーは僕が答えるまでこの話を止めない。それが判ったから。
「彼は日本人?」
こんなにしつこく彼の話を知りたがる理由、そっちの方を僕が知りたい。アルビーだって、いつもはこんなことないのに。やっぱり、さっきの僕の発言を怒っているんだ。――あんな誤解されるような言い方をするんじゃなかった。でも、もう遅い。今さら言い繕いなんてできっこない。
「違う。日本育ちで英語はからきしダメな奴だったけど、生まれは英国なんだ。先祖代々英国だって。先祖の縁の地はケンブリッジだって言ってたんだ。彼が生まれ故郷に帰りたがったから僕は留学を決めた」
「友人のために?」
僕は黙って頷いた。
触れて欲しくない――。
声が震えていた。こうして言葉にして口にだすだけで、涙が零れ落ちそうだ。
「友人のために、こんな大きな人生の選択を決めたの?」
アルビーの口調は淡々としている。話の途中で彼はマリーに目配せでもしたのか、いつの間にか彼女は席を外してくれていた。
彼が僕と二人で話したいって察したみたいだ。僕に対しては空気を読んだりしないくせに。アルビーが相手だと違うんだ。
僕は泣きだしてしまいそうな、この感情を我慢するだけで必死なのに。そんな僕には気づきもしないくせに。
「ごめん」
なに?
僕はようやくアルビーをちらりと見た。彼はこの丘の向こうを、ロンドンの街並みよりも、もっとずっと遠くを眺めているような瞳をして空を見ていた。
「事情も知らないのに、きみに酷いことを言った」
その遠くを見ていた瞳が、すっと僕を映す。静かな染みいるような優しさを湛えて。
「きみとその友人の間になにがあったのか知らないのに、あんなふうに言うべきじゃなかった」
堰を切った涙が溢れだして、止まらなくなった。
アルビーのせいだ。
アルビーは泣きじゃくる僕の頭に腕を回して、自分の肩に抱き寄せてくれた。そして、僕が泣き止むまでずっと、そのまま、そうしてくれていたんだ。
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